2019年2月1日金曜日

下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町)

下坂氏館(しもさかし やかた)

●所在地 滋賀県長浜市下坂中町
●指定 国指定史跡
●形態 平城
●高さ H:88m(比高 0m)
●築城期 南北朝期
●築城者 下坂氏
●遺構 郭・堀・土塁
●備考 不断光院
●登城日 2016年6月29日

◆解説(参考資料 『長浜市史』等)
 下坂氏館は長浜市下坂中町に所在する城館跡で、以前紹介した南隣米原市にある近江・長澤城(滋賀県米原市長沢) から北へ1.5キロほど北に向かった位置に当たる。
 また、近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町) は下坂氏館から北東へ5.5キロほど離れている。
写真上】西側から遠望
 この日(2016年6月)探訪したときは、西側の元田圃だったところを埋め立てし、駐車場を設置する工事が行われていた。
 奥に下坂氏の屋敷が見えているが、当時は手前の工事区域も館跡の範囲だったものと思われる。



現地の説明板より・その1
❝ 国史跡
 北近江城館跡群 下坂氏館跡(下坂中町)

 下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に所在する中世の国人領主であった下坂氏の館跡です。下坂氏は、建武3年(1336)の足利直義の感状などから南北朝期から湖北地方で活躍した国人領主で、戦国期には京極・浅井両氏に仕えています。
【写真左】足利直義感状











 浅井氏滅亡後は、帰農するが、江戸期は郷士として彦根藩と関わりを持ち、現在も子孫が館跡に居住し、管理をしています。

 館跡は、周辺を堀で囲み、内側には土塁を築いています。中心部の主郭は、東西約55m、南北約42mの土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の副郭(ふくかく)によって構成されている。また、館跡には、18世紀前期に建築された木造入母屋造ヨシ葺の主屋(おもや)や門、菩提寺である不断光院(ふだんこういん)の本堂などが所在し、往時の景観を維持しています。
【写真左】上から見たもの。
 現地説明板にあったもので、城館の規模は、東西約89m、南北約87mの大きさ。



 長浜市教育委員会による発掘調査によって、14世紀から16世紀の遺物が出土し、同時期の建物跡・土塁跡・排水路跡・階段状の遺構などが検出されています。

 このように、南北朝期から戦国期にかけて国人領主として活躍した下坂氏の館跡が、現在も土塁・堀などの遺構とともにその景観を留め、調査結果からも時期的が確認されたことは、中世から近世における地域支配の在り方を考える上で貴重な史跡である。
     下坂幸正
     長浜市教育委員会”
【写真左】概略図
 上の写真と同じく説明板に添付されていたもので、いつ頃の測量図なのかわからないが、郭・堀・土塁などが書かれている。
 参考までに、現在の様子を測量したものが、下の図である。
【図上】測量図と遺構配置

遺構概要

 下坂氏館の規模は上述した通り(東西89m×南北87m)だが、この中で構築されている土塁は、高さ1~2m、幅5~7mの二重の土塁で囲み、幅約5~13m、深さ1~3mの堀が現存している。

 主郭は東西約55m×南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東部と南西側には2か所の副郭がある。南西側の副郭は一段高くなっており、武者だまりと推定されている。

 内側土塁の東側には土塁を切る形で高さ2m×幅7mの虎口が開口し、東側の東西約75m×南北45mの規模を持つ腰郭へつながる。
 県下屈指の平地城館遺構とされる。
【写真左】土塁と堀
 当該地は私有地であるため、中に入ることはできない。
 このため、写真はすべて外から撮ったものばかりで残念だが、この箇所からは堀と土塁のようなものが見える。


下坂氏

 『長浜市史』に掲載されている「下坂系図」によれば、下坂氏の祖は清和源氏源頼信とされ、基親の代に下坂郷に下向し、下坂を称したといわれている。ただ、基親が頼信の系譜に繋がるのか疑問も残るが、いずれにしても平安末期から鎌倉初期に当地に下向したのだろう。

 説明板にもあるように、南北朝期に至ると、足利直義から感状を得ている。これは建武3年(延元元年・1336)7月、直義から出されたもので、その文書によれば、「近江国伊祇代宮(いきしろみや)合戦」において、親類新兵衛尉重宗が討死、また「法勝寺合戦」で舎弟三郎貞兼が傷を受け、西坂本北尾(京都市)で若党が傷を受けたことによる発給である。

 その後、室町幕府2代将軍義詮からも感状をもらっている。具体的には、当時の近江守護佐々木秀綱、即ち佐々木導誉(尼子城の堀跡・殿城池、尼子館跡土塁(滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中)参照) の長子の注進によって受けたもので、このことは戦国時代に下坂氏が京極氏の家臣となっていくきっかけともなった。
【写真左】堀
 奥には左右に伸びた堀が見える。











 戦国期に至ると、京極氏(京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)は浅井氏の台頭に危機感を覚えてくる。特に京極高広(佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)参照) の代には、浅井亮政(竹生島・宝厳寺(滋賀県長浜市早崎町)参照) との対戦を決意し、浅見新左衛門尉らの助けを得て亮政との戦いを始めるが、このとき上坂氏も京極高広に与している。
 もっとも下坂氏がその直前まで京極氏に積極的に関わっていたのか判然としない点もあり、さらには応仁・文明の乱には多賀氏なども絡んでいたため、具体的な下坂氏の動きは分からない。

 戦国期において具体的な記録が見えてくるのは、天文11年(1542)1月6日に浅井亮政が死去し、そのあとを久政が継いだころである。
 亮政が亡くなった5日後の11日付で、京極高広は下坂氏に対し、跡目と「加田半済(半分)内」500石を遣わす旨の書状を残している。

 これに対し、下坂左馬助は同年9月15日、中山左馬允が所持していた田地の権利と加田荘半済のうち、400石を給与された。このうち前者の中山佐馬允の跡地については、天文13年替地として、加田八郎兵衛跡を京極氏から与えられることになった。
 こうして加田荘について下坂氏の権利は、加田氏跡と半済分という二種類の知行権が与えられ、同氏の権限が強まった。
【写真左】東側から見る
 手前の畑や民家は下坂氏館の区域から外れた場所になり、その奥にみえる林からが下坂氏館となる。
 ただ、当時はこの辺りも下坂氏の領地だったと推測される。
 このあと、北側に回る。


下坂左馬助と下坂三郎四郎

 ところで、下坂左馬助は、京極高広の家臣として、浅井亮政の家臣若宮藤八を近江・長澤城(滋賀県米原市長沢) に攻めている。

 これに対し、同族であった下坂四郎三郎は、高広に誘われていたものの、浅井亮政に杏子やミカンなどをやりとりしている。そして、織田信長による小谷城攻めの際にも、浅井氏とともに籠城し、その功によって領地を与えられている。
 こうしたこともあって、下坂氏一族が次第に浅井氏に接近していった動きが読み取れ、天文21年ごろになると、久政の書状に、左馬助の被官を「御被官」として記している。
【写真左】北東部外周
 この付近では、館内の堀に入っていく本流・五井戸川が見える。
 当時は川幅も大きかったものと思われる。



 ただ、あくまでも下坂氏は浅井氏に全面的に従属するものではなかった。これに対し、次稿で予定している上坂氏とは相違が認められる。

 これは下坂氏の「一職」地の確立がその背景にあり、浅井氏も同氏の領主支配権を認めていたことによるものである。具体的には周辺部の土地が同氏に集積され、年貢・加地子得分の収受などが確保されるなど、経営手腕が極めて高かったためと思われる。
【写真左】伊吹山
 北側を歩いていくと、東方には日本100名山の一つ伊吹山が遠望できる。








下坂家文書

 説明板にもあるように、現在も当地に下坂家の御子孫がお住まいをしておられるが、平成26年には、当家に伝来していた文書(「下坂家文書」)697点を、現在の当主・下坂幸正氏が長浜市に寄贈された。
【写真左】堀の導水口
 ガードレール下に五井戸川が見えるが、下坂氏館側に堀に引き込む導水口が確認できる。


 



 その内容については、同じく現地の説明板に下記のように記されている。
 
現地の説明板より・その2

‟下坂家文書 697点(室町時代~明治時代)
   市指定文化財(平成8年9月1日 指定)

 文書の一番古いものは、足利直義が下坂治部左衛門尉に与えた感状で、建武3年(※1482となっているが、1336年の間違い)7月25日の日付を持つ。近江国の「伊祇代宮」(草津市片岡町付近)の合戦において、親類新兵衛尉重宗が討死したことや、京都法勝寺の合戦で弟三郎貞兼が傷を受けたことを記し、下坂氏が奮戦したことを謝し、恩賞については追って沙汰する旨を伝えている。
【写真左】北西端
 工事の関係であまり明瞭ではないが、氏館の北西側角に当たる。








 京極家当主及び奉行人からの書状9通、浅井家当主からの書状9通が含まれている。特に、下坂家が浅井氏に仕えていたと同時時期に、京極氏からの書状を得ていた事実は興味深い。
 最近の研究では、浅井氏2代の久政時代まで、高広を当主とする京極政権は、浅井氏政権と並立して存在していたとみられる。
 この地域で京極政権の文書をまとまって保有する所はなく、当地の戦国史の研究には欠くことのできない資料といえる。”

0 件のコメント:

コメントを投稿