2016年10月18日火曜日

備後・旗返山城(広島県三次市三若町)・その1

備後・旗返山城(びんご・はたがえしやまじょう)・その1

●所在地 広島県三次市三若町
●別名 三若城、江田城、昌通城
●高さ 420m(比高200m)
●築城期 不明(南北朝後期から室町初期か)
●築城者 江田氏
●形態 山城
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸等
●登城日 2015年3月6日

◆解説(参考文献「知将・毛利元就」池享著、HP「城郭放浪記」等)
 中国地方最大の大河・江の川水系には、多くの支流が流れ込んでいるが、特に広島県三次市では西城川と並んで規模の大きい馬洗川(ばせんがわ)が合流している。
 この馬洗川を少しさかのぼると、以前紹介したに高杉城(広島県三次市高杉町)の東方地点で、その支流・美波羅川(みはらがわ)が注ぎ込んでいる。因みにこの合流部は江田川之内町という。
【写真左】旗返山城遠望・その1
 東麓を走る国道375号線の北側から見たもの。









 そしてこの美波羅川をおよそ10キロほどさかのぼっていくと、三若町に至り、この西岸に聳えているのが旗返山城である。
【写真左】旗返山城遠望・その2
 さらにズームした写真で、本丸は右側の樹木の間隔が少し広い箇所に当たる。






現地説明板・その1

“旗返山城跡(三次市三若町)

 麓からの高さ200m、東・西・南は急斜面で天然の要害となっていて、典型的な戦国時代の山城です。頂上の主郭(本丸)には井戸跡も残っています。
L字型に配置された郭が南にのびており、一部には石垣も残っています。城の北西部は複雑な堀切と竪堀で防備され、堀切の底には人頭大の石が多く散乱していて籠城合戦に備えたものと思われます。
【写真左】案内図
 地元川西自治連合会が作成した案内図に記載されている。

 なお、旗返山城の西の谷側には、名瀑「白糸滝」がある。



 旗返山城は美波羅川(みはらがわ)の中下流域一帯を支配した江田氏が本拠とした城で、江田氏は吉舎・三良坂を支配した和智氏と同族でしたが、戦国時代毛利・尼子の対立の中で、尼子方に味方した江田隆連(たかつら)は天文22年(1553)毛利元就によって滅ぼされました。本城の南方国道375号線を挟んでそびえる陣床山城は、このとき毛利軍陣地を構えた城です。
【写真左】登城口手前にある看板
 旗返山城の南麓を走る国道375号線沿いに設置されているもので、白糸滝の隣に旗返山城と記されている。

 ここから入り、途中の空き地に駐車し、獣防御用の柵をあけて進む。



 江田氏を滅ぼした毛利元就は、大内氏を倒して実権を握った陶氏に、旗返山城の受け取りを求めましたが、陶氏は毛利氏の力が大きくなるのを警戒して、家臣の江良氏を城番としました。このことが、毛利氏が陶氏を倒す原因になったともいわれています。
   三次市教育委員会”
【写真左】分岐点
 暫く歩いていくと、途中で三方に分かれる個所があり、矢印の方向へ進む。

 なお、この道は白糸滝へ向かう道でもあるが、途中で別れる(下の写真参照)。



江田氏

 旗返城の城主江田氏は、高杉城(広島県三次市高杉町)でも述べたように、広沢和智氏(南天山城(広島県三次市吉舎町大字吉舎)参照)の庶流である。初代江田氏となるのは、広沢左近将監実高の子・実村から、実成が和智氏初代となり、その兄弟である実綱(兄か)が江田氏を名乗った。
 上述したように、両氏(和智・江田氏)が支配地としたのが、馬洗川および美波羅川流域である。
【写真左】白糸滝と旗返山城の分岐点
 左方向へ200m行くと、白糸滝で、旗返山城は、右の道を700m、と書かれている。




 
 ところで、高杉城の稿で旗返城の落城時期を、高杉城落城の2か月前である5月3日としているが、「萩閥15」によれば、「同年(天文22年)10月19日、毛利方が安芸国(ママ)三若城(旗返城)を攻撃し、尼子方は敗走する。」とある。
 この史料を事実とすると、5月3日に江田隆通の拠った旗返城は一旦は落城するが、その後尼子方が再び当城を奪還していた可能性が高い。

【写真左】旗返山城略測図
 上が北を示す。
この図では、右側に美波羅川や国道375号線が走っている。








現地説明板・その2

“旗返城について

 この城は、元関東の御家人広沢氏を祖先とする江田氏がきずいたもので、戦国時代の典型的な山城です。
 頂上部に本丸を構え、そこから尾根伝いに東へいくつかの郭を設け、前面は急傾斜面で、西側面と北側鞍部には、深い「掘り切り」や「竪堀」をつくって容易には攻め登ること出来ない構造になっています。
 又本丸下の郭には井戸の跡も残されています。”
【写真左】本丸まで約400mの地点
 次第に傾斜が険しくなり、中小の石や倒木が現れてくる。

 いわゆるガレ場状態となっていので、この付近の道もその都度コースを変更しているのかもしれない。幸い、この日は要所に案内標識がなんとか残っていたため、迷うことはなかった。
【写真左】ここから一気に直登
 随分前に設置された木製の階段があるが、枯葉の下に埋まり、劣化しているため余り信用できない。
 また細いロープもあるが、頼りないので自力で登る。
【写真左】堀切・竪堀が見える。
 本丸の北西側から伸びる尾根斜面をトラバースするような道を進むと、ご覧の箇所に出た。
 右が南にあたる。
【写真左】堀切と竪堀
 斜面には竪堀の遺構が残るが、上部は大分改変されたせいか、良好な状態ではない。

 というのも、この場所に「駐車場」という看板が設置してあり、この箇所で旋回するスペースを確保するために遺構が大分消失している。
【写真左】車道?
 振り返ると確かに新たに造られた道が見える。
 こんないい道があるなら、下山はこの道を使おうと思い歩き出したのだが、その結果とんでもなく長い大回りコースとなった。
 


【写真左】主郭を見上げる
 先ほどの駐車場(堀切・竪堀始点)から南方向に見上げると、主郭の切崖が見える。
 右側の方に道らしきものがあるので、そこに向かう。
【写真左】主郭と南に延びる郭段の分岐点
 西側斜面に設置された道を登っていくと、途中で「見張り砦」と書かれた看板があり、そのまま行くと南に伸びる郭段へ繋がるが、先ずは左側の主郭へ向かう。
【写真左】主郭西側の段
 略測図にもあるように、主郭の西側から南側を介して東側には幅4m前後の帯郭が囲んでいる。
 写真はその西側の付近で、このあたりに大分前に設置された階段が顔をのぞかせている。
【写真左】主郭・その1
 45m×35mの規模で、奥には土塁が配されている。
【写真左】井戸跡
 主郭の北西側、すなわち先ほど登ってきた道の上部にあたるが、ここに直径3m前後の窪みが残り、井戸跡とされている。
【写真左】主郭・その2
 北側から南方向を見たもので、南端部にはパイプを利用した展望台が設置されている。
【写真左】主郭より南に大番城を俯瞰する。
 主郭の南端部からさらに一段下がったところに腰郭があり、そこから南東方向に大番城が見える。

 大番城は尼子氏が築いた陣城ではないかといわれている。また、当城とは別にさらに右(西)にもR375号線を介して「陣床山城」という城砦も記録されており、こちらの方は毛利氏が当城を攻める際に使われた陣城ともいわれている。
【写真左】石段の跡
 先ほどの主郭南端部から西に移動し、南に延びる郭段に向かう途中にあるもので、石段の跡と記されているものの、あまりの枯葉の堆積で石段の形跡は殆ど確認できなかった。
【写真左】南東方向に伸びる郭との分岐点
 主郭の真南に中規模の郭があり、この先から少し角度を変えて南東方向を軸にした郭段が続く。
【写真左】見張り砦へ向かう。
 このさきから更に下に向かって段が続く。
【写真左】土塁
 連続する郭だが、全体に右側(西側)には土塁の痕跡が認められる。
【写真左】ここから再び高くなる。
 山の自然地形から考えれば、次第に高度が下がるのが普通だが、郭や土塁などの施工を見る限り、人為的にこの先端部まで土を運び、高くした可能性が高い。
【写真左】次ぎの段も高くなる。
 ご覧のように、大分崩れた石が散在しているが、石垣を積んだような跡が見られる。
 「見張り砦」を構築するため丁寧な普請の跡が窺われる。
【写真左】見張り砦の最高所
 当城の南東最先端部で、突出した位置になるため、北から東・南、そして西方の一部が俯瞰できたのだろう。
【写真左】見張り砦から北北東方面を見る。
 中央に美波羅川やR375号線が見える。
また、この先には同族の祝氏高杉城や、和智氏の初期の所領地和知などが控える。
【写真左】雪を被った伯耆大山ほうきだいせん
 この日驚いたことに、見張り砦から伯耆(鳥取県)の大山の姿が見えた。
 雪を被っていたいたから確認できたのだが、こんな日はめったにないだろう。




◎次稿へ続く

 今稿はここまでとし、次稿では紹介しきれなかった遺構や、旗返山城落城の際、城主江田隆連の妻と娘が自刃したといわれる「姫塚」、並びに江田氏一族のその後の行方等について紹介したい。

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