2010年4月21日水曜日

甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)

甑山城(こしきやまじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市国府町町屋
●登城日 2010年3月5日
●標高 110m(比高80m)
●遺構 主郭、竪堀、郭等
●築城期 南北朝初期ごろ
●城主 平貞泰、西垣長兵衛、山中鹿助

◆解説(参考文献「国府町誌」、「日本城郭大系14巻」新人物往来社、等)

 甑山城のある国府町は、その名が示す通り、当時の因幡国に国府が置かれたことに由来している。現在、鳥取市と合併しているが、大古・中世の頃は、この地域が因幡地方の中心地であったようだ。
 当然重要な史跡も多く、武内宿禰を祀る因幡一の宮・宇倍神社や、古代当地を治めていた豪族・因幡伊福部氏の伊福吉部徳足比売墓跡などもある。その他掲載写真でも紹介しているが、因幡国庁跡や、甑山の麓には最近できた因幡万葉歴史館などもある。
【写真左】甑山城遠望
 南西麓から撮ったもので、底の深いお椀を逆さにしたような形である。







 さて、甑山城については断片的な記録しか残っていない。先ず本丸跡に設置された説明板によって概説しておく。

甑山(こしきやま)  (国府町町屋)


写真左】登城路
 登城口は、当城の西麓の谷奥に墓地があり、その付近から案内板が表示されている。

 一旦尾根鞍部まで行き、そこから南北に分岐しているので、南の尾根伝いに向かう。写真はその尾根筋の途中で、本丸まで400mの地点。


 甑山にはいろいろな伝説がある山です。例えば、武内宿禰が因幡国に攻め入ったとき、この山に甑を据えて食べ物を蒸し、兵をねぎらった。その「こしき」にちなんで甑山と名づけられたとか、あるいは、大昔、岡益のタタラ大名(明)神が甑山と、今木山をモッコになってここまで来たが、担い棒が折れて、この地に置き去りにしたというような伝説です。

 しかし、最も有名なのは山城です。建武4年(1337)、平因幡守貞泰が要害として甑山城を守備していますし、天正元年(1573)には、山中鹿助鳥取城主武田高信との合戦のとき、陣取った城です。

 武田高信は、五百の兵でこの城を攻め落とそうとしましたが、美歎(みたに)川や国府川の天然の濠に囲まれた甑山城を攻め落とすことができず、逆に失敗し、鳥取城に逃げ帰ったということです。
 この合戦は「たのも崩れ」と呼ばれており、8月1日、八朔(はっさく)の日であったのでそう言われています。”
【写真左】途中に見えた五輪塔のような石造物
 険峻な南側の峰に、北側から伸びた尾根が繋がっている形状だが、このあたりから郭や、竪堀の遺構が点在している。写真はその内の郭に見えた五輪塔のようなもの。



 このころの因幡国は、初期の領主であった山名氏と、山名氏の元家臣であった武田高信鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)参照)が対立し、武田高信は鳥取久松山の鳥取城主になり、山名氏はそれを奪回すべく、武田氏と攻防を繰り返していた。

 武田高信が久松山(鳥取城)を手にすることができたのは、背後に毛利元就の支援があったからである。一方、山名氏は高信に追いやられ、豊数がその後病死すると、そのあとを弟の豊国が山名氏を引き継いだ。
【写真左】途中に見えた塹壕のような遺構
 長さ10m程度で、深さは1mぐらいのものだが、これは戦国期のものでなく、昭和の太平洋戦争当時、地元で訓練のために造られたものとされている。



 元亀3年(1572)山中鹿助は、尼子再興を目指し浦富の桐山城を奪取し、その後この甑山城に入った。
 鹿助の狙いは、毛利の支援を受けている久松山の武田高信を降すことである。また、山名豊国にとってもその目的は同じだった。ただ、間接的には豊国も毛利氏の援護を必要としていた。
【写真左】本丸直近部
 甑山城の独特の地形である屹立した主郭を中心とする部分は、全周囲が急峻な切崖状態を構成している。ただ、北部から繋がる尾根のコースからは、多少その角度を緩和させている。

 接続部手前に小規模な郭を置き、すぐ先には東西に竪堀を置き、以後左右に屈折しながら急坂の道を登っていく。主郭周囲には不規則ながら同心円状に幅の狭い郭が巻きついている。



 この間の動きについて、「陰徳太平記」によれば、鹿助は元亀3年、丹後から船で因幡巨濃郡岩本に着岸し、日々屋(日野の旧地名)に居住し、浦富桐山の城を修理して居城とし、やがて法美郡国府の甑山に立てこもるに至った。その後近辺の国人領主で、味方するものは懐け、敵対するものは戦いして、当時武田氏に与していた今木の法華寺(秋里氏)、杉崎の亥子山、岩倉の尺山などの各城主も味方につけた、と記している。
【写真左】本丸跡に建つ展望台
 主郭付近の規模はおおむね10m四方の大きさで、写真にあるように展望台が設置されている。眺望は西方から北方が確保されているが、東方は雑林で遮られている。

 なお、この展望台の南から東にかけて、L字状の溝が残っている。これも先ほどの塹壕のような痕跡と見られるので、やはり戦時中(昭和)の訓練のために施工されたものだろう。また、南から東にかけての帯曲輪が数段明確に残っているが、西方にも1,2段あるように見えた。


 因幡国の覇権をめぐって武田方と、山名方に分かれた状況下でもあったことから、他の国人領主としては、一時的に与することはあっても、常に戦況の変化に応じて、いつでも鞍替えするというような考えだった。
【写真左】本丸跡展望台から北方に久松山(鳥取城)を見る。
 展望台からは写真のように、鳥取城を見ることができる。ただ手前の山が大分遮っているので、久松山の上部のみしか確認できない。



 そこへ、カリスマ的存在として、因幡国にもその名が広まっていた鹿助の登場である。
 前記したように、鹿助の元に馳せ参じた者は少なくなかった。

 同年(元亀3年)8月、久松山の武田高信は、500余騎で甑山城を攻めた。しかし、要害堅固な当城は戦う前から困難が伴い、ほどなく攻めから転じて、敗走するはめになった。しかも、前掲した隣の今木山城主・秋里左馬允が、鹿助の援護に入ったため、武田軍は大崩れとなって鳥取城に逃げ帰った。
【写真左】展望台から北西に鳥取市街・袋川を見る。
 袋川は千代川の支流で、5,6キロ先で合流し、日本海に注ぐ。




 その後、合戦場は鳥取城へと移っていくことになった。これ以後の動きについては、いずれ鳥取城を取り上げる際に紹介したいと思う。

【写真左】展望台から「因幡国庁跡」を見る。
 写真中央の田圃の中にぽつんと残っている。後方の山は、南北朝期に山城としても使われたという伝承の残る「面影山」。
【写真左】今木山遠望

 今木山は、前記したように秋里左馬充が居城とした山城でもある。当日は時間がなく断念したが、いずれ機会があったら登城してみたい。

 なお、現地の因幡万葉歴史館に当山の由来が記された説明板があったので転載しておく。

今木山

 国府平野にある甑山・今木山・面影山は、因幡三山と呼ばれています。今木山は法花寺集落の東南にあり、高さ約89mの山で、古代に海を渡って新しく来た人(帰化人)が住んでいたとされ、今来の山ともいわれて親しまれてきました。

万葉集に次の歌があります。

 藤波の散らまく惜しみ ほととぎす 
        今木の丘を鳴きて越ゆなり
               (読み人知らず)
平成11年  国府文化協会”

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