但馬・塩冶氏について
前稿「芦屋城主・塩冶氏」を取り上げた際、同氏の出自が不明と紹介したが、「城之助」さんより、つぎのような情報をメールでいただいたので、紹介したい。
“トミーさんの更新された記事にある但馬塩冶氏について調べた事を少しばかりお伝えします。
塩冶高貞の甥にあたる塩冶通久の四男、周防守の子(某)が祖となるようです。”
以上のように、やはり塩冶高貞の系譜であったことがこれで分かった次第。
興国2年(暦応4年:1341)3月、高貞が山名氏からの追討を受け、現在の島根県宍道町白石(又は佐々布)で馬乗のまま、腹を掻き切るという壮絶な自刃をした際、同行していた家臣は殉死しているが、塩冶氏一族の一部は何とか免れているようだ。
情報提供していただいた城之助さんにお礼申し上げます。
前稿「芦屋城主・塩冶氏」を取り上げた際、同氏の出自が不明と紹介したが、「城之助」さんより、つぎのような情報をメールでいただいたので、紹介したい。
“トミーさんの更新された記事にある但馬塩冶氏について調べた事を少しばかりお伝えします。
塩冶高貞の甥にあたる塩冶通久の四男、周防守の子(某)が祖となるようです。”
以上のように、やはり塩冶高貞の系譜であったことがこれで分かった次第。
興国2年(暦応4年:1341)3月、高貞が山名氏からの追討を受け、現在の島根県宍道町白石(又は佐々布)で馬乗のまま、腹を掻き切るという壮絶な自刃をした際、同行していた家臣は殉死しているが、塩冶氏一族の一部は何とか免れているようだ。
情報提供していただいた城之助さんにお礼申し上げます。
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