長砂与五郎の五輪塔
●探訪日 2009年9月21日
●所在地 鳥取県八頭郡若桜町長砂
●指定 若桜町指定文化財
【写真左】長砂与五郎五輪塔と書かれた案内板付近
この場所は、若桜街道(29号線)の若桜中学校付近で枝分かれする482号線を約2キロ弱入ったところにある。
この位置から、写真中央手前に見える山が「若桜鬼が城」である。なお、若桜街道は旧播州街道(または播磨道)ともいわれ、482号線は旧但馬道(または伊勢道)とも言われていた。
★「わかさ歴史ものがたり」入江宣明著
所在地である鳥取県若桜町については、以前(2009年1月)若桜鬼が城を取り上げたとき、簡単な紹介をしているが、同町そのものの中世史については、ほとんどその資料がなく、前からほしいと思っていた。
今回、当該五輪塔を探訪した際、たまたま地元の資料館で今年(2009年)8月に発行されたばかりの同著を目にした。大変に読みやすい冊子であり、しかも丁寧な説明内容であったこともあり、さっそく購入した(定価500円)。今稿は同著を参考にしながら紹介させてもらう。
さて、山城探訪をしていると、山城そのものにも興味が尽きないが、併せて興味をもつものとしては、当該城主らの墓である「宝篋印塔」や「五輪塔」である。他の山城ファンはどうかわからないが、山城である現地に足を踏み入れた時の感慨や、高揚感には独特のものがある。これをさらにリアリティに感じさせるものとしては、当事者であった武将の墓の前に立った時である。
五輪塔や宝篋印塔を目の前にすると、数百年前にこの地で武運つたなく散ったその武将にたいする鎮魂の思いがより強くなる。
そんなこともあって、最近では山城探訪の折はできるだけ、その山城に関係した古墓を訪ねるようにしている。
◆解説
「わかさ歴史ものがたり」の「第8話 若桜周辺の小領主」に次のような説明がされている。少し長いが、原文のまま引用させていただく(赤字は管理人による)。
”武士の世になって、この若桜のあたりの小領主として伝えられる者は、矢部氏は別格として、溝見村の溝見(溝海とも書く)氏、長砂村の長砂氏、赤松谷の古海氏に波多野氏といったところがあげられるが、いずれも口碑等により断片的に伝えられる程度で、それぞれ確たる記録は見当たらない。
溝見氏は貞応(1222~)元仁(1224~)のころ、大炊刑部の支配地を奪ったといわれる。現在の若桜駅のあたり一帯を、その昔は溝見(溝海)村といったらしい。この周辺は矢部氏の支配地であったので、あるいはその傘下の武士であったものか、その村の名を名字としたもののようである。
この溝見氏は、太郎兵衛の代に衰えて、当過院という寺の庄屋を勤め、さらに降って新左衛門という者が、その持ち山を西方寺に寄進した寛永7年(1630)の書付が現存している。
溝見氏に取って代わったのが、私都市場城主・毛利豊元の被官であった長砂伊賀守といわれる。
長砂を名字とする長砂氏は、伊賀守と与五郎の二代にわたって周辺を支配したようで、天正9年(1581)秀吉の鳥取城攻めの際落去した。
【写真左】上記案内板付近から与五郎墓方面を見る。
墓のある場所は、この写真の右のほうになるが、もともとこの墓所の真下には「無動山永福寺」という寺院があった。この寺院にあった山門が下段に紹介している写真である。
また、「わかさ歴史ものがたり」には紹介されていないが、長砂氏の当初の居城といわれていた「長砂城」はこの墓所をさらに登り、若桜鬼が城と対峙する地点にあったという。
一説によると、与五郎の長男は但馬へ、次男は徳丸(八頭町)へ潜んだという。また波多野氏は、赤松の古海氏が相撲好きで、その興行のもつれから、安井(八頭町)の青木氏と、北山(八頭町)の丹比(たじひ)氏に滅ぼされたあと、当地に入ったという。古海氏は、某とだけでその名さえ伝えられていない。
これら小領主の経歴や事績はほとんど何もわかっていない。矢部氏のことですら詳しいことは不明で、敗者の歴史は忘れ去られてしまっている。戦国時代には、矢部氏の勢力が衰えて、長砂氏に領地が蚕食されていたと思われる。波多野氏は、日下部(八頭町)の隆平城主・波多野一族と推定できる。ちなみに、才代(八頭町)の見染氏は、溝見氏の後裔で、長砂氏の末裔は徳丸や豊岡へ残る。
なお、若桜駅の上手の道端には、溝海新左衛門の墓がある。また、長砂与五郎の墓は、長砂の大日堂にある大五輪といい、波多野森之助のそれは赤松の男山城の西山裾にある五輪と伝えられている。”
【写真左】長砂与五郎の墓その1
五輪塔は写真の左奥に建立されている。
【写真左】長砂与五郎の墓その2
現地に
「長砂城主・長砂伊賀守の子・長砂与五郎の墓とされているもので、堂々たる風格を持ち、塔高185㎝で町内最大である。与五郎は武功者として寛政元年に
進言したもの」
とある。
【写真左】同墓所の下にあった永福寺(大日堂と思われる)の山門
【写真左】若桜町歴史民俗資料館の建物
この場所には、このほかに県指定保護文化財となった「三百田氏住宅」も復元され建っている。当住宅は元禄時代に立ったものといわれ、庄屋だったらしい。
【写真左】歴史資料館側からみた「若桜鬼ヶ城」遠望
●探訪日 2009年9月21日
●所在地 鳥取県八頭郡若桜町長砂
●指定 若桜町指定文化財
【写真左】長砂与五郎五輪塔と書かれた案内板付近
この場所は、若桜街道(29号線)の若桜中学校付近で枝分かれする482号線を約2キロ弱入ったところにある。
この位置から、写真中央手前に見える山が「若桜鬼が城」である。なお、若桜街道は旧播州街道(または播磨道)ともいわれ、482号線は旧但馬道(または伊勢道)とも言われていた。
★「わかさ歴史ものがたり」入江宣明著
所在地である鳥取県若桜町については、以前(2009年1月)若桜鬼が城を取り上げたとき、簡単な紹介をしているが、同町そのものの中世史については、ほとんどその資料がなく、前からほしいと思っていた。
今回、当該五輪塔を探訪した際、たまたま地元の資料館で今年(2009年)8月に発行されたばかりの同著を目にした。大変に読みやすい冊子であり、しかも丁寧な説明内容であったこともあり、さっそく購入した(定価500円)。今稿は同著を参考にしながら紹介させてもらう。
さて、山城探訪をしていると、山城そのものにも興味が尽きないが、併せて興味をもつものとしては、当該城主らの墓である「宝篋印塔」や「五輪塔」である。他の山城ファンはどうかわからないが、山城である現地に足を踏み入れた時の感慨や、高揚感には独特のものがある。これをさらにリアリティに感じさせるものとしては、当事者であった武将の墓の前に立った時である。
五輪塔や宝篋印塔を目の前にすると、数百年前にこの地で武運つたなく散ったその武将にたいする鎮魂の思いがより強くなる。
そんなこともあって、最近では山城探訪の折はできるだけ、その山城に関係した古墓を訪ねるようにしている。
◆解説
「わかさ歴史ものがたり」の「第8話 若桜周辺の小領主」に次のような説明がされている。少し長いが、原文のまま引用させていただく(赤字は管理人による)。
”武士の世になって、この若桜のあたりの小領主として伝えられる者は、矢部氏は別格として、溝見村の溝見(溝海とも書く)氏、長砂村の長砂氏、赤松谷の古海氏に波多野氏といったところがあげられるが、いずれも口碑等により断片的に伝えられる程度で、それぞれ確たる記録は見当たらない。
溝見氏は貞応(1222~)元仁(1224~)のころ、大炊刑部の支配地を奪ったといわれる。現在の若桜駅のあたり一帯を、その昔は溝見(溝海)村といったらしい。この周辺は矢部氏の支配地であったので、あるいはその傘下の武士であったものか、その村の名を名字としたもののようである。
この溝見氏は、太郎兵衛の代に衰えて、当過院という寺の庄屋を勤め、さらに降って新左衛門という者が、その持ち山を西方寺に寄進した寛永7年(1630)の書付が現存している。
溝見氏に取って代わったのが、私都市場城主・毛利豊元の被官であった長砂伊賀守といわれる。
長砂を名字とする長砂氏は、伊賀守と与五郎の二代にわたって周辺を支配したようで、天正9年(1581)秀吉の鳥取城攻めの際落去した。
【写真左】上記案内板付近から与五郎墓方面を見る。
墓のある場所は、この写真の右のほうになるが、もともとこの墓所の真下には「無動山永福寺」という寺院があった。この寺院にあった山門が下段に紹介している写真である。
また、「わかさ歴史ものがたり」には紹介されていないが、長砂氏の当初の居城といわれていた「長砂城」はこの墓所をさらに登り、若桜鬼が城と対峙する地点にあったという。
一説によると、与五郎の長男は但馬へ、次男は徳丸(八頭町)へ潜んだという。また波多野氏は、赤松の古海氏が相撲好きで、その興行のもつれから、安井(八頭町)の青木氏と、北山(八頭町)の丹比(たじひ)氏に滅ぼされたあと、当地に入ったという。古海氏は、某とだけでその名さえ伝えられていない。
これら小領主の経歴や事績はほとんど何もわかっていない。矢部氏のことですら詳しいことは不明で、敗者の歴史は忘れ去られてしまっている。戦国時代には、矢部氏の勢力が衰えて、長砂氏に領地が蚕食されていたと思われる。波多野氏は、日下部(八頭町)の隆平城主・波多野一族と推定できる。ちなみに、才代(八頭町)の見染氏は、溝見氏の後裔で、長砂氏の末裔は徳丸や豊岡へ残る。
なお、若桜駅の上手の道端には、溝海新左衛門の墓がある。また、長砂与五郎の墓は、長砂の大日堂にある大五輪といい、波多野森之助のそれは赤松の男山城の西山裾にある五輪と伝えられている。”
【写真左】長砂与五郎の墓その1
五輪塔は写真の左奥に建立されている。
【写真左】長砂与五郎の墓その2
現地に
「長砂城主・長砂伊賀守の子・長砂与五郎の墓とされているもので、堂々たる風格を持ち、塔高185㎝で町内最大である。与五郎は武功者として寛政元年に
進言したもの」
とある。
【写真左】同墓所の下にあった永福寺(大日堂と思われる)の山門
現在は歴史民俗資料館の敷地に移設されている。本尊は平安末期から鎌倉初期のものといわれ、同県博物館に所蔵されているらしい。
なお、この山門の左右に入っている仁王像もなかなかのもので、威風感もあるが、なんとなくユーモラスな像である。
【写真左】若桜町歴史民俗資料館の建物
この場所には、このほかに県指定保護文化財となった「三百田氏住宅」も復元され建っている。当住宅は元禄時代に立ったものといわれ、庄屋だったらしい。
【写真左】歴史資料館側からみた「若桜鬼ヶ城」遠望
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