2014年10月16日木曜日

賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)

賤ヶ岳城(しずがたけじょう)

●所在地 滋賀県長浜市木本町大音・飯浦
●高さ 421,13m
●築城期 天正元年(1573)以前、又は天正11年(1583)
●築城者 浅井・朝倉氏
●城主 浅井・朝倉氏、羽柴秀吉
●遺構 南郭・主郭・横矢枡形・北郭・堀切・土塁等
●登城日 2014年9月9日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)

 いわずもがな秀吉と柴田勝家が信長亡き後争った合戦場・賤ヶ岳である。
 実は賤ヶ岳を探訪したのはこれが2回目である。前回は2005年の7月だったと記憶している。もっともこのときは帰途中に立ち寄った関係で、時間もあまりなく、リフトの麓を散策した程度だった。
【写真左】賤ヶ岳遠望
 南麓から見たもの。
賤ヶ岳は北麓に浮かぶ余呉湖を取り巻くようなU字形の丘陵地のピークの一つで、この写真の裏側にその余呉湖が控えている。
 また、写真の田園地帯左側(西)には琵琶湖が配置している。



 現地の説明板・その1

“賤ヶ岳砦
 『信長公記』によると、賤ヶ岳合戦以前の天正元年8月に、浅井朝倉方の賤ヶ岳布陣の記録が見える。また『領家文書』には、天正元年9月に「しつかたけの城」とあり、賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認できる。
【写真左】登城口
 前回リフトに乗り損ねたので、今回はこれで向かうと計画していたが、何とリフト乗り場はこの日は「定休日」!
 山城登城する者は、そもそもリフトを当てにしてはいけないかもしれない。靴ひもを締めなおして徒歩で向かう。


 天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ヶ岳合戦を記した『余吾庄合戦覚書』によると、天正11年3月19日条には「賤ヶ嶽ノ城ハ、桑山修理亮、羽田長門守、浅野八兵衛三人ヲ籠メ置レ」とあり、標高421mに賤ヶ岳合戦の陣城として改築されたと推定される。

 戦前の兵員は2千と推定され、賤ヶ岳本戦で秀吉の指揮所となる。近年、中世城郭の特徴、切崖と多数の竪堀が、周囲に確認され、城域は、長辺約200m、短辺約50m、余呉湖方面に腰郭を設け、城の周囲を囲む、犬走りや、帯郭が取り巻いている。”
【写真左】主郭まで750mの地点
 全体に賤ヶ岳の南斜面は急傾斜となっているため、スパンの長い九十九折れの登城道となっている。
 定期的に植林された木などが伐採されている。


両軍の布陣態勢と戦いの概要

 絵図にも描かれているように、柴田勝家は北方から攻め、対する秀吉方は南から攻めている。現地にはこのときの主な動きについて次のように示されている。
【写真左】リフト到着地
 賤ヶ岳の最初のピークにたどり着く。登城してから30分足らずの時間がかかったが、リフトなら数分でたどりつく。

 この位置から尾根伝いに進むが、賤ヶ岳主郭までは300m余りの距離になる。


現地の説明板・その2

“賤ヶ岳合戦のあらまし
 春は来りぬ越路の雪も解初めたれば柴田勝家先ず佐久間盛政をして一萬5千の兵を率い近江の柳ケ瀬に討って出でしむ。(文部省尋常小学国語読本巻十一引用)
【写真左】琵琶湖を見る。
 同湖の北端部に当たり、最も水がきれいなところといわれている。
 右奥の山並みを超えると若狭国(福井県)に入る。


  1. 柴田勝家天正11年3月5日越前北ノ庄(福井)を発し、9日近江柳ケ瀬に着陣、直ちに江越の山々に布陣する。
  2. 佐久間盛政4月20日午前1時行市山を発して権現坂を経て、払暁大岩山中川清秀の砦を奇襲し中川清秀奮戦するが、あえなく戦死する。
  3. 同20日羽柴秀吉大垣にて大岩山の敗報を聞き、午後2時大垣を発ち夜半までに全軍木之本陣田神山に着陣する。
  4. 4月21日御前2時頃田神山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍に攻撃を開始する。秀吉自ら重臣たち(七本槍)を引き連れ、大音峠を経て賤ヶ岳馬場に来て退却する盛政軍を迎え撃つ盛政軍敗逃する。
  5. 世に言う「賤ヶ岳合戦」は、ここ賤ヶ岳頂上より北側の中腹及び湖畔において雄叫び…死闘、余呉の湖が真赤に染まったという。
  6. 秀義軍追撃を続け、狐塚にある柴田勝家軍に対戦。
  7. 勝家ひたすら奮戦、忠臣毛受庄助の身代わりの忠言に従い、一時北ノ庄へ落ちる。
  8. 忠臣毛受兄弟身代わり奮戦するが、林谷において戦死する。
  9. 羽柴秀吉、長躯して北ノ庄を攻め落とす。柴田勝家滅びる。時、天正11年4月23日(月日いずれも旧暦。合戦当時は全山ススキ・クマザサの山であったという。現在の樹木は明治以降のものである。)
【写真左】登り坂の尾根道
 冒頭の遠望写真でも分かるように、主郭までは登り勾配が続く。以外と息が切れる。

 右奥に見える祠は、合戦後の死者の霊を弔う石仏が附近に点在していたのを、昭和57年この景勝地にまとめて移転し供養したもの。地蔵仏や五輪塔の一部などが陳列されている。


■勝家辞世の句
  夏の夜の  夢路はかなき  あとの各を
           雲井にあげよ  山ほととぎす

■お市の方辞世の句
  さらぬだに  うちぬる程も  夏の夜の
            わかれを誘う  ほととぎすか

▲賤ヶ岳合戦 七本槍
   加藤清正  福島正則  片桐且元  脇坂安治
   加藤嘉明  平野長泰  糟屋武則”
【写真左】賤ヶ岳合戦絵図
 賤ヶ岳頂上に設置されているもので、この周囲に多くの城砦が残されている。


 
佐久間盛政と前田利家

 賤ヶ岳の戦いで勝家側が破れた敗因について、佐久間盛政と前田利家を取り上げた説明板がある。

現地の説明板・その3

“佐久間盛政
 天文23年(1554)尾張に生まれる。父は佐久間盛次、母は柴田勝家の姉(姉説と妹説あり)兄弟は弟に安政、柴田勝政、勝之、子に虎姫(中川秀成室)。

 永禄11年(1568)初陣以後、数々の戦いに参加し戦功を挙げる。天正3年(1575)叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際、その麾下に配された。その後も北陸一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜り、この頃に勇猛さから「鬼玄蕃」という異名がつけられた。
【写真左】賤ヶ岳砦(城)縄張図
 右が北を示し、左が南になる。この日は左側から向かった。
 主だった遺構は冒頭で列記しているが、郭としては①南郭(左)、②主郭(中央)、④北郭の3か所が配されている。
 なお、北側尾根にある⑤の西堀切と土塁はこの日は見過ごしてしまった。


 天正8年(1580)加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代城主となり、加賀一国を与えられた。
 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いは、佐久間盛政の大岩山の奇襲作戦敢行により火蓋が切って落とされ、中川清秀を殲滅(せんめつ)させた。
【写真左】南郭付近
 現地図③の箇所で、展望台や店跡などが建っている。






 しかし、この戦法は敵陣深く攻め入る危険な戦いであり、柴田勝家は大岩山攻略後直ちに兵を退くよう命じた。けれど盛政は聞き入れなかった。
 山頂の賤ヶ岳戦跡碑文には、これが敗因で、さらに血気の小勇でちょっとした勝に狎(な)れ、大事を誤ったことかくの如く甚大である。闘いのかけひきにおいて、最も悪いことは、心驕り、慎みを忘れ警戒を怠ることである、と書かれている。
【写真左】南郭から南方に小谷城などを見る。
 この辺りがもっとも南方の視界がよく、以前紹介した浅井氏の小谷城や、信長が陣した虎御前山城などが見える。


 一方、歴史学者や歴史小説家の中で、その時の状況から盛政には、盛政の戦略構想があったであろう。戦場離脱した前田利家を、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の裏切りよりも、利家の裏切りの方が大きい、つまり一戦を決定づけたと述べている。
【写真左】東に伸びる犬走り
 南郭下段から続くもので、主郭を通らずこのまま北郭に直接連絡されている。


 最初に盛政暴走説を書いたのは、小瀬甫庵で、「太閤記」の作者でもあり、後世の書物はこの説を踏襲している。甫庵は前田家の家臣で太閤記は前田家で完成された。したがって利家が裏切ったことが書けなかった。柴田勝家の敗因は盛政の強引な戦術にしてしまい史実を曲げている、との説がある。
    奥びわ湖観光協会”
【写真左】主郭・その1
 主郭は東側を最上段とし、西(余呉湖方面)に向かって約3段の構成となっている。
【写真左】主郭・その2
 西側最下段の箇所で、眼下には余呉湖が姿を見せている。








秀吉方防衛ライン

 余呉湖の北方に構えた秀吉方の第1次防衛ラインといわれた砦群で、下の写真の中では、西端を神明山砦とし、中央に堂本山砦、そして北国街道をはさんで、東の山側に東野山城を東端としたもの。

 なお、同ラインの前には当初さらに1キロ北進した天神山砦と茶臼山砦を布陣させていたが、この2砦を完全に視界におさめた別所山砦が勝家方によって築かれたため、防衛ラインを下げ、ここを第1次防衛ラインとした。

 そして第1次ラインを後方で支援すべく、写真右の岩崎山砦を北端とし、大岩山砦・賤ヶ岳の尾根筋と、北国街道をはさんで東方に田上山城が築かれ、これを第2次防衛ラインとした。

【写真左】秀吉方防衛ラインの主な砦
【写真左】主郭・その3
 再び主郭上段に上がり北郭方面に向かう。
【写真左】NHK大河ドラマ「お江」のとき設置されたもの。
 左から、お茶々、お江、お初ということらしい。
【写真左】「戦いのあと」と題された武将の銅像
 城跡の本丸跡などにはよく勝利者側大将などの銅像が建立されているが、この銅像は勝ち誇った武士の姿でなく、むしろ戦い疲れ果てた姿のものである。
 傍らには、書物を模したものがあり、文字が書かれているが、作者が誰なのかよく読み取れない。

 戦場で実際に最も多く戦ったのは名もなき足軽や雑兵である。戦さを終えた後、疲労と共に虚脱してしまった者も多くいたのだろう。
【写真左】北郭
 主郭北に続く郭で、なだらかに下がっていく。
この辺りには枡形虎口が残る。
 この先を更に尾根に沿って北に進むと、大岩山砦に繋がるが、今回の登城はここまでとした。




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