2010年8月8日日曜日

三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)

三隅城・その2

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌上巻」等)

益田氏

 三隅城を築いたとされる三隅氏を語る前に、本家であった益田氏を最初に紹介しなければならない。
 元暦元年(1184)5月、梶原景時は下文を発し、益田(藤原)兼高を石見国押領使に任命。ついで同月、源義経は、さらに石見国御家人に対し下文を発し、押領使・益田兼高の下知に従い、平家の追討を行うよう命じる。

 以上は益田家文書に残る資料だが、当時山陰地方での平家与党として有力な武将だったのは、出雲国の岐須木次郎兄弟及び、横田兵衛尉らで、進軍ルートとしては、当然ながら石見国から出雲国に向かう構図だった。

 戦の結果は押領使・益田氏の率いる石見軍の勝利で、早くもその年の11月25日に、頼朝より益田兼栄・兼高父子の所領が安堵された。この後益田氏は着々と石見国支配に領土を広げていく。

【写真左】三隅高城遠望
 三隅城の西麓国道9号線脇から撮ったもの






三隅氏始祖

 三隅家の祖となったのは、兼高の第2子で、兼信とされている。

 兼信が領した土地は、三隅郷及び永安別符で、那賀郡の南部地域である。居住を開始した時期は、三隅城が築城されたという寛喜元年(1229)とされ、承久の乱後、西国で多くの地頭が任命された時期と重なる。

 このころ益田氏から分家した他の支族としては、先述した福屋氏があり、兼高の第3子・兼広が、有福・跡市に天福元年(1233~34)、本明城(2009年2月5日投稿:参照)を築き、福屋氏初代となった。

【写真左】三隅城登城口付近
 車で当山の9合目付近まで行くことができる。駐車スペースも3,4台は確保されており、便利だ。
 写真左側が登城路始点で、右は下り方面で1.5キロ程度下がると、龍雲寺がある。


 また、周布氏は、周布城(2009年2月3日投稿:参照)で紹介したように、兼高の第1子・兼季の二男・兼定が始祖とされている。彼は次郎左衛門尉といい、那賀郡周布の地頭となり、三隅城が築城される時期とほぼ同じ頃の安貞2年(1228)、周布鷹ノ巣に築いた。

 さて、三隅氏初代・兼信は、仁治3年(1242)末になると、先述した所領地の一つである永安別符(浜田市弥栄町長安本郷)を次男・兼祐に譲り、兼祐は当地名をとって、永安氏の始祖となった。
 彼が築城したのは、永安城(別名矢懸城)である(2009年12月2日投稿:参照)。 
【写真左】北側の郭
 最初に見える遺構で、前稿で示した「五段郭」付近で、その上が「三の平郭」になる。



 その後の三隅氏直系の系譜としては、複数の資料があり、どれが正式なものかはっきりしないが、益田氏の祖・御神本氏系図によれば、兼信の嗣子・兼村が引継ぎ、以下兼盛(信時)・兼連(信性)と続き、兼連の二人の子・兼知と兼春が生まれ、兼春が三隅氏を継ぎ、その子には兼覧・千福の二人が記されている。

 なお、兼連の子としては、もう一人・兼雄がいたとされ、彼は鳥屋尾(とやお)氏始祖となり、息子兼時は、三隅城から北東約5キロ向かった井野の上今明に、鳥屋尾城(480m)を築く。ただ、資料によっては、兼時の父を三隅氏庶流の井村兼武とするものもある。

【写真左】二の平端にある本丸櫓跡
 現状は大分崩壊しているが、当時の面影は十分残している。この位置が三隅高城の最高所となる。



 元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から船上山に拠って、西国武士に鎌倉倒幕の綸旨を起こした時、以前にも紹介したように、石見国からは、佐波顕連・周布彦次郎兼宗・益田兼衡・同兼家・同兼員らと共に、三隅兼連が馳せ参じた。

 その時の動きについては、「高津城」(2009年12月24日投稿)をご覧いただきたい。

 その後、いわゆる南北朝時代となり、暦応5年(1342)2月、尊氏派の派遣将軍・上野頼兼の軍が、三隅城に攻め入ったが、当城は落ちなかった。三隅城のそうした要害堅固な特徴がさらに発揮されたのは、8年後の観応元年(1350)の戦いである。

【写真左】本丸櫓跡その2
 上記写真と反対側の南から撮ったもの。なお、全体に東側の方は伐採されていないため、遺構が分かりずらいが、かなりの切崖状となっている。やみくもに伐採すると、崩落する可能性があるからだろう。



 この年6月21日、光巖上皇は、院宣により足利直冬の追討を命じる。

 これにより高師泰が石見国へ出発。直冬はこのときすでに石見国に入っており、7月20日には出雲市(旧平田市)の鰐淵寺に祈祷を命じている。8月に入ると、出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉らが、直冬に応じて挙兵を行う。

 高師泰の軍が三隅城を攻めはじめたのは、おそらくこの年の10月初旬と思われるが、結局、当城の堅牢さと併せ、当時周防・長門(山口県)の動きが攻囲を支えたため、三隅城は堕ちなかった。

 周防では、10月大内弘世が師泰の軍を攻め、師泰の代官山内彦次郎通秀入道行聖を討ち取り、弘世の長男・但馬権守弘員は、上野頼兼の守護代乙面左近将監を追い落として、三隅城の援護に回った。

 こうした結果、年が明けた1月には、師泰らはあきらめて引き揚げている。「太平記」の中に「三角(三隅)入道謀叛事」として、

「…石見国中に32カ所ある城は皆落として、今はただ三角入道(三隅兼連)の拠る三隅城一つ残った。この城山は険しく用心深く、たとえ力攻めににしても叶わず、援けの兵も近国になし…」

 と記されている。
【写真左】二の平・三の平の西側帯郭
 前稿で転載している平面図では表記されてないが、現地は上段の郭(二の平・三の平)の下段にも写真のような帯郭が構築されている。

 この個所は西側に当たり、石積み(石垣)の崩落した状況に見える。全体にどの石も規模が大きいものを使用していたようだ。



 師泰が1月の段階で石見を離れた理由のもう一つは、この年(1351)1月14日には、足利直義が地元の武将・諏訪部扶重(三刀屋)に高兄弟の誅伐を命ずるなど、足利直義軍が高師直・師泰兄弟を討伐するため諸国に兵を募り、翌年京都に進撃したことが大きな理由でもあった。

 2月20日、京都を目指していた尊氏軍は、摂津打出浜で直義軍と激突。尊氏軍は直義軍に敗れ、高師直・師泰の出家を条件として和議を結んだ。高兄弟は摂津から京都へ護送中に、上杉能憲に殺された。2月26日のことである。上杉能憲は、師直に殺害された重能の養子である。
【写真左】三の平の2段目郭
 幅は全体に20~25m程度の郭だが、この南端部の三の平の2段目は、さらに帯郭状に仕上がっている。当日この場所からさらに下の方へ向かったが、途中からブッシュで踏査不能となった。

 前稿で紹介したように、この下には「東丸跡」や「一の砦跡」があり、さらにそれを過ぎると当時の「大手道」があった。



 師直は以前にも紹介した(「塩谷氏と館跡・半分城」2009年1月4日投稿)ように、塩冶判官高貞の妻に横恋慕し、最後は讒言を以て同氏を追いこみ自刃させた張本人である。


直冬の上洛戦と兼連の討死

 正平8年(1353)9月、直冬は朝廷より惣追捕使を命ぜられ、尊氏の討伐を任せられた。このとき三隅兼連をはじめ石見の兵を率いて山陰道を東上、翌年1月入京し、勝利を南朝にもたらした。このため、尊氏らは後光巖院を奉じて近江国武佐に一旦逃れた。
【写真左】本丸跡から北東方向に、水来山、大麻山を見る。
 山が重なった状態にみえるが、手前が水来山で、奥の青濃色の山が山岳信仰の大麻山(599m)である。



 その後、尊氏は再び戦力を整え、近江を発し東坂本へ侵攻、山名時氏を敗走させ、洛中の諸所で合戦を交えた。3月12日は特に激戦となり、直冬は七条に敗れ、三隅兼連は討死した。

 直冬の上洛戦は、彼自身にとって最初で最後の天下取りの戦であった。その戦で三隅兼連は最期を遂げたわけである。

 「石見軍記」によれば、石見に帰った直冬は、兼連の娘を娶って、伊豆守兼直を産み、兼直は三隅の総家を継いだ。そしてその子孫に隆繁が出たとしている。この説でいくと、前段で示した御神本氏系図とまったく合致しない話になるが、直冬がいかに兼連に全幅の信頼を置いていたかを示すもので、後世の美談話として十分理解ができる。
【写真左】本丸跡から東方を見る
 この写真のさらに奥に向かうと、三隅氏一族の井村氏の居城・井野城が控える。

【写真左】本丸跡から三隅川河口の田の浦海岸を見る
 写真河口付近に見える小丘は、針藻城(七櫓)で、石見18砦の一つでもある。
【写真左】西丸跡その1
 杉の植林などで、写真では分かりずらいが、規模は極めて大きい。

 奥行きは上段の郭で50~60mあり、さらにその先に数段の郭が連続しているので、総延長は100mは十分にあるだろう。
【写真左】西丸跡その2
 先端部にも連続する郭が続いているが、南側にも3,4段の腰郭が残る。

 南側は大手側に接近しているため、この位置から下っていけば、まだ他に遺構が残っている可能性がある。

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