2010年4月10日土曜日

二ツ丸城跡(島根県出雲市乙立町)

二ツ丸城跡(ふたつまるじょうあと)

●所在地 島根県出雲市乙立町
●登城日 2010年1月24日
●標高 308m
●比高 150m
●遺構 郭、堀切
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「出雲の山々:島根県勤労者山岳連盟編」等)
 前稿「高櫓城」の麓を流れる神戸川を下り、乙立(おったち)町に入ると、支流・後谷川が西麓の山から流れて合流している。この後谷川をさかのぼると、西隣の湖陵町と接した二つの峰を持つ「二ツ丸山」がそびえている。

【写真左】二ツ丸山城遠望
 二ツ丸山北方を東西に走る国道9号線よりみたもので、よくわかる。



 アクセスはこの乙立町からもいけるが、道(林道岩坪線)が狭いので、北方の神西町からの方が車で行くには便利だ。

 近辺の山城としては、南方の高櫓城の外に、北方3キロには神西氏が拠った神西城がある。神西城方面からみると、ラクダのコブのような形をしていて、周囲の山並みの中でも目立つ山である。

 この山城については、ときどき情報提供していただいている「城之助」さんから教えていただき、まずまずの山城であるとの情報を得ていた。
 今年の1月、多少寒いながらも、山城登城としてはむしろこれくらいがいいだろうと思い、向かった。
【写真左】登城口付近
 林道脇に設置されているが、この付近に一軒の民家がある。ちょうどカーブしている地点で、幅員も広くあり、そこに駐車スペースがとれる。

 標識には標高290mとあり、地図では308mとなっていて、どちらが正しいかわからない。ただ南北にそれぞれの峰があるので、双方の標高を示しているかもしれない。



 二ツ丸の由来は、スサノウノミコトの出雲神話の時代にさかのぼるといわれている。残念ながら中世・戦国期における当城の記録がほとんどなく、築城期、築城者、城主なども不明である。

 しかし、前稿で紹介した高櫓城に拠った城主の領地範囲が、南に大呂(約5キロ四方)、西に窟(ムクロ)の岩畳となって、東方は乙立から古志まで及んでいたことから、おそらく戦国期は高櫓城の支城と思われる。
【写真左】途中に見える平坦地
 全体に登城路は荒れ加減になっているが、特に難渋するほどでもない。

 写真は北麓に差し掛かる地点にみえた場所で、谷が少し開き、両側から湧水が流れ、平坦部にも湿地帯のような景色を見せているところである。

 不揃いながら2,3の段丘があるので、おそらく簡易な屋敷跡だったと思われる。当時は用水・排水の施設が完備され、平坦地には居住できる施設を数カ所設けていたと思われるが、廃城になると雑木の成長と、排水設備の老朽化に伴い、屋敷跡地全体がこうして浸水され、湿地帯のような光景をつくりだすことが多いようだ。
【写真左】北側の峰・登城途中
 登城経路は、最初に北側の峰(主郭か)から向かうようになっている。

 しばらくは平坦な尾根を歩くが、麓から傾斜がきつくなっていく。






【写真左】最初に見えた堀切
※本稿では、便宜上北側の頂部を「北の丸」とし、南側の頂部を「南の丸」と仮称させていただく。

 この写真は北の丸の手前に見えた堀切で、このあたりから小規模な郭段が点在してくる。





【写真左】北の丸登城
 手前に石垣と思われるものがある。ここからは一気にまっすぐに登るコースとなっているので、途端に呼吸が乱れる。








【写真左】北の丸主郭付近
 主郭となっている頂部の幅は5m前後と狭いが、南北に長い形状となっている。特に西側の切崖は一部に大岩が突き出て、その下は目がくらむところがある。ほとんど自然のままの造りに見えるが、数カ所に削平されたような個所が認められる。





【写真左】北の丸から南西方向に三瓶山を見る
 二ツ丸山城の周囲には遮る山並みは少なく、眺望がよい。このことは戦略上重要な要素なので、戦国期に限らず、古代から狼煙台としても使用されてきたのかもしれない。






【写真左】北の丸から東方に、高瀬城、城平山城などを見る
 神戸川、斐伊川などを越えた斐川町にある高瀬城などがはっきりと見える。








写真左】北の丸から日御碕半島・日本海を見る
 写真手前の松林がないと、神戸川や神西湖がよく見えるだろう。








【写真左】北の丸から南の丸を見る
 冒頭で記したように、北の丸と南の丸の標高がそれぞれはっきりしないが、現地に立つと、この南の丸の方が高く感じたので、南の丸が308mで、北の丸が290mかもしれない。







【写真左】北の丸から南の丸に向かう尾根道
 この写真では分かりにくいが、途中で極端に狭められた尾根道がある。見方によっては、「土橋」とも思えるような雰囲気がある。
 この後、南の丸に向かったが、尾根長さがあったため、北の丸ほどの急傾斜はなかった。また、途中で、明確に加工された腰郭が残っている。




【写真左】南の丸頂部
 北の丸に比べ、南の丸の規模が大きい。幅はほとんど変わらないが、平坦地の南北間長径が長く、おそらく南の丸より2倍はあるだろう。

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