印賀宝篋印塔(いんがほうきょういんとう)
と八幡山
●探訪日 2009年10月23日
●所在地 鳥取県日南町印賀
◆解説
今月の投稿で、「日南町中石見の宝篋印塔」を取り上げた際、鳥取県ではもっとも有名な宝篋印塔として印賀の宝篋印塔があると紹介していたが、今回その現地を訪れたので紹介したい。
【写真左】印賀宝篋印塔
場所は、同じ日南町であるが、場所的には島根県寄りの北部・印賀という場所になる。国道180号線(法勝寺往来)の菅沢ダム湖北端部で枝分かれする48号線(阿毘縁菅沢線)を入り、しばらくすると小さな盆地に出る。
この地区が印賀集落で、「古市」とか「宝谷」という字名が点在する。この場所から、北の方面に向かい寺谷坂という峠を越えると島根県安来伯太に出る。また、西に向かうと途中で、古刹「解脱寺」があり、さらに奥出雲町につながる。昔の伯耆国と出雲(雲州)の接点であり、備中との中継地点でもある。
今回取り上げる印賀宝篋印塔は、そうした歴史を持った場所に建っている。
【写真左】48号線から分かれた付近の案内板
この場所に下記のような印賀宝篋印塔についての説明板が設置されている。
“ここから南へ約1.3キロメートルほどの小高い八幡山(はちまんやま)の頂上、木立の中に石像文化財「印賀宝篋印塔(西暦1357年建立)」があります。
今をさかのぼること約600余年。日本は南北朝時代にあり、後醍醐天皇方(南朝)と足利尊氏が擁立した光明天皇方(北朝)が相争った時代にありました。後醍醐天皇の忠臣・楠木正成や新田義貞、名和長年が、北朝の足利方と激しく戦った事は歴史に残っています。
この戦いは、ここ印賀の地方武士にもおよび、九州での南北朝の戦いに南朝方の援軍として200余人が結集、出陣しています。
出陣に当たり「この地に再び生きて帰ることはない」と、自分たちで菩提を弔う逆修の塔として、この印賀宝篋印塔を建立したといわれ、今日までその時代の証を伝えています。
また、この宝篋印塔は、地方では第一級の美しさと最古の部類に入る大変貴重なもので、鳥取県の保護文化財に指定されています。
みなさまもどうぞ一度、お参りになり南北朝の時代へ想いをはせてください。”
【写真左】印賀宝篋印塔が建立されている「八幡山」
同塔は、同山の頂部に設置されている。八幡山については後段参照。
【写真左】八幡山登城口付近
登城路は2カ所あり、写真は南東部にある駐車場側(兼:ゲートボール場)からみたもの。
始点から終点まで直線の階段が設置されている。距離は約100m程度か。
なお、この手前右側に小祠が祭ってあり、その手前のかなり大きな平坦地(現在は杉などが植林されている)があった。
おそらく八幡山という名称から考えて、当時この場所に「八幡社」のようなものがあったと思われる。その社の前身は「侍屋敷」などが建っていたような雰囲気があった。
【写真左】印賀宝篋印塔その1
八幡山の頂部にかなり大きな平坦部があり、その頂部に建屋を設置し中に安置されている。
【写真左】その2
下段の説明板にもあるように、ほとんど劣化の痕跡を認めない奇跡的な石像で、650年以上も経ったものとは思えない。
材料となった花崗岩の質も良かったかもしれないが、永年にわたって地元印賀の先祖代々がこの印塔を守り続けてきたからだとおもえる。
普通、こうした石造物は角のほうから摩耗・剥離の症状が出て、丸みを帯びた形状になってくるが、そうした外観上の変化もほとんど見られない。
そうしたことから、県指定保護文化財となるだけのものはあると、つくづく感じた。
【写真左】その3
当地に同塔の説明板がある。以下転載する。
“県指定保護文化財
印賀宝篋印塔
(昭和28年8月8日指定)
八幡山のこの宝篋印塔は、印賀宝篋印塔と俗称される。総高2.4m、花崗岩製で相輪、笠、塔身、台座、基礎、基壇を完全に残している。
塔身は方形で、正面には銘文が彫られているが、磨滅してほとんど読めない。もとは、
「逆修一日□□妙典、十三部供養巳畢 正平十二酊十月 一結衆二百餘□敬白」
とあった。
逆修は、逆(あらかじ)め冥福を修める意である。正平12年(1357)は、南朝の年号であるが、時は南北朝の対立、混乱の世の中であり、南朝の正朔(せいさく)を奉じる武士たちにとっては、前もって自らの死後の菩提を弔っておくことは必要なことであった。印賀周辺の二百余人の武士たちの切実な願いが、この逆修塔の建立となったのものである。
この宝篋印塔は、県内では最も古い部類に属し、意匠的にも技術的にも優れた石造建築であるとともに、逆修の銘文は、当時の史料として貴重なものである。
昭和56年2月
鳥取県教育委員会”
【写真左】八幡山遠望
中央頂部に同塔が設置されている。
◆ところで、印賀宝篋印塔が設置されているこの「八幡山」という山だが、写真のように比高はさほどないものの、地取り位置や、頂部の削平地などをみると、「山城」の条件を備えているように思えた。
現地の説明板には、この八幡山北方に「中倉城跡」というものもあり、当山もそれらと関連した城塞ではなかったと思われる。
【写真左】北側からの登城路付近
七曲経路の登城路が造られている。
この道は近年造られたもので、全体に北方方面が見渡せるように伐採されている。
【写真左】八幡山頂部から北東方面を見る
頂部から東の尾根伝いに歩いてみたが、笹が繁茂していて、地面の状況がつかみにくかった。ただ、人工的な段丘面の痕跡があった。
と八幡山
●探訪日 2009年10月23日
●所在地 鳥取県日南町印賀
◆解説
今月の投稿で、「日南町中石見の宝篋印塔」を取り上げた際、鳥取県ではもっとも有名な宝篋印塔として印賀の宝篋印塔があると紹介していたが、今回その現地を訪れたので紹介したい。
【写真左】印賀宝篋印塔
場所は、同じ日南町であるが、場所的には島根県寄りの北部・印賀という場所になる。国道180号線(法勝寺往来)の菅沢ダム湖北端部で枝分かれする48号線(阿毘縁菅沢線)を入り、しばらくすると小さな盆地に出る。
この地区が印賀集落で、「古市」とか「宝谷」という字名が点在する。この場所から、北の方面に向かい寺谷坂という峠を越えると島根県安来伯太に出る。また、西に向かうと途中で、古刹「解脱寺」があり、さらに奥出雲町につながる。昔の伯耆国と出雲(雲州)の接点であり、備中との中継地点でもある。
今回取り上げる印賀宝篋印塔は、そうした歴史を持った場所に建っている。
【写真左】48号線から分かれた付近の案内板
この場所に下記のような印賀宝篋印塔についての説明板が設置されている。
“ここから南へ約1.3キロメートルほどの小高い八幡山(はちまんやま)の頂上、木立の中に石像文化財「印賀宝篋印塔(西暦1357年建立)」があります。
今をさかのぼること約600余年。日本は南北朝時代にあり、後醍醐天皇方(南朝)と足利尊氏が擁立した光明天皇方(北朝)が相争った時代にありました。後醍醐天皇の忠臣・楠木正成や新田義貞、名和長年が、北朝の足利方と激しく戦った事は歴史に残っています。
この戦いは、ここ印賀の地方武士にもおよび、九州での南北朝の戦いに南朝方の援軍として200余人が結集、出陣しています。
出陣に当たり「この地に再び生きて帰ることはない」と、自分たちで菩提を弔う逆修の塔として、この印賀宝篋印塔を建立したといわれ、今日までその時代の証を伝えています。
また、この宝篋印塔は、地方では第一級の美しさと最古の部類に入る大変貴重なもので、鳥取県の保護文化財に指定されています。
みなさまもどうぞ一度、お参りになり南北朝の時代へ想いをはせてください。”
【写真左】印賀宝篋印塔が建立されている「八幡山」
同塔は、同山の頂部に設置されている。八幡山については後段参照。
【写真左】八幡山登城口付近
登城路は2カ所あり、写真は南東部にある駐車場側(兼:ゲートボール場)からみたもの。
始点から終点まで直線の階段が設置されている。距離は約100m程度か。
なお、この手前右側に小祠が祭ってあり、その手前のかなり大きな平坦地(現在は杉などが植林されている)があった。
おそらく八幡山という名称から考えて、当時この場所に「八幡社」のようなものがあったと思われる。その社の前身は「侍屋敷」などが建っていたような雰囲気があった。
【写真左】印賀宝篋印塔その1
八幡山の頂部にかなり大きな平坦部があり、その頂部に建屋を設置し中に安置されている。
【写真左】その2
下段の説明板にもあるように、ほとんど劣化の痕跡を認めない奇跡的な石像で、650年以上も経ったものとは思えない。
材料となった花崗岩の質も良かったかもしれないが、永年にわたって地元印賀の先祖代々がこの印塔を守り続けてきたからだとおもえる。
普通、こうした石造物は角のほうから摩耗・剥離の症状が出て、丸みを帯びた形状になってくるが、そうした外観上の変化もほとんど見られない。
そうしたことから、県指定保護文化財となるだけのものはあると、つくづく感じた。
【写真左】その3
当地に同塔の説明板がある。以下転載する。
“県指定保護文化財
印賀宝篋印塔
(昭和28年8月8日指定)
八幡山のこの宝篋印塔は、印賀宝篋印塔と俗称される。総高2.4m、花崗岩製で相輪、笠、塔身、台座、基礎、基壇を完全に残している。
塔身は方形で、正面には銘文が彫られているが、磨滅してほとんど読めない。もとは、
「逆修一日□□妙典、十三部供養巳畢 正平十二酊十月 一結衆二百餘□敬白」
とあった。
逆修は、逆(あらかじ)め冥福を修める意である。正平12年(1357)は、南朝の年号であるが、時は南北朝の対立、混乱の世の中であり、南朝の正朔(せいさく)を奉じる武士たちにとっては、前もって自らの死後の菩提を弔っておくことは必要なことであった。印賀周辺の二百余人の武士たちの切実な願いが、この逆修塔の建立となったのものである。
この宝篋印塔は、県内では最も古い部類に属し、意匠的にも技術的にも優れた石造建築であるとともに、逆修の銘文は、当時の史料として貴重なものである。
昭和56年2月
鳥取県教育委員会”
【写真左】八幡山遠望
中央頂部に同塔が設置されている。
◆ところで、印賀宝篋印塔が設置されているこの「八幡山」という山だが、写真のように比高はさほどないものの、地取り位置や、頂部の削平地などをみると、「山城」の条件を備えているように思えた。
現地の説明板には、この八幡山北方に「中倉城跡」というものもあり、当山もそれらと関連した城塞ではなかったと思われる。
【写真左】北側からの登城路付近
七曲経路の登城路が造られている。
この道は近年造られたもので、全体に北方方面が見渡せるように伐採されている。
【写真左】八幡山頂部から北東方面を見る
頂部から東の尾根伝いに歩いてみたが、笹が繁茂していて、地面の状況がつかみにくかった。ただ、人工的な段丘面の痕跡があった。
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