2010年8月31日火曜日

針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)

針藻城(はりもじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町古市場 古湊
●登城日 2010年2月27日
●別名 七櫓・針藻山鐘尾城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 三隅氏
●城主 大賀氏、三隅兼忠等
●標高 51m
●遺構 七櫓、石垣、郭等

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌」等)
 針藻城は、別名鐘尾城とも呼ばれているが、同名の城砦としては三隅本城の麓にも出城のものがある。今回取り上げるのは、本城に位置するものでなく、三隅川河口に築かれた針藻山鐘尾城である。

【写真左】針藻城遠望
 浜田市街地と三隅町の中間地点に聳える霊山・大麻山(599m)頂上の展望台から見たもの。
 針藻城は、写真左に見える三隅川河口にある小丘部で、真後ろには三隅火力発電所の煙突が見える。
 発電所の左に聳えるのは、源田山(263m)で、当山にも中世山城である「大多和外城」や「碇石城」など三隅氏ゆかりの史跡が点在する。



 現地の説明板より

史跡 針藻城跡
 針藻城は、弘安の役(1281)以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したものである。このころ、石見地方に築かれた18砦のひとつである。
 南北朝時代以降は、三隅城の支城として要塞化された。また、河口や古湊を利用した、三隅水軍あるいは朝鮮貿易の拠点であったとも考えられている。

 大賀氏は、正長元年(1428)に城主となって以来、三隅氏の家臣として海事を担当したと伝えられている。
 戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城した。弘治3年(1557)のことであった。
   三隅町教育委員会”

【写真左】針藻城東麓に建立された石碑・墓碑など





 地元郷土史「三保村誌」によれば、南北朝時代にはこの砦は孤島として、針藻島と呼ばれ、当時三隅氏が海城形式の支城を設け、針藻山鐘尾城を築いたとされる。
 下って正長元年(1428)2月6日、土佐国(高知県)大崎城主であった大賀政清は、上杉家と合戦に至り、敗れた結果、この地に来住し、三隅氏の客将として針藻城を預かったとされる。
【写真左】石碑の隣に設置された墓石
 形式からいえば、宝篋印塔になるが、架台部分など大分欠損している。



 土佐国の大崎城とは、現在の高知県仁淀川町の大崎小学校の西にある小山と思われるが、戦国期には、甲斐国の武田勝頼が落ち延びたという伝承もある。
 太平洋側の四国・土佐国から、全く反対の日本海側の石見の国に来住するということ自体が、驚きだが、意外なことに、石見国は平安末期から戦国期に至るまで、四国それも太平洋側の阿波国や土佐国との交流がしばしば見受けられる。
【写真左】針藻城の北麓部の道路から、鞍部を見る
 登城路は、三隅川河口部から一旦海岸線の道を通り、民宿のような建物を過ぎた地点から当城に上る道が支線として分岐している。
 もっともこの道は、写真に見える鞍部に造られた農園関係者の利用がほとんどのようだ。
 この写真では、針藻城は左側になる。



 最も代表的な例としては、徳島市の「一宮城跡」(2010年1月15日投稿)にも紹介したように、石見小笠原氏が、阿波小笠原氏の流れであることや、江津市の「本明城」(2009年2月5日投稿)で、当城最後の城主福屋隆兼が落ち延びた先が、徳島の蜂須賀氏であったことなどである。
 両国には、そうした長年にわたる人的な交流を結ぶ、何らかのネットワークが存在しているようだ。
【写真左】針藻城本丸から西の頂部を見る
 針藻城本丸跡と隣り合うように西側にも頂が見える。三隅町誌によれば、石見18砦のとき(弘安の役・1281年)、7カ所の櫓が設けられていた。
 このため針藻城は、別名七櫓(ななやぐら)ともいうが、そのうちの一つが写真に見える櫓跡である。当城の中では最も最高所にあり、戦国期に至るまで、本丸を補完するものとして使用されていたものと思われる。



 さて、大賀政清は、針藻城主となってから、名を政豊と改め、三隅氏の家臣として専ら海事(水運)を担当する。
 この後の当城歴代城主名を下段に示す。

大賀政清(政豊・初代)⇒豊常(2代)⇒常道(3代)⇒道世(4代:鐘尾にて戦没)⇒道豊(5代:駿河守従大位下:尼子氏に加勢)
【写真左】西側から針藻城本丸を遠望する
 本丸と西側頂部の間は、現在農園が造られている。かなり面積としては広い鞍部で、郭跡であった可能性が高い。


 ところで、現地の説明板中、下線を引いた個所「針藻城主が尼子氏に味方した」というのは、三隅兵部少輔兼忠という人物である。三隅町誌では、兼忠は三隅家15代としているが、そうなると、三隅本城の最期の城主・隆繁も15代であったから、矛盾してくる。

 兼忠は、大賀家5代当主道豊の客将として、針藻鐘の尾城で毛利氏に降伏し、寄手の益田藤兼はこれを益田城下(七尾城か)に扶養して卒えさえたといわれるが、別の記録では、兼忠は益田家に引き取られ、益田兼康の弟惣右衛門尉兼久の養子となり、三隅姓を名乗り、萩藩に移り子孫栄えて、22代勘右衛門は、大組で高200石を受け、萩藩閥閲録にも載り、数多くの事績を残している、とある。

【写真左】本丸の西側麓付近からみた日本海
 写真左側に見える坂道が、現在針藻城に向かう唯一の道。
 突き出した護岸堤防付近は、三隅港で、奥に見える島は高島になる。 



 三隅氏の家臣であり、針藻城主でもある大賀氏が、三隅氏累代の将を客将として迎え入れていることは、三隅本城の15代城主・隆繁と同族であったことは間違いないだろうが、具体的な関係は分からない。

 ただ、三隅町誌によれば、三隅氏15代が兼忠であり、兼忠の子・寿久は、毛利輝元より養仙軒の号を貰い、吉見正頼・広頼父子の御附となって、忠節を尽くしたという。寿久の跡は嫡男元久(元信)と至り、彼には実子がなかったため、弟作蔵(後の就重)と続いた、と記している。

 参考までに同誌(三隅町誌)では、三隅氏系図として6種類のものを挙げている。
①享保譜録(萩閥 683三隅勘右衛門録上)
②「大家」家文書(三隅氏系図)
③「三浦」家系図(竜雲寺系図)
④島根県史蹟名勝天然記念物調査報告(野津佐馬助)
⑤寛保譜録(三隅作右衛門録上)
⑥石見三隅史蹟の三隅氏系図(木村晩翠)

 どちらにしても、いずれの説が正しいのか、管理人としては判断がつかない。
【写真左】本丸南側の郭付近
 この写真は南側に当たるところで、さらにこの位置から下っていくと、切崖状態になる。
 この日登城した際、畑で仕事をしておられた御年配の男性に当城について、貴重な話を聞くことができた。
 この方は、70代ぐらいの方だが、自分が子供のころ(戦前)、この崖下で多くの刀や屍がでてきたという。
 また、戦時中(第2次世界大戦)、この針藻城本丸や、西側頂部に監視台があり、敵機来襲を見張る役を、自分の父親がここで任務していたので、自分は弁当などを持って上ったという。
 
【写真左】本丸跡に立つ展望台
 本丸跡そのものはさほど大きなものでないが、眺望は極めてよい。
【写真左】針藻城から三隅川河口を隔てた湊浦の街並みを見る
 写真に見える街並みは、旧三保村といわれたところである。
 なお、この中に、針藻城主だった大賀氏の末裔が現在も住んでおられるとのこと。
 
 また、この写真の後方に見える山並みで、一番右に見えるのが、三隅高城である。
【写真左】針藻城から南方に茶臼山城を見る
 写真中央やや左に見える山で、茶臼山城はまだ投稿していないが、後期三隅高城の三城の一つといわれた支城である。

 先ほどの御年配の方から聞いたもう一つの話として、自分たちが子供のころ、三隅高城、茶臼山城、針藻城ともう一つの三隅支城(名前は忘れたとのこと)に、それぞれ手分けして登り、「狼煙」を挙げて戦国気分を体験したことがあるという。

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