2009年10月17日土曜日

五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)

五品嶽城(ごほんがたけじょう)

●探訪日 2009年6月2日
●所在地 広島県庄原市東城町川西
●標高/比高 480/170m
●遺構 石垣、土塁、郭、井戸など
●城主 宮氏、佐波氏、長尾氏
●指定 広島県史跡

◆解説
(現地の説明板より)
広島県史跡 五品嶽城(ごほんがだけじょう)跡
   所在地 広島県比婆郡東城町大字東城字五本ケ嶽山7番地の1ほか6番
   指定年月日 昭和62年3月30日

 この城跡は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての山城で、五本竹城・世直城ともいわれた。築城年代は明らかでないが、宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本拠とされた。

 以来、宮氏はこの城を東城、大富山城を西城と呼んだ。宮氏が毛利氏の命で出雲に転出したあと、天正19年(1591)には、石見国から佐波越後守広忠が東城城主として赴任した。佐波氏は菩提寺を川東の千手寺に合併し、寺領を寄進している。しかし佐波氏も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののちは、毛利氏に伴って萩へ移った。毛利氏に代わって芸備の太守となった福島正則は、その三家老のひとり長尾隼人正一勝を東城の城主に任命し、備中・伯耆の国境守備にあたらせた。

【写真左】東城町東方の千手寺側から見た五品嶽城遠望

千手寺については、次稿で紹介したい。





 長尾氏は帝釈の永明寺に鉄製の鰐口(わにぐち)を、川西の法恩寺には大般若経600巻を寄進している。
 しかし、元和元年(1619)には福島正則も、広島城の無断改修を理由に改易され、長尾氏も津山に去って、この城は廃城となった。

 この城は東城の町並みを東眼下に見下ろせる通称城山(標高490m、比高170m)に築かれたもので、西側に続く山並みとは鞍部を掘り切って深さ約15mの堀切としている。郭群は頂部の常の丸、太鼓の平を中心に北東方面に延びる尾根の上にケヤキが平、カヤの平とほぼ連続して設けられているが、山麓にも杉の平、物見が丸などの郭がみられる。

 この城跡は、中世遺構の上に近世初頭の技術が加えられている点に特色がある。近世初頭以降は完全に近く保存されており、学術的に貴重である。

 昭和63年9月30日建設  広島県教育委員会  東城町教育委員会”
【写真左】登城口の北側から登った付近
【写真左】世直神社の奥付近
 登城始点は世直神社から登るのが一般的らしいが、たまたまその北側奥の民家の空地に駐車し、そこから神社奥の道に入って、登り始めた。

 この下には本殿があるが、それまでに小祠が数点鎮座している。
【写真左】城山入口付近に設置された案内石碑や説明板
 6月であったこともあり、山全体の樹木が生茂って全体に暗く、視界が極めて不良だった。
【写真左】「カヤの平」付近
【写真左】古井戸付近
 この周りは、削平地でもあるが、当初の地形でもフラットな場所にみえた。

 広さも相当大きいので、普段はこの場所で相当数の者が生活していたのではないだろうか。
【写真左】「ケヤキが平」付近
【写真左】「太鼓が平」付近

【写真左】「常の丸」付近その1
 当城の最高所で本丸に当たる部分だが、草丈が伸びて遺構が確認しがたい。

 この付近は面積も相当広く、2,3段に区分されている。周囲の樹木が伐採されておれば、北・東・南方面はすべて見渡せたと思われる。
【写真左】「常の丸」付近その2
井戸跡がある。
【写真左】「常の丸」付近その3
 これも井戸跡だが、かなり深そうに見えた。





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