2022年4月26日火曜日

安芸・生城山城(広島県東広島市志和町志和東)

 安芸・生城山城(あき・おおぎやまじょう)

●所在地 広島県東広島市志和町志和東
●指定 東広島市指定史跡
●高さ 485m(比高260m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 天野興定
●城主 天野氏
●遺構 郭、土塁、堀切、柱穴等
●登城日 2017年11月4日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 安芸・生城山城(以下「生城山城」とする。)は、広島県の旧賀茂郡志和町に所在した山城である。賀茂郡ということからおそらく平安時代頃までは京都賀茂神社の社領地であったと思われる。

 志和町を流れている主な河川としては、関川という太田川水系のものと、瀬野川の二川がある。このうち、生城山城はこの関川とその支流・東川に挟まれた生城山(H:485m)に築かれている。
【写真左】生城山城遠望
東麓の東川側から見たもので、生城山は低山の割に裾野が広い。






現地の説明板より

”東広島市史跡
 生城山城跡
          昭和53年(1978)11月5日指定

 生城山城跡は、鎌倉時代の末期に伊豆国天野郷(静岡県伊豆の国市天野)から地頭として志和に来住した天野顕義(あきよし)から9代目の興定の時に築かれた城であると伝えられています。

 天野氏は、初め山口の大内氏に従っていましたが、興定のときに出雲(島根県東部)の尼子氏に属しました。このため、大永5(1525)年その当時志和東の米山城(こめやまじょう)に拠っていた興定は、大内氏に攻撃されたので、和議を結んで再び大内氏に従いました。
【写真左】麓にある光源寺
 登城口は東麓にあるが、そこには浄土真宗本願寺派で山号も「生城山」とする光源寺が建立されている。

 この場所は、説明板にもあるように、戦国期殿様屋敷と呼ばれた居館があった。また、家臣たちの屋敷はこの場所からさらに北に伸びて長松地区まであったといわれている。
 駐車場は当院の駐車場を借りることができる。
【写真左】生城山賛歌の石碑
 生城山(城)を讃え、念仏と共に栄えあれと詠う。

 





 その後、生城山城は、戦国期の城にふさわしく山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸や、見張りの壇、お馬が壇と呼ばれる郭、侍屋敷などが整えた、大規模な城となりました。なお、本丸にある巨石の柱穴は櫓跡で、居館は東麓、現在の光源寺付近にあったと伝えられています。

 このように、生城山城は、天野元政(毛利元就の七男)が関ヶ原の戦い(1600年)後に周防国熊毛郡三丘(山口県)に移るまで天野氏の居城でした。

  東広島市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 光源寺の西側にある谷から渓流沿いに登って行くと、溜池があり、その近くに「金玉水」という名水の石碑が建てられている。そこからさらに上に進むと、右側に「生城山城跡 登山口」と書かれた標識がある。


天野氏

 生城山城の築城者である天野氏については、すでに財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)の稿でも触れたように、財崎城の天野氏とは同族であるが、別系統である。

 天野氏は藤原姓で、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した際、天野遠景がこれに従って戦功を挙げ、4代遠顕が当時の安芸国志芳荘東村(志和町志和東一帯)の地頭職を得ている。
【写真左】「通行止」の標識
 しばらく登って行くとピークを迎えるが、そこで左側に向かうと「子生城山へ」と書かれた看板が地面に落ちていた。

 その方向には御覧の「通行止」の看板が設置されており、「子生城山」に向かうのは断念し、北の方へ進む。


 安芸の国に下向したのは、5代顕義で、最初に居城としたのが、生城山城から南に2キロ余り向かった県道46号線沿いにある米山城である。
 生城山城を築いた時期は明確でないが、説明板にもあるように、9代興定の頃といわれている。
【写真左】土橋
 この辺りから小郭などが散見され始め、しばらく行くと土橋が現れる。






毛利・天野氏、尼子氏から大内氏に帰順

 当初興定は大内氏に属していたが、出雲の尼子氏が大永3年(1523)大内方の蔵田備中守房信の守る鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を陥落させると、興定は尼子氏に鞍替えした。これに対し大内義興も翌4年5月、嫡子義隆を引き連れ、安芸国に入り、尼子氏が奪取していた属城の攻略に掛った。

 興味深いのは、この年の7月から8月頃まで毛利元就は尼子氏と連合し、大内方の銀山城などを攻撃しているが、翌5年6月になると、毛利元就は一転して尼子方から離れ大内方に与していることである。ちょうどこのころ米山城にあった天野興定も元就と同じく大内方に服属している。
【写真左】竪堀
 土橋の近くには竪堀が数本見られる。









 興定が大内方に再び帰順する際、その対応に当たったのが陶興房である。毛利、天野のほか多くの安芸国の国人領主がこのころ大内氏に帰順しているが、これらは陶興房によるところが大きい。

 陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)の稿でも述べているが、興房には戦況を冷静に見据える判断・能力は無論のこと、人を引き付ける稀有な才能があったと思われる。

 そして直後の8月6日(大永5年)、陶興房は大内氏に帰順した興定らとこの志和荘で尼子経久と戦い、以後しばらく安芸・備後両国で両者の戦いが続くことになる。
【写真左】次第に傾斜がきつくなる。
 登城コースには御覧のような「落石注意」の看板が数か所にわたって置いてある。
 所々でこうした大きな岩や石が斜面に露出しており、崩れやすいのだろう。
【写真左】最初に見えた規模の大きい郭
 途中まで小郭が散見されたが、この郭は本格的なもので、尾根全体を削平したものだ。
【写真左】亀岩
 先ほどの郭から再び岩塊の登坂を登って行き、振り向くと亀のような形をした岩が見える。

 息が上がっていたこともあって、この亀岩には癒される。
【写真左】本丸に到着
 右下には赤い箱があり、POSTと書かれている。
【写真左】生城山城の説明板
 大分年数が経ったせいか、文字がはっきり読めない。
【写真左】本丸中心部
【写真左】三角点



【写真左】金明山城遠望
 本丸から北方を望むと、金明山城が見える。
 金明山城は未登城だが、城主は生城山城の天野氏と同族だが、米山城の初代天野顕義とは従兄弟になる政貞で、築城期は室町前期(南北朝)といわれる。
【写真左】北東方面を見る。
ほぼ中央部の先には沼田川水系の福留ダムがある。
【写真左】東方を見る。
 この写真に見える山並みの一角には古刹並滝寺がある。
 当院も戦国期戦禍を受けた。(下の写真参照)
【写真左】並滝寺
 生城山城から東へおよそ4キロほど隔てた志和町志和東3439番地にある古刹で、天平5年(733)行基によって創建された真言宗御室派の寺院。
 東広島市指定有形文化財。

 生城山城主・天野隆綱が特に関わったとされ、大永年間の尼子・陶(大内)の戦いで戦禍を受けた。
写真:茅葺の山門。
参拝日 2010年11月1日

【写真左】南東方向を見る。
【写真左】南方向を見る。
 この方向に天野氏が最初に居城とした米山城がある。

2022年4月21日木曜日

炬口城(兵庫県洲本市炬口97)

 炬口城(たけのくちじょう)

●所在地 兵庫県洲本市炬口97-1外
●高さ 96m(比高80m)
●指定 兵庫県指定史跡
●築城期 永正年間(1504~20)
●築城者 安宅氏か
●城主 安宅秀興、安宅吉安、秀益等
●遺構 郭、土塁等
●備考 万歳山・秋葉山
●登城日 2017年9月9日

解説(参考資料 洲本市HP等)
 炬口城は以前紹介した洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)から北北西に直線距離で2キロ余り隔てた万歳山に築かれた城郭である。
【写真左】炬口城の鳥瞰図
 洲本市教育委員会の資料を元に、管理人が想像して描いたもので、北郭から二の丸にかけてはかなり大きな堀切があり、東斜面の竪堀とは別に西側斜面にも畝状竪堀群が構成されている。

 また、本丸は左図にもあるように、中央部の低くなったところが本郭で、その南及び北にも一段高くなった郭(南郭・北郭)が本郭を囲むようになっている。

 虎口は図では東斜面のみしか描かれていないが、西側にもある。

安宅八家衆

 炬口城についてはこれまで洲本城河内・飯盛山城、並びに丹波・八木城・その1で少し触れてきたように、三好長慶が畿内を支配したころの主だった城郭の一つで、長慶の実弟安宅冬康が淡路島を支配下に治めていた居城の一つである。

 ところで室町後期、それまで淡路国守護であった細川氏が、阿波の三好氏に滅ぼされたのは永正16年(1519)といわれる。
 永正14年の三好之長(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)による淡路侵攻によって一旦和泉に逃れた淡路守護第7代の細川尚春は、その2年後の永正16年阿波国において之長によって殺害され、ここに淡路守護細川家は没落した。
【写真左】炬口八幡神社
 炬口城の南麓に鎮座する社で、境内側から炬口城へ向かうコースが設定されている。

 同社は平安時代中期に石清水八幡宮の分霊を勧請し創建された。宝物庫には新田義貞甲冑が保管されているが、これを奉納したのが炬口城主・安宅駿河守だと伝えられている。


 この後同国内(島内)では各地の国人領主が台頭する状況が出たが、その中でも最強の勢力を誇ったのが安宅氏である。
 安宅氏については、すでに白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)の稿でも紹介したように、阿波水軍を率いた水軍領主で、同氏はその後淡路島内の主だった要所に8か所の城を築いた。これが「安宅八家衆の城」と呼ばれている。
【写真左】案内図
現地に設置された里山防災林整備事業の説明板に炬口城を示す万蔵山を中心とした地図があったので、参考までに添付して置く。



安宅八家衆の城
  1. 洲本城  洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)(参照)
  2. 炬口城      洲本市炬口97
  3. 由良古城     洲本市由良町由良古城山
  4. 猪鼻城      洲本市千種丙字猪鼻
  5. 白巣城  白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)(参照)
  6. 安乎城(城腰城) 洲本市安乎町
  7. 岩屋城      淡路市岩屋
  8. 湊城       南あわじ市湊
【写真左】登城口
 境内を抜けて奥の方に向かうと、左側に階段が見えてくる。手前に標柱が見えているが、これに「万蔵山、炬口城跡登山口」と書かれている。



安宅冬康・信康

 白巣城の稿でも述べたように、天文18年(1549)三好長慶は、実弟の冬康を安宅氏に入れ、淡路水軍をより強固なものとしていった。しかし、のちに長慶がその冬康を殺害するという事態が生じると、次第に三好一族の瓦解が始まることになる。

 冬康が亡くなったあとを引き継いだのが信康といわれる。このころはすでに三好一族の基盤は松永久秀や三好三人衆にとって代わり、三好氏惣領家の力は微力なものとなっていた。
【写真左】東側の虎口に向かう分岐点
 登城したのが9月だったこともあり、登城道の前半は草丈が伸びていたが、途中からしっかりした道になった。

 写真はこの位置から左に登ると炬口城の主郭に繋がり、そのまま奥の道を進むと、炬口二町目、戎神社方面へ繋がる。


 信康は元亀3年(1572)織田信長に降り、信長の臣下となって戦い続けた。中でも天正4年(1576)の第一次木津川河口の戦いを皮切りに、織田VS毛利の戦いに参戦した。
 信康の名はおそらくこの時信長から偏諱を受けたものだろう。しかし、この信康も天正6年(1578)にわずか30歳で死去したとされる。

 もっとも信康以降の安宅氏の動きについては、一次史料で実在そのものを示すものがなく、今のところ詳細は不明である。
【写真左】虎口
 分岐点から登坂を上がっていくと虎口が見えてきた。
 草丈が伸びているため、周辺部は不明瞭だが、右側に向かうと一段高くなった北郭があり、左に向かうと、同じく一段高くなった南郭がある。
 虎口を過ぎると、本郭の中央部に向かう。


縄張り

 炬口城はおよそ南北に伸びる尾根筋に本丸、二の丸、そして北端部に出丸を配置する縄張構成となっている。本丸は方形による区画がなされ、南北約50m×東西約50mの郭を中央に配し、周囲には土塁が囲繞している。この土塁の外側南北尾根筋にはそれぞれ堀切が配置されより効果が高まっている。
【写真左】本郭
 ほぼ四角形の形をした郭で、写真はその中心部に当たる。
 東西の虎口以外は土塁で囲繞されている。



 本丸の中は中央部が低く、南と北にそれぞれ高くなった段(南郭・北郭)で構成されている。また、虎口が東西にそれぞれ1か所づつ設けられ、中央に向かうようになっているが、東側のものは入ってすぐに北郭にアクセスするようにもなっている。

 本丸の北端部はかなり大規模な堀切が配置され、その北側に二の丸が控える。洲本市教育委員会によれば、この堀切は淡路島の中でも最大規模のものとされる。
 なお、本丸・二の丸から少し隔てた北側には東西に延びた削平地を持つ出丸が控えているが、現状はあまり整備されていないようだ。
【写真左】中央部から南方向を見る。 
 奥に土塁が見える。このあとその土塁に上がることにする。
【写真左】土塁に上がる。
 ちょうど手前(虎口の南隅)に階段があったので、ここから土塁に上がる。
【写真左】土塁天端から本郭を見る。
 木々や雑草が繁茂しているため、分かりずらいが、左側が西の方に伸びる土塁で、右下に北郭が見える。
 このあと、土塁の上をぐるっと時計回りに進んでみる。
【写真左】西側付近
 土塁の保存度は木立が生えているものの良好で、この位置からは中がよく見える。
【写真左】切岸
 土塁の外側を見たもので切岸となっている。
【写真左】土塁の角を曲がって北側を見る。
 右側に土塁が手前まで延びてきている。
【写真左】北郭の段
 手前と奥の間に窪みが設けられている。
【写真左】中側から土塁を見る。
 土塁から中の郭に降りてみたもので、この位置から見ると土塁の高さが予想以上にあることが分かる。
【写真左】竪堀の始点
 順番が前後するが、西側の土塁の一角には竪堀の始点と思われる個所が見える。
 ただ、見方によっては馬出しにも見える。
【写真左】この先から空堀
【写真左】竪堀
 空堀の方へ向かう途中に竪堀もある。
【写真左】空堀
 当城の見どころの一つで、この空堀の遺構は見ごたえがある。
【写真左】石碑の残骸?
 花崗岩のような石材で、角型の石造物の一部と思われるが、屋根のような形もあるので灯篭のようなものだったかもしれない。
【写真左】空堀から土塁を見る。
【写真左】二の丸
 空堀を越えてさらに北に登ると二の丸が控える。
 本丸ほどの丁寧な普請は感じられないが、広さはかなりのものだ。
 このあと再び本丸に戻る。
【写真左】北郭
 本丸の北部にある郭で、おそらくこの辺りが最高所だろう。
 このあと本丸周辺を散策した後、一旦登城道の分岐点まで戻り、もう少し奥の方へ向かう。
【写真左】洲本城遠望
 本丸付近からの眺望は今一つだったが、登城道の一角から南方の洲本城が確認できた。 

 安宅氏が支配していた頃、両城間で烽火などを使って連絡し合っていたのだろう。
【写真左】再び空堀
 先ほど本丸と二の丸の間にあった空堀が、北に進むこの登城道まで延びてきていた。
 かなり長い規模の空堀である。

2022年4月13日水曜日

備中・折敷山城(岡山県笠岡市走出字要害)

 備中・折敷山城(びっちゅう・おりしきやまじょう)

●所在地 岡山県笠岡市走出字要害
●別名 尾敷山城、尾鋪山城
●高さ 60m(比高30m)
●築城期 不明
●城主 有岡氏、小田氏
●形態 丘城
●遺構 郭、堀
●登城日 2017年9月16日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備中・折敷山城(以下『折敷山城』とする。)は、笠岡市の北端走出の地にあって、その北側には小田川が東西に流れる。
写真左】折敷山城遠望
 麓から見たもので、高さが60m前後しかないため一見するとありふれた小丘に見える。





現地の説明板より

折敷山(尾鋪山)城址

  折敷山城は『備中府志』に天文年間(15321555)の頃、城主は有岡新之丞(摂州池田の有岡城城主池田正充の次男)であったと記してある。

 新之丞の出奔後、走出村は小田氏領となり、小田政清(小田氏第五代)が城主となった。 永禄年中(155869)の頃の城主は政清幕下の有岡右京(新之丞の弟)と、名越修理であった(走出村明細帳)。

 永禄12年(1569)小田乗清(小田氏第六代高清の弟)が城主となり、続いて小田元家(小田氏第七代)が城主となった。

 徳川時代になると、走出村は徳川氏の直轄地となり、折敷山城は楢村(ならむら)監物に任された。後に一国一城制となり、折敷山城は廃城となった。

本丸 5,000㎡   西ノ丸 1,300
北の丸 1,000㎡   的場 500㎡   弓場 500

    北川の昔を訪ねる会
    北川公民館“
【写真左】案内標識
 登城したのが5年前だったこともあり、記憶がはっきりしないが、北側の搦手から登城したと思われる。

 写真は、「北川の昔を訪ねる会」という団体が設置した標識。「卍33番札所 212m」と書かれている。


中世小田川流域の地勢

 折敷山城の北方を流れているのが小田川である。この川は現在東に下って真備町付近で高梁川と合流している。しかし、古くは井原市南端で東西に分流し、山裾を西流し、広島県側の芦田川にも流れ込んでいたという説も残る。
【写真左】折敷山城要図
 現地に設置されていた説明板の添図で、中央右に本丸、左に堀切を挟んで西の丸、北側にも堀切を挟んで北の丸があり、本丸の南側には帯がが2段構成されている。

また、南側には弓場、的場といった単独の遺構も残されている。







 折敷山城は、この小田川がもたらした東西に長い田園地帯に独立した丘城として見えるが、添付した想像図にもあるように、中世戦国期に同川の築堤はほとんど構築されておらず、毎年のように川の流れも変わり、しかも川幅は現在の低地に広がる田園とほぼ同じ規模を持っていたものと思われる。

【上図】中世の小田川地勢想像図
 管理人が作図したもので、小田川は右(東)へ流れ、高梁川と合流する。


 加えて、東隣の矢掛町側には「浅海」という地名も残り、折敷山城を含めたこの付近は東西に長い湖を形成していた可能性が高く、折敷山城を含む2,3の小丘も、大げさに言えば瀬戸内に浮かぶ島嶼の景観と変わらない姿だったかもしれない。

 実際江戸期まで、東方の矢掛町には廻船問屋などがあったことから、折敷山城は当時河城若しくは、海城として水運の機能も兼ねた城郭であったと推測される。
【写真左】左手に墓地
 中腹部には墓地があるため、この位置までは簡易舗装がされている。

 上記要図(見取り図)と対比すると、本丸を囲繞している三の壇の位置になる。


小田氏

 折敷山城の初期の城主は説明板にもあるように、「天文年間(15321555)の頃、有岡新之丞(摂州池田の有岡城城主池田正充の次男)であった」とされている。

 これより遡る記録では、南北朝期の北朝方(幕府)の家臣床上小松が後に小田清秀と名乗り、正平24年(1369)小田の地に入封したという。そしてこの時、小田・甲弩・山口・新賀の4か村を領した。この4か村はいずれも小田川の支流尾坂川沿いの地区である。
【写真左】北の丸
 墓地の上が北の丸になる。
折敷山城の現状は御覧の通り竹で覆われ、簡単には中に踏み込めない。
 よく見ると、北の丸も上段と下段で構成されているようにも見える。



 因みに、尾坂川沿いにある甲弩神社は、奈良時代に創建された古刹で、源平争乱の兵火により社殿が焼失したが、小田氏が多くの社領を寄進し、再建したとされる。
 また、甲弩神社の南方にある神護寺は、戦国期の永禄11年(1568)、小田高清を大檀那として本堂が建立されている。

 さて、その戦国期になると、小田氏は毛利氏の麾下となった。本稿の折敷山城の他に笠岡市山口にあった馬鞍山城も持城とした。
【写真左】分岐点
 右へ北の丸、正面へ西の丸、左へ本丸と書かれている。
 先ず正面の西の丸を目指す。
【写真左】真っ直ぐ行く。
【写真左】北の丸手前
 途中の右手にあったもので、
竹・木が生えいて入れない 北川の昔を訪ねる会」という看板が建てられている。
【写真左】北の丸頂部
 看板では中に入れないとあったが、強引に突き進み、頂部に辿り着いた。
【写真左】奥に行くと西の丸
 一旦ここで足を止め、本丸を目指す。
【写真左】本丸虎口
 西の丸と本丸虎口境には小規模な堀切があり、一段下がっている。

 ここから東側に向かって登坂となり、少し開けた開口部がある。本丸の虎口である。
【写真左】水道施設?
 本丸の西側が少し高くなり、その上にコンクリート製のタンクが見える。地元の水道施設だったようだ。
【写真左】西から奥の方を見る。
 雑木などが生えているが、北の丸ほどひどくはないようだ。
【写真左】本丸中央部
本丸の底面は平滑になっている。印象では近年まで果樹園か畑地だったような雰囲気が残る。

 奥行100m×幅50mという大きさなので、低山の割に広大な規模といえる。
 小田氏居城の頃、ここには数棟の建物が建っていたと考えられる。
【写真左】石垣
 見取図にもあるように、本丸の西(虎口周辺部)には石垣が残る。
 竹林化しているため鮮明ではないが、2,30mの長さで築かれている。
【写真左】間道
本丸側から西側先端部を見たもので、この位置から下に間道が見え、その奥に西の丸が控えている。
 本丸虎口から少し離れていた箇所であったことから堀切の延長線でもある。
【写真左】再び本丸を見る。
【写真左】本丸を降りて西の丸を見る。
 さすがにこれでは西の丸へ向かうことはできない。
【写真左】下城
 この坂を下りると、田園地帯が広がっている。左側には市立北側小学校が見える。


 戦国期にはその麓まで小田川水系の大きな湖があったものだろう。
【写真左】第73番札所 出釈迦寺
【写真左】石碑と祠
注連縄が掛けられている以外、標記されたものはない。小田氏を祀るものだろうか。