2014年10月21日火曜日

佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)

佐和山城(さわやまじょう)

●所在地 滋賀県彦根市佐和山町・古沢町
●築城期 建久年間(鎌倉時代:城館)
●築城者 佐々木時綱
●城主 佐保氏、磯野氏、堀秀政、堀尾吉晴、丹羽氏、石田三成、井伊氏など
●高さ 233m
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・堀等
●指定 なし
●登城日 2014年9月10日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)
 彦根市といえば、彦根城が有名だが、その築城者であった井伊直政・直継父子が当城に移る前に居城としていたのが、JR東海道本線をはさんで東方に聳える佐和山に築かれた佐和山城である。
【写真左】佐和山城遠望
 この日泊まった南側にあるホテルの部屋から撮ったもの。








現地の説明板・その1

佐和山城跡
 佐和山のある湖東地方は、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝であり、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となりました。

 中世に入り、近江を治めた佐々木氏が、近江南部の六角氏と近江北部の京極氏に分かれると、両雄の勢力の境に佐和山にも要害の地として城が築かれ、武士化した在地の小領主を巻き込んだ攻防戦が繰り返されました。
【写真左】東麓から見上げたもの
 この日の登城口は、東麓の龍澤寺と清涼寺の間を通るハイキングコース入口からで、午後4時前ということで急ぎ足で向かった。


 そして戦国時代、京極氏の被官から勢力を伸ばした浅井氏と、尾張から天下をめざした織田信長との間で、佐和山城争奪戦が展開されます。その後、信長と豊臣秀吉の下でしばしの小康状態を迎え、石田三成が城主(1595~1600)となって城の規模も拡大されますが、関ヶ原の戦い後に落城し、やがて廃城と化しました。”
【写真左】西側からの登山ルート
 西側の東海道本線側からのルートを示したもので、現在地という箇所には広い駐車場やトイレなどが完備されていて、多くの人がハイキングコースとして楽しんでいるようだ。

  
現地の説明板・その2

“『佐和山城から彦根城へ
  • 鎌倉時代初期 佐々木定綱の六男時綱、佐保と号し、佐和山付近に館を設ける。
  • 天文10年(1541) 京極高広、執権浅井氏の専横を怒り、これを除こうとする。浅井久政、六角定頼に援助を求める。定頼、家臣の進藤貞晴を佐和山に遣わし久政と互いに謀って、人質をとる。この時、坂田・犬上両郡の人質は佐和山に収容された。その後、高広と久政は和睦する。
  • 天文21年(1552) 京極高広、佐和山城を攻撃、六角義賢、荒神山に本陣を置いて高広軍に対峙するが敗れ、高広方は佐和山城を占領する。
  • 永禄2年(1559) 浅井長政、家臣百々(どど)内蔵介に佐和山城の城代を命じる。
  • 永禄4年(1561) 六角義賢、佐和山城を攻める。百々内蔵介戦死。浅井長政、佐和山城を奪い返し、磯野員昌を城代とする。
  • 元亀元年(1570) 浅井長政、同盟関係を破る。姉川の合戦。磯野員昌、佐和山城に籠城。
  • 元亀2年(1571) 磯野員昌ら籠城衆、信長に降伏して佐和山城を開城する。丹羽長秀、佐和山城に入る。
  • 天正10年(1582) 清洲会議により、秀吉の将堀秀政、佐和山城主となる。
  • 天正13年(1585) 堀尾吉晴、佐和山城主となる。
【写真左】石田三成像
 ハイキングコースに入ると、すぐに左手に石田三成の銅像が見える。

  • 天正19年(1591) 4月、石田三成、代官として佐和山城に入る。
  • 文禄4年(1595) 8月、石田三成、湖北四郡19万4000石を治める佐和山城主となる。
  • 慶長4年(1599) 石田三成、佐和山に引退。
  • 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
  • 慶長5年(1600) 佐和山城落城。三成の父正継・兄正澄ら自刃して果てる。
  • 慶長6年(1601) 井伊直政、佐和山城主となる。
  • 慶長7年(1602) 井伊直政、関ヶ原合戦で受けた鉄砲疵が再発して佐和山城内で死去。
  • 慶長12年(1607) この頃、彦根城天守が完成し、直政の子直継、彦根城へ移る。佐和山城廃城となる。
【写真左】大洞弁財天と西の丸・本丸方面の分岐点
 暫く進むと最初のピーク尾根にたどり着くが、鳥居側から龍潭寺に向かう旧道の「龍潭寺越え」といわれる堀切である。


築城期

 上掲の説明板・その2にもあるように、佐和山城が築かれたのは、佐々木定綱の子時綱(佐保)が当城の麓に館を築いたのに始まるとしている。

 定綱については、これまで直近では米原市にある清瀧寺徳源院・柏原城でも紹介しているが、定綱の子には後に六角・京極氏などを輩出した信綱がいる。従って、佐和山城(館)を築いた時綱は信綱・広綱などと兄弟に当たる。
【写真左】塩硝櫓跡の発掘調査
 龍潭寺越えを過ぎると、すぐに西の丸のエリアに入るが、その先端部には塩硝(煙硝)櫓跡がある。

 丁度この箇所の発掘調査が行われていて、トレンチなどが露出していた。当城の発掘調査の進捗状況はよく分からないが、どうやら未調査箇所が相当あるようだ。今後の発掘調査が期待できそうである。
【写真左】土塁
 同じく煙硝櫓の場所で、通路は土塁の上を歩くようになっている。
なお、この箇所(西の丸)には西側斜面に中小の竪堀が三条認められる。


 承久の乱において、兄・広綱は後鳥羽上皇側に、弟・信綱は武家方に与し、広綱は敗れ、この結果近江守護職であった広綱は殺害され、弟・信綱が佐々木氏の家督を受け継ぐことになった。

 六男・時綱がこの乱の際、どちらに与していたか分からないが、こののち、信綱の子の代になって、泰綱が六角氏を、氏信が京極氏をそれぞれ興し、愛知川をはさんで対立していくことなる。
【写真左】北西にのびる郭方面
 同じく西の丸の一角だが、3条の竪堀のうち、南端部の箇所から降りていくと、約30mほどの長さを持つ郭がある。残念ながら日没が近づいてきていたため、この箇所には向かっていない。



境目の城

 以前紹介した彦根市の北隣米原市にある太尾山城でも述べているように、北近江は東隣に美濃国があり、中山道や北国街道が交差し、陸の交通の要衝であった。
 さらに佐和山城の西麓と現在の彦根城北方とに挟まれた松原町は、中世には松原内湖と呼ばれる潟があり、当時は長浜・米原と並んで彦根三湊の一つといわれた松原湊があった。つまり、水運交通の要衝でもあった。
【写真左】佐和山城概要図
 ※左方向が北を示す。
 現地に設置された絵図で、色が大分薄くなっていたものを参考に、管理人によって追加作成したもの。
 
 戦国期の状況としては、西側(同図上段)を大手として、外堀が描かれているが、現在の小野川(本流・矢倉川)を通じて琵琶湖まで船で出入りしていた可能性が高い。


 このため、戦国期までは佐和山城の形態は山城を構成しつつ、水城(みずじろ)の機能も持ち合わせていた可能性が高い。
 そして、佐和山城の東麓、すなわち現在の鳥居本町側を大手として、三の丸と太鼓丸に囲まれた谷間に屋敷跡を構えていたのは、西麓である琵琶湖岸側から直接攻撃されるのを回避するためではなかったかと考えられる。
【写真左】堀切
 西の丸と本丸の間にあるもので、この先を降りて東の尾根伝いを進むと二の丸が配されている。
 ただ、現状は余り整備されていないため、その先には行かず、このまま本丸を目指す。


浅井長政と石田三成

 当地には佐和山城に関わった武将として、浅井長政と石田三成について次のように記された説明板がある。

現地の説明板・その3

“~佐和山城ゆかりの戦国武将~
浅井長政(1545~73)
…戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と勢力を争い、佐和山城は両勢力の境目の城として争奪戦が繰り広げられました。
 佐和山城を奪い返した長政は、織田信長からの同盟の提案を受け入れ、信長の上洛を援護することにより、六角氏を退けることに成功しました。
【写真左】本丸・その1
 長径約50m×短径25m前後の規模で、東西に長く楕円の形をなしている。






 同盟を機に、長政は信長の妹である市を妻として迎え、茶々、初、江の三姉妹をはじめ、子宝にも恵まれましたが、元亀元年(1570)、信長が浅井氏の盟友である朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦いました。

 佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが、戦いに敗れ、翌年には信長に佐和山城を開城しました。天正元年(1573)、本拠の小谷城を織田軍に囲まれた長政は自害し、29歳の生涯に幕を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣や徳川の時代まで波乱に満ちた運命を辿っています。”
【写真左】本丸・その2
 北側の一角には「佐和山城址」と刻まれた石碑が建つ。








石田三成(1560~1600)
 …近江国坂田郡石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、次第に能吏としての手腕を発揮しました。
 秀吉の天下となってからも、検地などで大きな役割を果たし、五奉行筆頭に数えられた三成は、佐和山城主に封ぜられました。
【写真左】本丸から西方に彦根城を俯瞰する。
 夕方だったため余り視界は良くなかったが、彦根城の天守が確認できた。
【写真左】本丸南端部から彦根市街地を俯瞰する。
 中世・戦国期のころはおそらくこの辺りは湖面もしくは深江の景色だったのだろう。




 三成の時代に、佐和山城は、城下とともに整備され、一説には、五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡すなど、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた城であったと伝わります。

 秀吉亡き後、三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます。家康が諸大名を従えて上杉家に征伐に赴いたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。
【写真左】千貫井戸
 石田三成時代の井戸とされているもので、本丸から南に下がった2,3段の郭があるが、その西側にある。





 戦いは、東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始めとする石田一族の多くが討死しました。

 三成は湖北に逃れますが、ほどなく捕縛され、斬首されました。三成の死後も、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めたといいます。”
【写真左】隅石垣
 本丸の南端部斜面に残るもので、このラインは本丸外周部の石垣基底部とされ、この他7か所でも確認されているという。

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