世田山城(せたやまじょう)
●探訪日 2009年10月18日
●所在地 愛媛県今治市朝倉~西条市楠)
●標高 339m
●遺構 堀切・郭・土塁その他
●築城期 南北朝
●築城者 大館氏明
◆解説(参考文献:サイト「世田山・笠松山へ行こう!」、『城格放浪記』など)
現地の説明板によると、当城の歴史については、以下の内容となっている。(旧朝倉村教育委員会による)
“世田山合戦と朝倉村の歴史
延元元年(1336)6月、九州から東上した足利尊氏の軍勢が京都に侵入したので、後醍醐天皇は京都の花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並びたち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な合戦が各地で展開された。
伊予でも、南北両朝廷の運命をかけた世田山合戦が行われた。
府中朝倉郷の東方に聳える世田山は標高339メートルの中世の山城である。山項に達すると展望はひらけ、北に広大な府中平野を望み、南に四国連峰、東に波穏やかな瀬戸内海をみおろす、まさに風光絶佳の地である。
また、世田山は天然の要害であるだけではなく、古来、国府防衛上の要衝ともなっていたので、畿度な合戦が繰り返された。
興国3年(1342)5月、後村上天皇は南朝の勢力を西国で盛り返すべく、新田義貞弟脇屋義助を南軍の総帥として伊豫にくだした。しかし義助は不運にも、その直後病に斃れ、国分寺に急死した。
この報せをうけた北朝の武将細川頼春に義助の死を好機と見て、阿波、讃岐の兵七千を卒いて伊豫に来攻、土肥義昌がたて籠る川之江城を攻め落とした。
ついで千町ヶ原の合戦に完勝した細川勢は、椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め入り、行司原城を護る岡武蔵守を攻め滅ぼした。そして南朝方が最後の砦とたのむ世田、笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。この戦いで、特に野々瀬ロは激戦となり、敵味方の屍が谷を埋めたという。
また、笠松城主篠塚伊賀守は豪腕をふるって唯一人敵中を突破し、遙か内海の魚島に遁れた。
朝倉村教育委員”
この後正平19年(1364)には、河野道朝と細川頼之との合戦、さらに文明11年(1479)には、細川義春と河野道生の合戦などが続いたという。
【写真左】登城口付近の駐車場
世田山・笠松山への登城口は数カ所あるらしいが、事前に地図で見てみると、北側朝倉の方から「三六九寺」まで道があり、さらにその奥まで行けそうな道があることが分かり、このコースから入って行った。
ところが、三六九寺付近で、道路工事のため「通行止め」の標識があり、当寺脇の空地に止め、歩こうとしたら、下から登ってくる車や、上から下ってくる車に出くわした。
このためにさらに上のほうをみたら、工事個所は直近の場所で、しかも厚い鉄板で養生がしてあり、車で十分通れることがわかり、再び車に乗って、写真にある駐車場(登城口)まで行くことができた。
【写真左】駐車場付近の登山口
上段の駐車場より手前にも登城口があったが、おそらくこのルートは直接「笠松山」に向かうルートだったと思われる。
この写真は、駐車場からそのまま前方へ向かう始点で、写真には見えないが、左側に「笠松山登山口 愛媛県 昭和35年」というコンクリート製の標識が建っている。
【写真左】笠松山方面と世田山方面の分岐点 登り始めて10分程度行くと、写真のような尾根にたどり着く。
ここまでの時間は短いが、急こう配の登城路なので、真夏はかなりしんどいかもしれない。 この位置から、最初は世田山方面のルートを進んだ。
【写真左】世田山側の峰に向かう階段 昨年、この山一帯が山火事になり、特にこの世田山の西南部の斜面はほとんど燃え尽き、山肌がむき出しになっている。
この階段を上がると、世田山側の尾根にたどり着く。
【写真左】世田山の尾根
山城探訪者にとっては、遺構を確認する上で、こうした光景になっている点はありがたいかもしれないが、ここまで燃え尽きてしまうと、なんともいえない心持を感じる。
【写真左】世田山城本丸跡遠望
なだらかな尾根伝いにしばらく行くと、途中で再び急こう配で下り、そのあと再び登った位置が写真にみえる「世田山城本丸」になる。
この方向は、南南東の方向になり、後方は西条市の町並みになる。
【写真左】世田山城本丸跡付近の展望台 現地には城跡の遺構らしきものはほとんど確認できなかったが、尾根途中で堀切と思えるような窪みがあった。
広さは狭い尾根なので大きくはないが、眺望はまずまずである。
【写真左】展望台から見た「今治小松自動車道」・河原津付近
『城格放浪記』氏の分布図を見ると、写真に見える地肌が削られた頂部を持つ山が、「永納山城」と思われる。左上部の海は、燧灘(ひうちなだ)。
【写真左】世田山城側からみた「笠松山城」遠望
世田山も笠松山も同じような天然の要害山である。
【写真左】世田山側から西南方向の山並みを見る
この日の状況はすこし靄が掛かっており、全体に眼下の景色は鮮明でななかったが、山の表情として、これもまたそれなりの趣がある。
●探訪日 2009年10月18日
●所在地 愛媛県今治市朝倉~西条市楠)
●標高 339m
●遺構 堀切・郭・土塁その他
●築城期 南北朝
●築城者 大館氏明
◆解説(参考文献:サイト「世田山・笠松山へ行こう!」、『城格放浪記』など)
現地の説明板によると、当城の歴史については、以下の内容となっている。(旧朝倉村教育委員会による)
“世田山合戦と朝倉村の歴史
延元元年(1336)6月、九州から東上した足利尊氏の軍勢が京都に侵入したので、後醍醐天皇は京都の花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並びたち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な合戦が各地で展開された。
伊予でも、南北両朝廷の運命をかけた世田山合戦が行われた。
府中朝倉郷の東方に聳える世田山は標高339メートルの中世の山城である。山項に達すると展望はひらけ、北に広大な府中平野を望み、南に四国連峰、東に波穏やかな瀬戸内海をみおろす、まさに風光絶佳の地である。
また、世田山は天然の要害であるだけではなく、古来、国府防衛上の要衝ともなっていたので、畿度な合戦が繰り返された。
興国3年(1342)5月、後村上天皇は南朝の勢力を西国で盛り返すべく、新田義貞弟脇屋義助を南軍の総帥として伊豫にくだした。しかし義助は不運にも、その直後病に斃れ、国分寺に急死した。
この報せをうけた北朝の武将細川頼春に義助の死を好機と見て、阿波、讃岐の兵七千を卒いて伊豫に来攻、土肥義昌がたて籠る川之江城を攻め落とした。
ついで千町ヶ原の合戦に完勝した細川勢は、椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め入り、行司原城を護る岡武蔵守を攻め滅ぼした。そして南朝方が最後の砦とたのむ世田、笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。この戦いで、特に野々瀬ロは激戦となり、敵味方の屍が谷を埋めたという。
また、笠松城主篠塚伊賀守は豪腕をふるって唯一人敵中を突破し、遙か内海の魚島に遁れた。
朝倉村教育委員”
この後正平19年(1364)には、河野道朝と細川頼之との合戦、さらに文明11年(1479)には、細川義春と河野道生の合戦などが続いたという。
【写真左】登城口付近の駐車場
世田山・笠松山への登城口は数カ所あるらしいが、事前に地図で見てみると、北側朝倉の方から「三六九寺」まで道があり、さらにその奥まで行けそうな道があることが分かり、このコースから入って行った。
ところが、三六九寺付近で、道路工事のため「通行止め」の標識があり、当寺脇の空地に止め、歩こうとしたら、下から登ってくる車や、上から下ってくる車に出くわした。
このためにさらに上のほうをみたら、工事個所は直近の場所で、しかも厚い鉄板で養生がしてあり、車で十分通れることがわかり、再び車に乗って、写真にある駐車場(登城口)まで行くことができた。
【写真左】駐車場付近の登山口
上段の駐車場より手前にも登城口があったが、おそらくこのルートは直接「笠松山」に向かうルートだったと思われる。
この写真は、駐車場からそのまま前方へ向かう始点で、写真には見えないが、左側に「笠松山登山口 愛媛県 昭和35年」というコンクリート製の標識が建っている。
【写真左】笠松山方面と世田山方面の分岐点 登り始めて10分程度行くと、写真のような尾根にたどり着く。
ここまでの時間は短いが、急こう配の登城路なので、真夏はかなりしんどいかもしれない。 この位置から、最初は世田山方面のルートを進んだ。
【写真左】世田山側の峰に向かう階段 昨年、この山一帯が山火事になり、特にこの世田山の西南部の斜面はほとんど燃え尽き、山肌がむき出しになっている。
この階段を上がると、世田山側の尾根にたどり着く。
【写真左】世田山の尾根
山城探訪者にとっては、遺構を確認する上で、こうした光景になっている点はありがたいかもしれないが、ここまで燃え尽きてしまうと、なんともいえない心持を感じる。
【写真左】世田山城本丸跡遠望
なだらかな尾根伝いにしばらく行くと、途中で再び急こう配で下り、そのあと再び登った位置が写真にみえる「世田山城本丸」になる。
この方向は、南南東の方向になり、後方は西条市の町並みになる。
【写真左】世田山城本丸跡付近の展望台 現地には城跡の遺構らしきものはほとんど確認できなかったが、尾根途中で堀切と思えるような窪みがあった。
広さは狭い尾根なので大きくはないが、眺望はまずまずである。
【写真左】展望台から見た「今治小松自動車道」・河原津付近
『城格放浪記』氏の分布図を見ると、写真に見える地肌が削られた頂部を持つ山が、「永納山城」と思われる。左上部の海は、燧灘(ひうちなだ)。
【写真左】世田山城側からみた「笠松山城」遠望
世田山も笠松山も同じような天然の要害山である。
【写真左】世田山側から西南方向の山並みを見る
この日の状況はすこし靄が掛かっており、全体に眼下の景色は鮮明でななかったが、山の表情として、これもまたそれなりの趣がある。
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