2019年2月14日木曜日

三田村城(滋賀県長浜市三田町 伝正寺)

三田村城(みたむらじょう)

●所在地 滋賀県長浜市三田町 伝正寺
●指定 国指定史跡
●別名 三田村氏館
●形態 平城
●高さ 標高116m(比高 0m)
●遺構 土塁
●築城期 不明
●築城者 三田村氏
●登城日 2016年6月29日

◆解説(参考文献 「長浜市史」等)
 前稿上坂氏館(滋賀県長浜市西上坂町) から北へ向かい、姉川を渡河すると、三田町という集落に至る。ここに北近江城館跡群の一つとして国指定史跡を受けた三田村氏館が所在している。
【写真左】三田村氏館
 一辺60m前後の長さで囲繞された土塁
 高さ2~3mの規模のもので、比較的良好に残る土塁である。



現地の説明板より
‟国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)

 京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。
 ほぼ60m四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高さは2mから3m、幅も平均5m程度を測ります。
 北側の土塁の一部は近代になって破壊されましたが、西側には館の入口にあたる虎口が良好に残り、その前には堀跡が畑となって残っており、旧状をしのぶことができます。また、四角い主郭の北側にも、鍵形に土塁が存在し、複数の郭からなる城館であったことが類推されます。
【写真左】三田村氏館跡周辺図
 左側がほぼ全周にわたって残る土塁が描かれ、中央には現在伝正寺という寺院が建っている。
 中央の道を挟んで右側の一角にも土塁の跡が残っていることから、説明板にも記されているように、複数の郭(土塁で囲繞された)があったものと思われる。


 長浜市教育委員会による平成17年度・18年度の発掘調査により、西側土塁に平行する南国2本の溝が確認され、土塁が2時期に分かれて築造されたことが分かりました。
 上部(新層)からは15世紀から16世紀前葉頃の土師器を中心とした遺物が出土し、戦国時代に至り館の防御性を高めるため、土塁を高くしたことが明らかとなっています。

 姉川合戦に際しては、朝倉景健(かげたけ)の本陣として使用されたとも考えられ、上部の土塁はその時盛られたものかもしれません。
 平成19年7月26日、「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡となりました。

     姉川合戦再見実行委員会‟
【写真左】伝正寺の北側付近
 上図でいえば「現在地」付近で、ここから反時計方向に向かう。
 左側の大屋根が伝正寺本堂。



三田村氏

 三田村氏は、前稿まで紹介してきた下坂氏や上坂氏と同じく、説明板にもあるように、京極氏や浅井氏の家臣として大きな勢力を誇ったとある。

 ところで、「長浜市史」によれば、京極氏の家臣には三種あり次のように分類している。

(1)根本被官(古くから京極氏に仕えている)
  今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井
  小野八郎・河瀬九郎・二階堂

(2)一乱の初刻御被官に参入衆(新参の家臣)   
  井口越前・浅見・弓削式部・伊吹弾正・渡辺・平田

(3)近年御被官に参入衆(明応8年以後の最も新しく帰参した家臣)
  東蔵・狩野・今井越前・今井十郎・西野・布施備中・小足・高宮

 これとは別に、京極氏の家臣の中でもっとも大きな力を持っていたのが多賀氏であったことは既述したが、この多賀氏もまた応仁の乱後、京極氏を巻き込んで内紛を起こしている。文明18年(1486)を過ぎたころ、国人領主・土豪クラスの下坂氏・今井氏・国友氏、そして三田村氏もこの騒動に巻き込まれた。このころ三田村氏は多賀宗直方に、今井氏などは京極高清についた。
【写真左】北から西に伸びる土塁
 土塁の天端は踏み固められ、普通に歩くことができる。






 その後、文亀元年(1501)6月に至ると、こうした国人・土豪クラスの一族がさらに積極的に争乱に参加するようになった。特に、この時期、浅井・三田村・河毛・渡辺・堀氏などは、上坂景重との対立が激しくなり、今浜で合戦が行われた。こののち、20年間は大きな戦いはなかったが、大永3年(1523)、再び国人領主間の対立が激化した。

 この争いでは、三田村氏は浅井・堀。今井氏らと与し、浅見氏を盟主として結束、小野江(尾上)に籠り、上坂氏と合戦に及んだ。そして、上坂勢は多くのものが討死したため敗れ、京極高清は上坂氏の支援を受けていたため、苅安尾城から尾張へ敗走した。これによって、浅見氏らに擁立された京極高延が高清に代わって北近江の守護職となった。
【写真左】西側の土塁
 この辺りは少し低くなっている。奥には伝正寺の梵鐘が見える。







信長の横山城攻め

 ところで、織田信長が浅井氏居城の小谷城攻めを始めたのは、元亀元年(1570)ごろからだが、併せて近接の横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町) も攻めている。このとき同城を浅井方として守備していた面々に三田村氏の名が見える。因みに、主だった武将たちは次の通り。
  • 大野木土佐守
  • 三田村左衛門尉
  • 野村肥後守
  • 同兵庫頭
 三田村左衛門(尉)は、一説では三田村国定とされ、母は今井定清の娘ともいわれている。今井氏は藤原秀郷の後裔といわれ、箕浦城(米原市箕浦)を居城とした。
【写真左】三田村左衛門の像
 眼光鋭い剛勇の武士の面構えである。
 因みに、俳優の三田村邦彦さんは、出身地は新潟だが、系譜をたどるとこの三田村左衛門に繋がるという。そういえば、なんとなく邦彦さんの風貌は左衛門に似ているように見える。


 この戦いは同年6月24日から始まり、5日後の29日には浅井方は撤退し、信長の命により木下藤吉郎秀吉が城番となっている。
【写真左】虎口
 西側の土塁中央部が開口されて、伝正寺の入口となっているが、当時の虎口跡である。
 手前の畑となっている部分は堀があった。
【写真左】石碑
南西隅の内側には「三田村氏有縁之碑」と刻まれた石碑が建っている。
【写真左】土塁の外側
 西側の部分で、堀があった箇所。
 現在は畑地となっているため当時の様子は分からないが、三田村氏館そのものは平城形態であるため、土塁の防御性を高めるため、外側の堀には水を引き込んでいたと思われる。

 その水は、同館から南へおよそ400mほど向かった姉川から引き込んでいたと想像される。

 なお、三田村氏館は現在の三田町集落の中心地にあたり、件の堀(濠)の外堀と思われる小川が同館を囲むように流れているので、おそらく三田村氏の家臣の屋敷もこの中に包含されていたのかもしれない。因みに、外堀の外周部は東西400m×南北250m前後である。
【写真左】南側の土塁
 この写真では分からないが、東西に伸びる土塁の中央部にも小規模な開口部があり、虎口があったものと思われる。
【写真左】東側の土塁
 こちら側は削られたせいか、小規模になっている。
【写真左】境内(郭)から西側の土塁を見る。
【写真左】三田公会堂側の土塁
 上段の図にもあるように、伝正寺側の土塁とは別に、道路を挟んだ北東側の公会堂の外側にもL字型の土塁が残る。
【写真左】分離した五輪塔
 周辺部を散策していた時見つけたもので、三田村氏もしくは当館が、姉川合戦に際しては、朝倉景健(かげたけ)の本陣として使用されたともいわれているので、朝倉氏方の武将も含まれているのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿