2012年3月31日土曜日

備中寺山城(岡山県高梁市川面町)・その2

備中寺山城(びっちゅうてらやまじょう)・その2

●所在地 岡山県高梁市川面町
●登城日 2012年3月28日

◆解説
 3月20日に当城麓を確認してから8日後の28日、今度は登城を目指して向かった。
 寺山城の登城コースは、車で向かう場合二つある。一つは、西側の谷を上がり途中で鋭角に接続する枝線があり、その道を進む。もう一つは、東側から向かう道もあるが、現在途中で道路の改修工事もあり、大分大回りすることになる。

 ただ、道の精度はこちらの方がいい。どちらを選んでも最終的に寺山城の北側に設置された駐車場にたどり着ける。
【写真上】備中寺山城遠望
 南麓の高梁川を挟んで国道180号線から見たもの。




戦国期

 現地の説明板にもあったように、当城は元亀年間には成羽城主・三村元親鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)に攻められ、天正の備中兵乱(1574~75)においては、毛利軍が陣を張ったとある。

 室町期備中国の守護は細川氏であったが、16世紀に入ると同氏の支配力は衰退し、地元の土豪・農民を中心とした土一揆が頻発、また国人相互の争いも増え、不安定な様相を呈してきた。
【写真左】駐車場付近
 寺山城の背後(北側)に整備された駐車場がある。東西どちらからの道でもアクセスできるが、幅員は車1台分なので、対向車が来た場合、ガードレールがほとんどない道なので注意が必要。

 この写真にある位置から約300m徒歩で向かうと、城域に達する。


 そうした中、守護に変わって着実に力を蓄えたのが、守護代だった木村山城主・上野氏、備中・猿掛城主・荘氏幸山城主・石川氏らである。

 その後、成羽の土豪で鶴首城主・三村氏、備北の楪城主・新見氏、塩城山城主・多治部氏などが急激に台頭してくる。

 三村元親は永禄10年(1567)に、大軍を率いて備前国明禅寺明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)参照)において、宇喜多直家を主力とする浦上氏と戦うも、寄合軍団の域を抜けない統率力の低さから、敗戦してしまった。しかし、その後三村氏は毛利氏の支援を受け、備中松山城を拠点として回復しているので、寺山城はこの段階で三村氏の勢力下に入ったと思われる。
【写真左】城域の入口付近
 この場所からすでに右側に土塁が見える。寺山城を構成している東西に延びた尾根群と、北側から伸びてきた尾根との接合部に当たり、搦手になるのだろう、意識的に両側を削り狭めている跡がうかがえる。



 そして、最終的には毛利氏が備中を押さえるにあたって松山城を拠点としているので、寺山城は北方の守りを固めるための支城としての役割を持っていったと思われる。
【写真左】堀切
 上記の入口から進んで行くと、ご覧の堀切が出てくる。
 写真右側が本丸・西の丸遺構群で、左側に向かうと東の丸及び、馬場跡につながる。

 なお、この堀切をそのまま進むと南側の竪堀・環濠に接続するので、切通的な機能も併せ持っている。


 最初に左側(東)の東の丸・馬場跡コースに向かう。
【写真左】東の丸・その1
 この辺りは尾根幅は狭く、北側は天然の要害を持ち(犬走りのようなものはある)、南面にはご覧のような竪堀状のものが見られる。


 ただ、この竪堀は下に向かって掘られたものでなく、尾根沿いに並行しているラインが長いため、近代戦争で使用されたような塹壕のような役割があったのではないかと思われる。
【写真左】東の丸・その2
 堀切
 東の丸は東西に延びる尾根筋の途中にこのような堀切を設けている。向こう側を登りきると、今度は南に向かってかなり長い郭が伸びる。
【写真左】東の丸・その3
 南に伸びる一段目の郭
 長さ約30m弱のもので、この突端部の下にはさらに3段程度の郭段が控えている。
【写真左】東の丸・その4
 南に伸びる2段目の郭
 写真に見える川が高梁川で、左側が下流となり備中松山城へ向かう。右に向かうと新見に至る。麓は川面の町並み。
【写真左】東の丸・その5
 上記の郭から西方に本丸を見る。
南に突出した3段目の郭から見たもので、この位置から本丸まではおよそ300m程度は離れている。
【写真左】馬場跡・その1
 先ほどの東の丸の3段目の郭から東面に走る帯郭をたどって引き返し、馬場跡に向かう。

 東の丸と馬場跡との高低差は約20m程度あり、現地には階段などは設置されていないため、滑りながら降りていく。
 写真中央上に見えるのが馬場跡。
【写真左】馬場跡・その2
 東の丸を降りた地点で馬場跡の西端部に至るが、この北側に先ほど紹介した犬走りが見える。

 この犬走りをそのまま向かうと、寺山城の北側入り口に至る。
【写真左】馬場跡・その3
 幅10~5m、長さ約100mの規模で、先端部は1m程度高くなっており、櫓台の施設があったものと思われる。

 当城の東端部にあたることから、東方及び北方を扼する役目があったものと思われる。
【写真左】馬場跡・その4
 馬場跡から振り返って東の丸を見る。
馬場跡から再び東の丸へ戻ろうとしたところ、予想以上の高さと勾配であることを改めて実感した。
 




次稿では、本丸と西の丸を中心に紹介したと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿