2012年3月21日水曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その2

上月城(こうづきじょう)・その2


●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日


◆解説(参考文献『尼子物語』妹尾豊三郎編著など)
【写真左】上月城本丸跡
 本丸はきれいに整備されている。古くなっているがベンチも用意され、休息できる。








南北朝期

 上月城を築いたとされる上月氏は、赤松氏の一族とされ、始祖は山田次郎景盛(父・則景)とされている。
 上月城を築いたのはその景盛で、延元元年(1336)といわれる。延元元年、すなわち建武3年であり、南北朝騒乱の時代が始まる年である。
【写真左】上月氏の碑
 麓に「上月氏発祥之地」と刻銘された石碑が建立されている。








 播磨におけるこのころの支配者は、赤松円心(則村)である。元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇の命によって六条忠顕・足利尊氏らと鎌倉幕府倒幕のため、六波羅を攻略してから3年後、建武の新政は論功ある武家方にとって思い描いた世界とならなかった。ために、尊氏を中心とした武家方と後醍醐天皇を中心とした宮方に分裂した。
【写真左】上月城略図
 本丸に設置されているもので、左側が北を示している。この日は東側(上部)の登山口から向かう。















 円心はのちに武家方として尊氏につくことになるが、その背景には朝廷内における権力闘争がある。

 特に円心は建武元年(1334)の護良親王失脚によってその権力は削ぎ落とされ、やむなく地元播磨佐用に戻った。

 上月城の築城期は建武3年(延元元年:1336年)といわれている。この前年宮方の新田義貞らは、西下した尊氏を追って西進するが、これを食い止めるため、円心は赤穂郡上郡に白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を築いたといわれる。おそらく、上月城も同じ目的で築城されたと考えられる。
【写真左】登山口
 北麓には上月郷土資料館や広い駐車場が確保されている。

 この位置から本丸までは380mと記されている。傾斜はあるものの、九十九折の道で要所には階段が設置され、歩きやすくなっている。



戦国期

 上月城の主だった動きは、前稿の説明板のように秀吉方(信長)と毛利方との争奪戦であった。上月城の位置は、西国の山陽側と山陰側のほぼ中間点に当たる。
 つまり、出雲・美作・備中方面に向かう際の要衝である。西播磨の上月城を抑えることは双方にとって雌雄を決する重要な位置であった。
【写真左】東側の最初の郭
 東側登城道で最初に見えてくる郭で、4,5m四方の規模のもの。この場所は戦略的にも東方を睨む重要な場所だったと思われる。



 秀吉は事前に上月城の城主・赤松蔵人大輔政範に対し、根気よく恭順を進めている。そして、この年(天正5年)の10月19日、城内では政範を中心に評定が開かれた。

 その結果、政範らは毛利氏との盟約を重んじ、秀吉の誘いを断ることになる。この知らせを知った秀吉は、翌月(11月)27日、総勢1万余騎を率いて姫路を経ち、上月城へ向かった。
【写真左】堀切
 上月城の主だった堀切は4か所認められている。このうち、東側については1か所のみで、残りの3か所は西側、すなわち三の丸側の防御に集中している。


 この写真は東側のもので、現在は大分埋まっているが、細い尾根なので当時は効果も大きかったものと思われる。


 秀吉が上月城に向かったという知らせを聞いた岡山城の宇喜多直家は、支援に向かったが、時すでに遅く、籠城40日後(実際の戦いは8日間)、政範は幼い姫二入を刺し、妻共々自らも自害した。その後の秀吉の処置は、説明板にもあるように、残った城中将士はおろか、女子子供200人も串刺し、磔にして毛利方に見せしめのため四方の隣国(備前・美作・播磨)国境付近にさらしたという。

 この後、同月6日、秀吉は姫路に一旦凱旋し、奪取した上月城の城番として山中鹿助が指名された。「備前軍記」によれば、12月3日に尼子勝久・山中鹿助が、それまで待機していた播磨・三木城より秀吉の命によって移ったとされている。
【写真左】本丸直下の腰郭
 堀切を越えると、しばらくして緩やかな道となり、本丸直下で、2段の腰郭が出てくる。
 この写真の郭は、本丸側直下の郭で、この郭はそのまま幅を狭めながら南側に回り込んでいるので、帯郭の形状になっている。


本丸はこの写真では右側になる。
 伐採した枝木がそのままになっているため、分かりにくいが、この郭段と本丸側の比高は約5m前後ある。


 ただ、別説では、当初上月城に入ったのは鹿助のみで、一旦入城したあと、部下を残し、京にあった尼子勝久らを迎えに行ったという。そして鹿助が不在であることを知った宇喜多直家は、部将真壁彦九郎治次に500余騎を与え、夜襲をかけ上月城を奪還したという。

 しかし、鹿助らが勝久を奉じ1000余騎で戻ってくると、真壁の面々は戦わずして岡山へ奔走したという説もある。
【写真左】本丸・その1
 腰郭から北側の道を進んで行くと、本丸につながる。丸みを帯びた三角形で、長径40m×短径30m前後か。


 本丸の南側には東側から回り込んだ帯郭とは別に、単独に2段の腰郭がつながり、最下部には空堀状の遺構も残る。


 どちらにしても、尼子再興を目指す主だった面々が、播磨上月城に久々に聚合再会したわけである。このときの主だった面々は以下の通り。
  • 尼子勝久・尼子氏久
  • 山中鹿助立原源太兵衛神西三郎左衛門元通
  • 日野五郎・福屋彦太郎・亀井新十郎(茲矩)
  • 神西三郎右衛門・吉田三郎左衛門・河副右馬丞・同三郎左衛門・米原助四郎・目黒助次郎・月坂助太郎・平野源介・屋葺右兵衛尉・津森宗兵衛・宇山弥太郎・三吉三郎左衛門・小林勘介・熊谷新右衛門・大塚弥三郎・日野又五郎・田原右衛門尉・大野平兵衛・福山弥次郎・同内蔵充・青砥助治郎・中井與次郎・片桐治部充・渡辺内蔵助・江見平内・加藤彦四郎・妹尾重兵衛・池田縫殿充・本田平次郎・野津次郎四郎・江見九郎太郎・同源内左衛門・加藤新右衛門・足立次兵衛・弟慶松・目加田采女正・同弾右衛門・寺本市之丞・法城寺理安・進藤勘助・秋里目・進左吉兵衛・馬田長左衛門・山佐民部少輔・古志九郎次郎・高橋佐渡守など
以上の者を併せ約2,500余騎といわれている。
【写真左】本丸・その2
 赤松政範の碑
 本丸北側には天正5年(1577)12月3日、秀吉に攻められ落城、自害した城主赤松政範の石碑が建立されている。
 左右の碑は殉死した家臣のものだろう。



 天正6年(1578)2月、織田信長に恭順を示していた三木城(兵庫県三木市上の丸)別所長治が突然反旗を翻した。長治が毛利氏と盟約を結んだからである。これにより、秀吉側は挟み撃ちの形となった。このため、秀吉は後方から攻められる形を防ぐため、東播磨の三木城に向かうことになる。

 この別所長治の動きは、当然ながら毛利方にとって好機となり、4月になると、吉川元春・小早川隆景らは播磨へ出陣し、輝元は備中松山城(岡山県高梁市内山下)へ本陣を移した。そして、上月城に拠る尼子勝久・山中鹿助らを3万の兵で包囲することになる。
【写真左】大平山の上月城
 鎌倉後期(南北朝)時代、上月次郎景盛が最初に築いたといわれる大平山(樫山)の上月城。

 谷を隔てた北側にある山で、本丸から正対する位置にある。
 大平山の方が大分高いようだ。


 その後、三木城を攻めていた秀吉は、この動きに対し、主だった兵力を三木城に残し、一旦荒木村重とともに1万の兵で上月城へ救援に赴くが、毛利氏の3万(別説では5万ともいわれている)に対し、秀吉方はわずか1万の兵であった。

 秀吉方はなす術もなく、その上、三木城の動きが混沌としていた。結局、秀吉は上月城支援よりも、三木城攻略を優先せざるを得なかった。

 この間、秀吉側と上月城側の情報連絡をしていたのが、亀井茲矩亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)参照)といわれている。
 秀吉が上月城支援を諦め、高倉山から引くことを決定した際、茲矩は厳重な毛利方の包囲網をついて上月城の鹿助らに、速やかな退城を進めている。しかし、現実には籠城兵が無事退城できる保証もなかったうえ、兵糧も底をつき、心身の疲労は極地に達していた。
【写真左】本丸から二の丸へ向かう。
 本丸から西に向かって再び細い尾根が続くが、平坦な形状で、№4の郭とされている。
 なお、上月城は全体に北側(この写真では右側)が険峻な切崖となっている。



 孤立無援となった上月城内では、ついに降伏に向けて評定が開かれた。そして毛利方との交渉が使者を使って行われたが、上月城側の懇請した内容は毫も聞き入られず、最後通牒は次のようなものであった。
  1. 城主勝久は罪状重く自害のこと。
  2. 神西三郎右衛門・加藤彦四郎・池田甚四郎も自害のこと。
  3. 山中鹿助は赦すべくものなしなれど、降伏開城の処理を行ったのち、改めて処置を通知する。
  4. 立原源太兵衛は赦すべくものなしなれど、病中の身なれば快癒を待って処分のこと。
  5. その他、籠城の部将・兵卒は悉く助命を認め、開城とともに退散を許す。
  6. 女どもについては一切詮議及ばず。
  7. 開城に当たっては、すべて鹿助によって行うこと。


神西元通の自刃

 毛利氏側の最後通牒の前、上月城では神西三郎左衛門元通が、毛利氏方に厳しい降伏の条件を緩和するよう自害を以て示した。自害した場所は、「城の尾崎」という毛利方からもよく見える郭先端部といわれているので、写真で示した本丸の東方にある郭(現地№8または№7あたり)だろう。
【写真左】二の丸
 №4の郭を過ぎると、二の丸が控える。
 幅7,8m前後×長さ70m前後で、当城の中ではもっとも規模が大きい。





 神西元通については、神西城(島根県出雲市東神西)(その1)や、伯耆国の末吉城(鳥取県西伯郡大山町末吉)でも紹介しているが、月山富田城が落城した後、一時毛利氏に降っていた。そして鹿助が尼子再興を計った際、再び帰順しその後鹿助らと行動を共にしてきた老臣である。
【写真左】上月城麓にある神西三郎左衛門元通公追悼之碑
「出雲市神西城址縁の会」という団体が、平成9年(1997)7月2日、すなわち元通が自刃したとされる日に建立している。





 元通は文武両道に秀でた武将で、尼子譜代の家臣ではなかったが、その人望は厚く、文化人でもあった。

 元通の妻は、因幡私部城攻めにおいて毛利氏に降伏した森脇市正久仍の実姉である。妻も上月城に同行していて、夫と一緒に自害するといったが、元通がそれを許さず、上月城落城後、京都に上がり仏門に入ったが、大変な美貌であったため、織田信長の家臣・不破将監に度々再婚を迫られ、後に世をはかなみ桂川に身を投じたという。

 山中鹿助及び勝久などのその後については、次稿で紹介したいと思う。
【写真左】二の丸付近から北方に利神城を見る。
 現地に「利神城(りかんじょう)」の位置を示したものが設置されている。
 天正5年の秀吉攻めの際、上月城と同じく敵対した。
 この写真では中央やや左側となるようだが、はっきりとは見えない。
【写真左】三の丸
 №3の郭とされているもので、二の丸からさらに西に向かって1mほどの段差を持たせたのち、約20m程度の長さの規模で繋がれている。
【写真左】堀切
 三の丸を過ぎると一気に降るが、その途中には当城で最大の堀切と竪堀が見えていくる。
 この堀切はそのまま尾根両面に竪堀となって下っている。
 ここでも北側に6,7か所の竪堀が設置されているようだ。



◎関連投稿
長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

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