2016年7月28日木曜日

近江・長澤城(滋賀県米原市長沢)

近江・長澤城(おうみ・ながそじょう)

●所在地 滋賀県米原市長沢
●形態 平城(沼城)
●築城期 保元の乱後(1158年過ぎ)
●築城者 長澤太郎冠者土佐守義盛
●城主 累代長澤氏17代(300年)、浅井氏・若宮氏被官、六角氏(本陣)
●廃城 慶長2年(1597)秀吉古城取り壊し、慶長7年(1602)内藤四郎左衛門尉正成領地
●遺構 的場・内堀・土塁等
●備考 福田寺・長澤城併存(延元4年:1339~)、熊野神社、長澤御坊
●指定 福田寺公家奴振り(県指定無形民俗文化財)
●登城・参拝日 2016年6月28日

◆解説
 滋賀県の琵琶湖の東方米原市の西岸部には、東西凡そ2キロ余、南北1キロ前後の規模を持つ長沢という小字規模の集落がある。西端は琵琶湖に面し、北及び東側の境は長浜市と接している。
【写真左】長澤城 内堀跡・その1
 集落の南側には幅2mほどの排水路のようなものが残っているが、これが長澤城時代の堀跡とされている。




 当地には、前稿出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2の後半で少し紹介したように、永禄12年(1569)尼子再興軍の頭首として東福寺の僧から還俗した尼子勝久に従い、戦ったとされる近江長澤氏の居城(居館)跡がある。

 集落に残る濠跡付近には地元「長澤郷つくり委員会」が作成した「長澤村と仲の川」というタイトルの説明板と、福田寺の前に設置された当院の由来を紹介したものが設置されている。二つとも長文になるが、これらを先ず紹介しておきたい。
(※註 ◇は判読不能、下線は管理人による。)
【写真左】長澤城 内堀跡・その2
 上の堀跡と同じ個所のもので、左側(北)に後ほど紹介する福田寺がある。
 また、この堀から手前(西)へ約400m程向かったところには、平安時代には「長澤池」という湿地帯があり、平安時代の歌人・藤原顕輔(1100年頃)が、池に群生したあやめを詠んだ古歌が残っている。


◎説明板・その1

“長澤村と仲の川

 長澤村の始まりは、人皇56代清和天皇第四王子、貞保親王八代皇斎長澤太郎冠者土佐守義盛保元の乱(1158)の賞により長澤領を受け、金子三千貫をかけ一町半四方の「長澤柵(構)」を築造、これが組頭以下侍250人、馬50頭を擁する「長澤城」となり、周囲を石積で二重堀にした。


【写真左】長澤地区の東側
 長澤城(福田寺)の東側には右側に見える県道556号線が走っている。この道をそのまま奥(南)へ進むと、坂田に繋がり、さらに米原市街地へと向かう。
 土地改良されたため、中世の様子は大幅に変わっているが、現在田圃になっている箇所なども長澤池または安土桃山時代によばれていた「あやめ池」だったと考えられる。



 「仲の川」を含め、当時は2間余りの幅を持つ内堀で四方を囲み、北国街道から内堀を反り橋(坂田神明宮に現存)で渡り惣門をくぐり、城や福田寺へ出入りした。

 こうした形で周辺を治めた長澤城主は、17代約300年間続いた。長澤城が出来て180年後、延元4年(1339)長浜の布施山から福田寺が移り、それから130年、長澤城と福田寺は共栄してきたが、何が因かは定かではないが、長澤城は閉城したと伝えられている。


【写真左】福田寺(長澤御坊)の西側
 下段で紹介する福田寺(左側)の裏側に当たり、集落の西端部である。
 この道は奥でL字に曲がっている。こうした痕跡は長澤城時代のものかもしれない。



 蓮如はこの前後、宝徳元年(1449)から延徳2年(1490)にかけていくたびか福田寺に滞在している。

 天文年中の長澤村の北国街道では、浅井氏や若宮氏の被官が在番し、通荷に関銭をかける関所となり茶屋が並んだ。同7年(1537)、浅井氏と六角氏の争いで六角氏の本陣が長澤村に置かれ、関と併せ江北の戦略上の要地となった。

【写真左】福田寺入口
 南側の堀跡側から北に向かう狭い道を進むと、左側に大きな広場が見える。
 右奥に進むと、後段で紹介する熊野神社の鳥居があり、その左には福田寺の山門が建っている。




【写真左】福田寺の山門
 堂々たる山門で、しかも優美である。
左に福田寺の由来を示す説明板があり、右側に昭和13年に建立された「明治天皇長澤御小休所」と刻銘された石碑が建つ。




 また、信長の寺社仏閣焼打ちに抗し、江北10か寺の先頭に立つ福田寺は、4500人の僧兵や民衆を組織して立ち向かうなど、僧兵や寺侍・念仏者などの民衆のエネルギーが集う場となるが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長澤城の残部も取り除かれ、慶長7年(1602)には、家康の旗頭、内藤四郎左衛門尉正成の領地となった。

 南・北・西茶屋や弓を射る的場、米◇◇蔵、城寺を結ぶ◇御成り道、陣屋跡の御陣屋、寺町・大門など、兵農分離が進んだ中世期の城下町や門前町等偲ばせる地名が今も残っている。
 「仲の川」は、長澤村80戸の内75戸まで焼けた天和(1618)の大火災、天明(1783)の飢餓や大洪水など長澤村のすべての歴史を見つめ、その都度適切な役割を果たすと共に、淡海への水路・長浜や水田への船便等通船川としての「仲の川」は長澤村の人々と切っても切れない深い仲となりいつとなく誰となく「仲の川」と呼ぶようになった。

【写真左】本堂・その1
 この本堂を中心として長澤城や長澤御坊と呼ばれたころには多くの門徒や、参拝者で賑わったのだろう。




 近世での稲の運搬・農業用水など村人の生活に関わり続けたが、昭和の後期から平成初期(1990年)の土地改良により水系が変わり、区民の生活排水のみとなり、1995年の改良工事に続き「郷つくり事業」で仲の川通りに修景事業が行われた。
 これを機に先人に感謝の気持ちと、ふるさと長澤村や仲の川の歴史を末長く伝えるために碑に記した。
   平成8年(1996)11月

     長澤郷つくり委員会”
【写真左】本堂・その2
 境内には「蓮如上人御手植えの松」と呼ばれる松が見事な枝ぶりを見せている。







◎説明板・その2

“福田寺ふくでんじ

 天武天皇の勅願によって、近江の名族息長宿祢王(おきながすくねおう)が施主となり白鳳12年(684)7月に建立したのが福田寺の起源と伝えられています。
 神功皇后、允恭(りんぎょ)天皇の皇后(大中姫(おおなかひめ))、敏達(びたつ)天王の皇后(広姫)や継体(けいたい)天皇ゆかりの息長家の菩提寺として、その由緒を今日に伝えてきたのです。 

 福田寺は、当初、その宗旨を三論(さんろん)、法相(ほっそう)宗、さらに天台宗と変えてきましたが、覚如上人が、この地を訪れられたの機会に、当時の住持覚乗(かくじょう)が浄土真宗に改宗されたのです。
 これは、真宗教団へ改宗した初めての寺院だといわれています。また、延徳年間には、3か年にわたって真宗中興の祖である蓮如上人が、滞在され、当時の住持になることを約束されているほどです(蓮如上人自筆の書が保存されています)。
【写真左】庫裡
 本堂の右側には庫裡が建っている。福田寺周囲には多くの寺坊があったと思われるが、御坊が繁栄したとき、この庫裡が大きな役割を果たしていたのだろう。



 元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒4,500余人と湖国10か寺の総統領として、同志2万数千人を指揮して、愛山護法の戦いをくりひろげられたのです。境内にある『殉教万人塚』は、当時の遺徳を偲んだものです。

 また、開国通商の推進者として名高い井伊直弼公と当時の住職三乗(さんじょう)院摂専(いんせっせん)(本寛)連枝とは、従兄弟であり、同時に佛教信仰の上では師弟の関係にありました(直弼公より本寛師への80余通の書翰が伝えられています)。
【写真左】福田寺御殿
 通称「浅井御殿」と呼ばれているもので、浅井長政が寄進したものとされている。
 この奥には名勝庭園があるようだが、当日は中に入っていない。



 因みに、本寛師の後室は、摂政関白右大臣二条斉敬(なりゆき)公の妹鑈子(かねこ)姫(明治天皇の皇后の従姉妹)であり、直弼公の仲人によって入興(じゅよ)されたのです。
 明治11年、明治天皇は北陸行幸の途次、当寺に立ち寄られました。このとき、鑈子姫が彦根城の保存をお願いされたと伝えられています。

 境内には、室町末期の作である枯山水の名勝庭園があり、その石組は広く知られています。また石造美術として鎌倉時代に作られた後鳥羽天皇の供養塔や、石灯籠が風格を見せています。建築物としては、鐘楼と名将浅井長政公が寄進された浅井御殿(県文化財)が室町末期から徳川初期の特徴を今日に伝えています。 

(『福田寺由緒記』より)”
【写真左】本堂前に設置された家紋入の石造物
 寺院なので、家紋というより寺紋というべきなのだろうが、「下がり藤」模様であることから、西本願寺系統である。




長澤城・長澤柵(構)

 これを読むと、長澤城、福田寺並びに長澤村の歴史がおおよそ把握できる。ただ、長澤城の築城期は、保元の乱(1158)の賞、とあるが、この乱そのものは、保元元年、すなわち1156年に起った乱であり、恩賞地である長澤領を長澤義盛が拝領したのは、その3年後の1158年、すなわち保元3年ということだろう。

 そして、一町半四方の「長澤柵(構)」を築造、したとある。現代風に換算すれば、凡そ164m四方というところか。後段で紹介するように、福田寺及び熊野神社を含め、その周りに隣接する集落の主だった箇所がすっぽりとこの中に入る。
【写真左】五輪塔
 境内南西端にひっそりと祀られているもので、五輪塔と宝篋印塔それぞれの部位が混在したものである。

 これとは別に、近くに「殉教万人塚」という供養塔が建立されているが、これも信長との戦いで亡くなった門徒・寺内衆たちのものだろう。



福田寺・寺内町

 上掲した二つの説明板からいえることは、一つには長澤城が築城されたのは、平安期の保元3年ごろで、それから180年後の延元4年(1339)長浜の布施山から福田寺が移り、この長澤城と併存したとあるから、この段階で「寺院城郭」の形態をとりながら、次第に「寺内町」の形を形成していったものと思われる。

 それから130年後、長澤城は理由は不明だが「閉城」したとある。130年後とは、1469年すなわち、文明元年ごろである。閉城した直接の理由は分からないが、この時期は「応仁・文明の乱」と重なるので、この乱が当城の閉城に絡んだことは間違いないだろう。

京極・浅井氏六角氏

 また「閉城」と書かれているので、おそらく直後に遺構が破壊されることはなかったと思われ、天文年中には浅井氏と六角氏の戦いで、六角氏の陣所としても使われ、元亀・天正年間の信長による寺社仏閣焼打ちに抗して、福田寺(長澤城)はその中心となって戦ったとされている。

浅井氏福田寺

 ところで、以前取り上げた小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)でも述べたように、浅井氏は、三代の長政のころより、越前の朝倉氏(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)や、本願寺と極めて緊密な関係を持つようになった。最盛期には坂田・浅井・伊香の湖北3郡、さらには犬上・愛知(えち)・高島までを領有していた。
 写真にもあるように、福田寺境内に残る書院は、長政時代の小谷城から移したものとされ、通称「浅井御殿」とも呼ばれている。
【写真左】熊野神社・その1
 福田寺境内の北東部には熊野神社が祀られている。








長澤氏

  さて、先述したように長澤城が閉城となった文明年間、時の城主長澤氏については触れられていないが、その後福田寺の「住職覚芸は、福田寺門徒4,500余人と湖国10か寺の総統領として、同志2万数千人を指揮した」とあるので、この中にあって長澤一族は、寺侍(てらざむらい)的な立場だったのかもしれない。そして、彼らを全面的に支えていたのが浅井氏であったと考えられる。
【写真左】熊野神社・その2
 「熊野神社」と筆耕された石柱












  ところで、黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の稿でも述べたが、熊野氏の主君であった尼子経久は、天文5年(1536)12月、浅井亮政に対して備中・美作の戦況を報告している(「江北記」)。

 出雲守護であった京極氏がその後内紛により凋落していった際、家臣であった浅井亮政が頭角を現し、北近江を支配下に抑えていったころである。一時的にせよ、この時期尼子氏にとって、浅井氏は京極氏に代わる出雲守護職立場であったのかもしれない。そして、福田寺が浅井氏の庇護を受けていたことを考えると、このころから長澤氏もまた浅井氏と深い結びつきを得ていたと思われる。
【写真左】熊野神社・その3
 中央奥に拝殿が祀られている。










 では、前稿出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2で述べた長澤氏が、いつごろ如何なる経緯で出雲に向かったのだろうか。既述したように、尼子勝久が尼子再興の旗印を掲げたのは、永禄12年(1569)である。この前年近江の浅井長政は、織田信長の妹お市の方を室に迎えた。つまり、信長と浅井氏の蜜月期である。

 こうした状況下で、京都東福寺にあった尼子勝久が還俗したとき、長澤一族の者が彼の下に向かった背景を考えるとき、やはり何某かの人物が、勝久と長澤氏を引き合わせたと考えるのが至当だろう。となると、前稿でも述べたように、その人物は熊野久忠本人もしくは、京極・多賀氏に極めて近い者だったと考えざるを得ない。
【写真左】熊野神社・その4
 本殿。
 全体に社殿の規模は大きくはないが、意匠的には立派な建物が多い。






熊野神社

 さて、当城(福田寺)の境内の東側には、熊野神社が祀られている。由来などを示すものがないため、創建期などは分からないが、出雲熊野城が廃城になったあと、長澤氏はその後当地で帰農しているので、おそらく江戸期に入ってから子孫が祀ったものと思われる。
【写真左】池
 熊野神社と福田寺の間には長方形の池が掘られている。
 いつ頃造られたものか分からないが、清涼感を味わえる池である。

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