若桜・永福寺
●探訪日 2009年9月21日
●所在地 鳥取県八頭郡若桜町長砂
前稿で「長砂与五郎の五輪塔」を取り上げた際、永福寺について少し触れていたが、今稿ではこの寺を中心に取り上げたい。
◆矢部氏について(追補) その前に、参考にした「わかさ歴史ものがたり」の中で、矢部氏の出自なども不明とあったが、その後他の資料を調べてみると、多少は同氏に関する記録も見える。
「矢部氏系譜」(『矢部北川史考』所引)という史料によると、本貫地はもともと駿河(静岡県)にあったといわれ、鎌倉時代の初期、因幡八東に入部したといわれている。以前取り上げた「若桜鬼ヶ城」については、繰り返しになるが、矢部若桜守という武将が築城し、以後16代にわたって続いたという。これだけ長く続いた一族だが、その割には具体的な史料が少ない。
その中でも、長享3年(1489)、一族である矢部北川(河)氏の一人・矢部北河与三左衛門尉は、因幡の守護方に属して属して、同年9月徳丸河原(若桜の近郊地)の合戦に奮闘、山名豊時の感状が残っている。さらに下って永正10年(1513)4月から5月にかけて、因幡布勢城付近で合戦があり、矢部与三左衛門尉が活躍している。その際、山名豊頼は矢部北川氏に感状を与えている。またもう一人の矢部北川備後守に「智頭郡三成別府地」を新給宛行している。さらに同年6月10日には、北川与三左衛門尉に「因幡国府中広瀬内龍口跡、布勢南方石谷左京進後家分五段小、野坂嶋村内屋敷弐カ所」を給している。
(参考文献:「鳥取県史2中世」より)
◆無動山・永福寺
長砂与五郎の五輪塔を訪れた際、この付近には駐車場らしきところもなく困っていたところ、地元のご年配のご婦人がたまたま近くにおられ、ご親切に駐車場所を案内していただいた。そのあと、目指す墓地のほうへ登ってみると、柵がしてあり、遠目からみると鍵がかかっているように見えたため、断念しようとした。すると先ほどのご婦人のお宅が近くであったこともあり、訪ねたところ、これは鍵はかかっているようで、実はかかっていない、とのこと(後でよくみたら簡単に手で外せるようになっていた。イノシシ避けのためのようだ)。
【写真左】永福寺跡
集落に近い下段の場所で、おそらく庫裡などがあったものと思われる。幅は約50m程度、奥行きは20mぐらいか。左側には井戸跡があった。
ついでにこの方に同墓所のことを訪ねたところ、以下のような返事をいただいた。
●五輪塔のことについては詳しくは知らないが、昔からあったものと聞いている。
●五輪塔のある場所は、もともとこの手前にお寺があって、ずいぶん前から無住となっていた。自分がこの地に嫁に来たころ(昭和40年前後)、ある日、大音響とともに、本堂が崩れおちた。このままほっておくのはよくないということで、地元の有志で大事なものは片づけ、本尊は県のほうへ収蔵し、山門は現在の若桜町資料館へ移設した。
●詳しいことはわからないが、この廃寺は昔から古刹として伝えられてきて、最盛期には相当数の坊があったらしい。今までも何回か専門の方がやってきていろいろな調査をしてこられた。
【写真左】永福寺跡
下の段から上に約3段の段差があり、写真の上に本堂があった。
以上がご婦人から聞いた内容だが、話を終えたところで、
「あなたたちは、出雲から来られたのではないですか?」と尋ねられた。なぜ分かりましたか、と聞くと「出雲弁の訛りがあったから」という。このご婦人はもともと、出雲の木次町(現在の雲南市)に15歳くらいまでいたとこのこと。父親の仕事の関係で、その後鳥取のほうへ移住したが、若い時に使っていた出雲弁が懐かしく、すぐに分かったという。当方はできるだけ、「標準語」で喋っているつもりだが、「出雲弁様式の標準語?」らしく、分かる人にはわかるらしい。
【写真左】永福寺跡
途中の段部分の階段。周囲はだいぶ朽ち果てているが、面積はかなり広いようだ。
【写真左】永福寺本堂跡
地元のご婦人がいっていた本堂で、昭和40年前後に突然、大音響とともに屋根が崩れ、本堂も崩壊した。現在は多数の瓦や壁の一部がそのまま残っている。
【写真左】長砂与五郎の五輪塔
永福寺の最上段の境内からさらに登ったところに見える「長砂与五郎の墓」
なお、この墓所からさらに上に登る道のようなものがあったが、長砂城本丸へ向かう道の一つだったかもしれない。
また、当寺の創建時が不明だが、本尊が作られたのが平安末期または鎌倉初期とのことから、長砂一族がのちに当寺を菩提所とした可能性が高い。
【写真左】永福寺山門の仁王像
本堂そのものは崩壊したものの、山門だけは何とか残ったことから移設されたようだ。仁王像は鎌倉期のようにも見える。
●探訪日 2009年9月21日
●所在地 鳥取県八頭郡若桜町長砂
前稿で「長砂与五郎の五輪塔」を取り上げた際、永福寺について少し触れていたが、今稿ではこの寺を中心に取り上げたい。
◆矢部氏について(追補) その前に、参考にした「わかさ歴史ものがたり」の中で、矢部氏の出自なども不明とあったが、その後他の資料を調べてみると、多少は同氏に関する記録も見える。
「矢部氏系譜」(『矢部北川史考』所引)という史料によると、本貫地はもともと駿河(静岡県)にあったといわれ、鎌倉時代の初期、因幡八東に入部したといわれている。以前取り上げた「若桜鬼ヶ城」については、繰り返しになるが、矢部若桜守という武将が築城し、以後16代にわたって続いたという。これだけ長く続いた一族だが、その割には具体的な史料が少ない。
その中でも、長享3年(1489)、一族である矢部北川(河)氏の一人・矢部北河与三左衛門尉は、因幡の守護方に属して属して、同年9月徳丸河原(若桜の近郊地)の合戦に奮闘、山名豊時の感状が残っている。さらに下って永正10年(1513)4月から5月にかけて、因幡布勢城付近で合戦があり、矢部与三左衛門尉が活躍している。その際、山名豊頼は矢部北川氏に感状を与えている。またもう一人の矢部北川備後守に「智頭郡三成別府地」を新給宛行している。さらに同年6月10日には、北川与三左衛門尉に「因幡国府中広瀬内龍口跡、布勢南方石谷左京進後家分五段小、野坂嶋村内屋敷弐カ所」を給している。
(参考文献:「鳥取県史2中世」より)
◆無動山・永福寺
長砂与五郎の五輪塔を訪れた際、この付近には駐車場らしきところもなく困っていたところ、地元のご年配のご婦人がたまたま近くにおられ、ご親切に駐車場所を案内していただいた。そのあと、目指す墓地のほうへ登ってみると、柵がしてあり、遠目からみると鍵がかかっているように見えたため、断念しようとした。すると先ほどのご婦人のお宅が近くであったこともあり、訪ねたところ、これは鍵はかかっているようで、実はかかっていない、とのこと(後でよくみたら簡単に手で外せるようになっていた。イノシシ避けのためのようだ)。
【写真左】永福寺跡
集落に近い下段の場所で、おそらく庫裡などがあったものと思われる。幅は約50m程度、奥行きは20mぐらいか。左側には井戸跡があった。
ついでにこの方に同墓所のことを訪ねたところ、以下のような返事をいただいた。
●五輪塔のことについては詳しくは知らないが、昔からあったものと聞いている。
●五輪塔のある場所は、もともとこの手前にお寺があって、ずいぶん前から無住となっていた。自分がこの地に嫁に来たころ(昭和40年前後)、ある日、大音響とともに、本堂が崩れおちた。このままほっておくのはよくないということで、地元の有志で大事なものは片づけ、本尊は県のほうへ収蔵し、山門は現在の若桜町資料館へ移設した。
●詳しいことはわからないが、この廃寺は昔から古刹として伝えられてきて、最盛期には相当数の坊があったらしい。今までも何回か専門の方がやってきていろいろな調査をしてこられた。
【写真左】永福寺跡
下の段から上に約3段の段差があり、写真の上に本堂があった。
以上がご婦人から聞いた内容だが、話を終えたところで、
「あなたたちは、出雲から来られたのではないですか?」と尋ねられた。なぜ分かりましたか、と聞くと「出雲弁の訛りがあったから」という。このご婦人はもともと、出雲の木次町(現在の雲南市)に15歳くらいまでいたとこのこと。父親の仕事の関係で、その後鳥取のほうへ移住したが、若い時に使っていた出雲弁が懐かしく、すぐに分かったという。当方はできるだけ、「標準語」で喋っているつもりだが、「出雲弁様式の標準語?」らしく、分かる人にはわかるらしい。
【写真左】永福寺跡
途中の段部分の階段。周囲はだいぶ朽ち果てているが、面積はかなり広いようだ。
【写真左】永福寺本堂跡
地元のご婦人がいっていた本堂で、昭和40年前後に突然、大音響とともに屋根が崩れ、本堂も崩壊した。現在は多数の瓦や壁の一部がそのまま残っている。
【写真左】長砂与五郎の五輪塔
永福寺の最上段の境内からさらに登ったところに見える「長砂与五郎の墓」
なお、この墓所からさらに上に登る道のようなものがあったが、長砂城本丸へ向かう道の一つだったかもしれない。
また、当寺の創建時が不明だが、本尊が作られたのが平安末期または鎌倉初期とのことから、長砂一族がのちに当寺を菩提所とした可能性が高い。
【写真左】永福寺山門の仁王像
本堂そのものは崩壊したものの、山門だけは何とか残ったことから移設されたようだ。仁王像は鎌倉期のようにも見える。
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