2009年7月14日火曜日

高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠

高遠城別名兜山城、甲山城

登城日  2007年10月16日
●指定    国指定史跡
●築城期  治承3年(1179)
●築城者  笠原平吾頼直
●高さ    標高800m、比高50~70m
●城主   笠原平吾頼直、木曽義親(高遠太郎)、高遠氏、保科正俊、
       秋山信友、武田勝頼、
       仁科盛信、毛利秀頼、京極高次、その他
●所在地  長野県上伊那郡高遠町東高遠

◆はじめに
 前々稿に続いて「西国」ではなく「東国の山城」紹介となるが、今回の場所は必ずしも、西国それも出雲の中世国人領主と全く関係のないところではなく、むしろ非常に関係のあったところである。
 以前、出雲の三刀屋氏、三沢氏、牛尾氏などを取り上げた際、これら諸氏の元々の出身地が信州を中心とした源氏系であったことを紹介した。そうしたこともあって、今回の高遠城周辺である上伊那も一度は訪れてみたい場所であった。

 さて、毎年春になると、この高遠城を中心とした公園には地元はもちろんのこと、遠く東京や名古屋方面など全国各地から大型バスに乗った多くの観光客が訪れる全国的に有名な桜の名所である。
 そうしたことから、現在では当城の価値が山城としての位置づけよりも、桜の観光地としての方が大きく、山城探訪者がこの時期に訪れると、大変な渋滞と混雑で、じっくりと遺構を見るということはまず困難な状況である。

 こうした事前の情報も知っていたので、探訪した時期は前出の岩村城、苗木城探訪の時で、2007年10月16日である。このときの目的地は山城は当然だが、前から木曽川と並行して走る中山道(19号線)を走ってみたいという希望と、連れ合いの「妻籠」を見たいというリクエストもあり、さらにタイミングよく、前年の2006年2月に、中山道から上伊那に抜ける難所の通称「権兵衛街道(361号線)」の「権兵衛トンネル」が開通したこともあって、それじゃあついでに高遠城へはそんなに時間はかからないだろうということから向かった。
【写真左】高遠城遠望
 高遠湖岸の南にある高遠桜ホテルの宿から見たもので、中央の模擬天守のような建物の後が、高遠城址公園である。
 戦国期は当然ながら、写真に見える堰はなく、したがって高遠湖なる人造湖はなかった。この川は三峰川という名で、ちょうど中央構造線(フォッサマグナ)のラインと重なる。武田軍が攻め入ったルートはこの写真の中央から右にかけて登って行く「杖突街道」側からで、当時としてはかなりの高低差があったものと思われる。なお、信長方が攻め入ったルートは西の「権兵衛街道」側からだが、どちらにしても武田軍と同じような陣取りとなったと思われる。
 なお、後述する仁科盛信を供養した石碑が置かれているのは、この写真の左の山後方にある。後で知ったのだが、この武将の名は、長野県歌「信濃の国」の中にも歌われているという。

◆解説
 当城の形態としては高遠の町の高台に立つ城であるが、山城というより「平山城」といったほうがいいかもしれない。もっとも現在のように城下の町が整備され、登城道も車で行けるような環境になったことあって、城郭の設置高さはあまり感じられないかもしれないが、中世・戦国期にはある程度の切崖や要害施設が機能していたと思われる。

【写真左】高遠城本丸付近

 沿革は上段に主だった記録として載せているが、築城期は治承3年というから、源頼朝が伊豆で挙兵する前年である。ちなみに出雲・尼子氏の居城となった月山冨田城が、初めて築城されたのは、高遠城の築城期より2年前のことで、治承元年(1177)、平宗清とされている。
 戦国期になると、甲斐の武田信玄は天分16年(1547)信濃に侵攻し、謀略によって当城を降し、岩村城の稿でも紹介した重臣・秋山信友に命じて、この城の大改修を行わせている。この時、山本勘助が実際の改修普請の統括責任者ではなかったといわれている。

【写真左】本丸跡その1
この周辺には、信州高遠美術館もある

 高遠城の城主はこの時期からめまぐるしく変わっていく。弘治2年(1556)は改修を行った秋山信友だが、その後信玄の弟や子が城主となっている。
 天正10年(1582)、信玄の五男・仁科五郎盛信と織田信忠の戦いはつとに有名で、信長の長男・信忠は5万の大軍を率いて高遠城に攻め入った。対する仁科側はわずか3千の城兵で、常識的にはこの段階で降伏するところだが、盛信はあえてそれを受け入れず、徹底抗戦した。果せるかな盛信はじめ高遠の城兵はすべて討死した。
 その後の経緯は他の史料に詳しく述べてあるので、省略する。

【写真左】高遠城の下の付近にあった門
たしか、江戸時代のものだったと思う。
【写真左】本丸跡その2
現在の高遠城は、江戸期に近代城郭として相当改修されているようだが、それにしても郭の大きさなどかなりの規模である。

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