2013年11月25日月曜日

細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)

細川頼春(ほそかわよりはるのはか)

●所在地 徳島県鳴門市大麻町萩原
●備考 光勝院
●参拝日 2013年11月17日

◆解説
 今稿も墓所関連の史跡を紹介したいと思う。

 細川頼春墓所の所在地は、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)で紹介した同町萩原にあって、光勝院という寺院に建立されている。
【写真左】細川頼春の墓・その1













現地の説明板より

“細川頼春の墓

 細川頼春(1299~1352)は、南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国しました。

 阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護になりました。

 正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死し、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬ったといわれています。”
【写真左】光勝院
 頼春の墓はこの光勝院という寺院に建立されている。

 県道12号線(撫養街道)から北に向かって細い道があり、それを進むと当院がある。県道12号線の脇に小さな当院の看板が立てられている。ただ、車で走っていると見過ごしそうになる目立たない看板だ。




 細川頼春については、先月投稿した阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)や、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)で度々紹介してきているのでご覧いただきたいが、南北朝期に台頭した細川氏のいわば礎を築いた武将の1人といえる。

 細川氏はもともと足利氏の系譜に繋がる。鎌倉中期に足利氏に従い、三河に本拠を得て、ひとかどの所領を持った。そして南北朝動乱期に至って、尊氏に従い、各地に転戦し、これまで述べてきたように四国から瀬戸内・山陽方面に勢力を拡大していった。

【写真左】細川頼春の墓・その2
 光勝院の西側から北に向かって進むと、檀家墓地があるが、頼春の墓はその手前の左側に建立されている。

 木立に囲まれひっそりと佇む。
【写真左】説明板
 めずらしく英文入りのものである。











 このころ頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせる。しかし、説明板にもあるように、文和元年・正平7年(1352)、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦い、討死した。
 同じ年、一時は足利直義につき、その後尊氏に寝返った従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族は潰えたかの状況になった。
【写真左】細川頼春の墓・その3













 しかし、以前にも述べたように、頼春の子・頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)がのちに細川氏を再興させ、二代将軍義詮の死後から三代将軍となる足利義満の養育期ごろまでのおよそ12年間は、事実上将軍の代行として政界に君臨することになる。
【写真左】細川頼春の墓・その4
 左側面には、
 「清和天皇十六代后胤細川刑部大輔讃岐守源朝臣頼春
 と刻銘されている。

 時代的にいえば、墓石は五輪塔か若しくは宝篋印塔の形式のものが普通だが、これは近代に再建されたものかもしれない。

 もっとも、その脇には宝篋印塔1基(下段の写真)があるが、これもさほど古くないように思える。
【写真左】宝篋印塔
 殉死した家臣のものだろうか。

















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