2009年10月14日水曜日

打吹山城(鳥取県倉吉市)

打吹山城(うつぶきやまじょう)

●探訪日 2009年10月12日
●場所  鳥取県倉吉市 打吹山公園
●標高208m、比高190m
●遺構  石垣、曲輪、堀
●築城者 山名氏か
●城主  南条氏

◆解説
 s48年発行「鳥取県史 第2巻 中世」によると、打吹城について次のように記されている。

“…これに対して、田内城をさる南西約2キロの地点にある打吹城も、山名氏の築城と伝えられている。『伯耆民談記』によると、「古城の号を打吹といふ、是当山の名なり」とみえ、時氏の築城というのであるが、傍証の史料がないので俄かに信じがたい。
【写真左】打吹山城遠望
 西側から見たもの。






 打吹山は標高208m、その位置は、久米郡のほぼ中央に当たり、国衙の近郷の地である。当然、地形的にも城郭を置くのにふさわしい場所といえる。

 昔時の小鴨川の一支流は、打吹山の山麓のごく近くを流れていたと思われるから、砦は早くから構えられていたとしても、山麓に集落が形成されたのは、かなり後の時代になってからと考えられる。

 現在の倉吉の町の起源は、明らかにしがたいが、地形上から判断すれば、打吹山の東麓のあたりが最初に開けたと考えられる。史料の上から見る限り、室町末期から戦国期を経て打吹山麓が漸次町として整っていったものと思われる。(下に続く)

【写真左】打吹城の西側登り口付近の案内図
 当城の主な登り口は2カ所あり、今回は西側から登った。この道は、途中にある長谷寺への参道も兼ねており、階段は多いものの比較的登りやすい。従って、駐車場の案内には「長谷寺参道入口」という名称になっており、打吹山城入口とはかかれていない。


打吹城の構え

 打吹城は、次のような構えになっていた。
 当城は打吹山の中央に存して、城の正真北(おもて)にして天守は艮(うしとら・東北)の隅にあり。南北四間、東西六間、高さ一間の台なり。

 本丸の地跡南北十七間、東西三十七間あり。裏門の跡南にあり。矢倉多門の跡夥しく石塁残る。二の丸を備前丸と号す。本丸を去ること西へニ十間なり。境地南北十四間、東西十九間、三の丸を越中丸と云ふ。備前丸より西へ二十三間半下る。
 本丸よりは四十三間下なり。境地南北十四間、東西十九間、本丸より北に当たりて十二間半下り、小鴨丸と云ふ郭あり。南北十三間、東西二十五間、天主より指し渡し四百八間去って城山あり。此山丸台の処四十二丸ありと云い伝えて城の名とし、四十二丸と称するなり。”

【写真左】西側登り口付近の参道
 西側の登り口付近には、普通車が5,6台駐車できるスペースがあり、便所も完備されている。

【写真左】参道途中に設置された『荒尾氏廟所』の案内板
 これには次のように記されている。
「荒尾氏は、鳥取池田藩の家老職を勤めた家柄で、江戸時代の寛永9年(1632)から江戸時代の終わりまで、倉吉を領していました。 荒尾氏の菩提寺は、鳥取の景福寺と倉吉の満正寺です。ここの廟所には、初代嵩就から10代直就までの歴代の領主が祀ってあります。」今回の探訪では当廟所は省略した。



【写真左】長谷寺山門
 平成19年に県指定文化財となった本堂や仁王門があり、当寺の縁起によれば、養老5年(奈良時代:721年)の創建だという。また本堂内の厨子は、昭和63年に国指定重要文化財となっている。  

【写真左】越中丸と呼ばれる曲輪その1
 現地の説明板を転載する。

 “「越中丸」
  このあたりの地名を越中丸といいます。 越中丸は、安土桃山時代に打吹城の出丸として築かれました。
 その当時の打吹城は、羽衣石(東郷町羽衣石:現在の湯梨浜町)を本拠とする南条氏の支配下にあり、南条備前守、山田越中守、小鴨元清の三人が城番として派遣されていました。
 そして、この三人は、打吹城の改修を行い、それぞれ中心となって築いた場所は、備前丸・小鴨丸・越中丸と呼ばれています”
【写真左】その2
 段数は3段で構成され、上段長径約50m、中段の長径30m、下段長径10m程度と思われる。短径は上段部が15m前後。現地には札所として地蔵が並んでいる。
【写真左】越中丸付近から北西方向の倉吉市街を見る。
 当日は、この場所の眺望が一番良く、本丸では限られた視界だった。
【写真左】「備前丸」と呼ばれる曲輪
 この場所は、本丸の直近下の曲輪で、さらに東へ登城道を兼ねた帯曲輪状のものが連続している。

“「打吹城備前丸」

 打吹城は、室町時代の初めごろに伯耆守護山名氏によって築城されたと伝えられています。戦国時代の終わりごろ、羽衣石城主(湯梨浜町)南条氏が支配する城となり、一族や家臣が城番として派遣されました。

 この備前丸は、山頂の本丸を守るため、南条備前守が住んだといいます。尾根を削って平坦地(曲輪跡)を造り、建物や柵が設けられていました。備前丸のほかにも、越中丸や小鴨丸と呼ばれる曲輪跡が打吹山に多数残っています。

 その後は米子城主中村一忠が支配する城となりましたが、元和元年(1615)に取り壊されました。”

【写真左】備前丸から本丸に向かう帯曲輪付近
 今回は、西側登城道から登ったため、東側登城口付近をほとんど見ていない。おそらく「小鴨丸」は東側に設置されていると思われる。
 この帯曲輪部分は雑木が多いため、十分には見ていないが、かなりの広さがあるように見えた。


【写真左】本丸その1
【写真左】本丸その2
 本丸の大きさは、上段で示したように南北17間(約31m)、東西37間(約67m)とかなり広い。
 本丸の北東部端は写真にあるようにさらに小高い面があり、櫓などの機能を備えていたものと思われる。現在その位置に石碑が建てられている。
【写真左】本丸跡からみた倉吉市内
 中央の樹木がさえぎっているが、この場所から左側から伸びている丘陵地が「巌城」で、左側中腹に「山名寺」本堂の屋根が見える。また、右側の先端部の高所に小さく「田内城」の模擬天守がみえる。
 左下に少し見える川が小鴨川で、東から下ってきた天神川と合流し、日本海へそそいでいる。
【写真左】本丸の東崖部分にある石垣跡

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