2017年10月19日木曜日

安芸・藤山城(広島県三原市和木)

安芸・藤山城(あき・ふじやまじょう)

●所在地 広島県三原市和木
●別名 さつき藤城・藤城
●高さ 291m(比高15m)
●形態 丘城
●指定 三原市指定史跡
●築城期 鎌倉期
●築城者 和木氏
●規模 200m×50m
●遺構 郭・土塁・井戸・空堀等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第13巻』等)
 安芸・藤山城(以下『藤山城』とする)は、広島県の旧賀茂郡大和町和木にあった城館で、比高15m前後の丘城である。築城期は明確ではないが、鎌倉期とされ、築城者は和木氏といわれている。
【写真左】藤山城遠望
 西方にある道の駅『よがんす白竜』から見たもの。










和木氏

 和木氏については、以前紹介した同市大和町椋梨の椋梨城の稿で既に述べているように、小早川氏の庶流の一つ椋梨氏の系譜に繋がる。
 椋梨氏二代国平の子定平の実弟・為平が和木氏の祖といわれている。
 従って、国平が寛元4年(1246)からこの地に居住し、小早川から椋梨氏を名乗っているので、和木氏はそれより2,30年後の文永年間(1264~74)頃に和木氏を称したと推察される。
【写真左】藤山城の配置図
 道の駅「よがんす白竜」に設置されている「椋梨ダム周辺MAP」を元に管理人が加筆修正したもので、実際のものは、下方が北を示していたため、それを上方に変えて描いた。



藤山城の概要

 藤山城は椋梨氏居城の所在する椋梨地区の東隣に位置する和木にあって、椋梨川と徳良川が合流したあと、椋梨ダム湖となった白竜湖に注ぎ込むが、その手前でもう一つの支流が東から合流する。この支流が大草川で、この川の南岸に築かれた丘陵地に築かれている。

 丘城であることもあって、比高は10m余程だが、本丸と思われる箇所(東西60m×南北50m)の中に郭を3段構成し、北側には土塁が残り、西側には30m×30mの規模の二ノ丸があり、さらには以前には三の丸もあったとされるが、現在宅地や水田などに改変されている。

 なお、和木氏の居城としてはこのほかに、藤山城から東北方向約1キロの位置に船山城がある。『日本城郭体系』では藤山城より後に築かれたとされ、よく整っていると記されているが、現在はご覧のような状態なので、踏査していない。
【写真左】道路側から向かう。
 南西麓に農道が走り、そこからなだらかな傾斜となっている。
 手前の田圃などは当時の三の丸だったと考えられる。
【写真左】二の丸付近か
 現在西側には墓地があり、改変された部分もあるが、段の高さは当時と変わらないだろう。
【写真左】二の丸付近の郭
 この付近は綺麗に整備され、平滑な面が残る。おそらく屋敷などがあったものだろう。
【写真左】空堀・その1
 奥に進んで行くと、途中で右側に浅くなった空堀が見える。

 当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】空堀・その2
 これは上記のものとは反対側の北側にあるもので、左側が郭で、右側は土塁が残る。

 なお、土塁の外側は切崖になっている。
 さらに先に向かう。
【写真左】本丸の土塁
 なだらかな坂道を登っていくと、直ぐに本丸にたどり着く。

 この写真は西側に見えていた土塁で、大分劣化しているが、周囲を囲繞していたことが分かる。
【写真左】本丸・その1
 冒頭で紹介したように、北側を最高所として南に向かって3段の郭が構成されている。

 幸運なことに、この日探訪したとき本丸の箇所だけはこのように伐採されていて、分かりやすい。
【写真左】本丸・その2
 最下段の郭付近で、最高所のとの比高は3m前後。

 このあと、北東方面に向かう。
【写真左】竪堀?
 周辺の状況や丘城であることから防御性には限界があるが、当城の東側は湿地帯のような個所があり、比高は10m程度である。

 おそらく、当時はこの北東麓は北側を流れる大草川から水を引込み、濠を設けていたと推察される。
【写真左】和木氏八幡神社
 上記した配置図にも記したように、藤山城の西に隣接して当社が祀られている。

 縁起などは不明だが、和木氏を祀る神社と推察される。
【写真左】拝殿
 境内には樹齢不明だが、県内で58番目に大きな杉(三原市天然記念物・和木八幡のスギ)がある。
【写真左】境内西側の崖
 この付近は切崖状の景観をなし、その下には狭い道路を挟んで大草川が流れている。
 
 藤山城から和木氏八幡神社に繋がる高低差はほとんどないが、神社境内の北西端はほどんどこのような切崖状となっている。

 当時はこの神社も北方を扼する出丸もしくは物見櫓的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】船山城遠望
 藤山城から北東方向へ約1キロほど向かった位置にあり、北側を大草川が流れている。
【写真左】船山城
 独立した小丘で、現在はあまり整備されていないようだ。

2017年10月5日木曜日

播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷)

播磨・河内城(はりま・こうちじょう)

●所在地 兵庫県加西市河内町西谷
●別名 別所城・佐谷城
●高さ 280m(比高150m)
●築城期 永暦元年(1160)か
●築城者 別所刑部六輔頼清又は在田則盛
●城主 別所氏
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2015年9月23日

◆解説
 播磨・河内城(以下「河内城」とする)は、前稿の播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)から北東方向へ凡そ4キロ余り向かった河内町西谷に築かれた山城である。
【写真左】播磨・河内城遠望
 南東麓から遠望したもので、右側の峰は後段で紹介する展望台が設置された箇所。






現地説明板より

“河内城跡

 河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城されました。
 敷地面積は約300坪。
 ここより南方に高い山はなく、晴れた日には遠く淡路島を望むことができます。”


※下線、管理人による。
【写真左】概要図
 現地に設置されたもので、中央部の郭を挟んで、東西に堀切を介して、中規模の郭を配置し、これらを帯郭が囲繞した形態となっている。





別所氏(赤松氏)在田氏

 築城期及び築城者については諸説あり、確定していないようだ。築城期については、冒頭でも記しているように、永暦元年(1160)としている。因みに、この前年(平治元年)源義朝及び、藤原信頼らが院の御所を襲い、上皇を内裏に移して天皇とともに幽閉した「平治の乱」が起こり、これを鎮圧した平清盛は、翌永暦元年義朝の嫡男頼朝を伊豆に、実弟希義を土佐にそれぞれ配流している。
【写真左】六処神社
 南麓に鎮座する社で、創建期等不明であるが、『播磨國大小明神記』に「鎌倉明神」と記されているのが当社といわれ、元々河内城の峰から北へ2キロほど上った鎌倉山に鎮座していた鎌倉明神を基としている。天正年間に兵火に罹り、後に池田輝政が再建したとされる。


 上掲した現地の説明板に、「河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城された」とある。しかし、この別所頼清は室町時代の武将ではなく、この平治の乱時代、即ち平安末期の人物で、村上源氏赤松季則次男といわれ、この年(永暦元年)、当地加西郡在田荘別所村に下向し、当地名から別所氏を名乗り、河内城(別名:別所城)を築いたとされる。

 ところで、河内城の所在する地は河内町だが、その南隣には別所町があり、その西には現在上野町と呼ばれる地区が接している。この町の東端部には養老元年(717)に建立されたといわれる石部(いそべ)神社があり、この辺りは当時『播磨国風土記』に記された賀茂郡(加茂郡)の鴨里という地区(里)でもあった。
【写真左】石部神社
所在地 加西市上野町
 当社裏山には6世紀前半に築造された皇塚古墳があるが、伝承ではこの社(石部神社)創建と同じ養老元年ごろに、元正天皇皇女の墓として語り継がれている。


 そして、この中心部を流れるのが加古川の支流万願寺川である。北から南下するこの川を現在中国自動車道が横断しているが、この道路を境とする北のエリアには、殿原町・上野町などといった町名が見える。詳細な年代は不明だが、中世にはこの付近は「在田(ありた)」と呼んでいた。

 在田氏は、赤松円心の長男で、同氏5代・美作守範資(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の次男朝範(朝則)がこの地に下向し、在田氏の祖といわれている。このことから、在田氏(朝則)が別所頼清の時代から凡そ100年後の南北朝期、当城の城主となったと考えられる。

 在田氏は嘉吉の乱(鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)後、赤松政則を支援し、赤松氏再興の立役者の一人となったが、その後政則と確執を生じ、文明12年両者は激突し、同氏は敗れたという。
【写真左】河内ふれあいの森 散策マップ
 六処神社の奥に向かうと、ご覧の看板が設置してある。ハイキングコースとして整備されたもので、左図の左上に「城跡展望広場」と図示された箇所が河内城跡である。
 なお、「一日コース」を選択すれば、前述した鎌倉山へも向かうことができる。

 先ずあずまや展望広場をめざし進む。
【写真左】満久城遠望
 獣除けゲートから登城道を登っていき、しばらくすると視界が開け、南側にはタカガワオーセントゴルフ場が見えてくる。このゴルフ場内には満久城(まくじょう)が見える。
 文明4年(1472)内藤左京進盛次築城といわれ、のちに在田氏に従軍したとされる。
【写真左】あずまや展望広場
 満久城を展望できる位置に設けられた展望台で、登城コースの最初のピークに当たる。
 目立った遺構はないものの、当時この場所は物見櫓として利用された可能性もある。
【写真左】河内城を遠望する。
 上記展望広場からみたもので、ここから河内城までは凡そ490m。
【写真左】削平地
 展望広場を抜けると、一旦鞍部となった箇所が出てくる。かなり広い削平地があり、この場所に屋敷跡があったとしても不思議でない。なお、この箇所には分岐点があり、もう一つの谷に向かう道もある。
 ここを過ぎて再び登り勾配の道となり、本丸までは凡そ340m。
【写真左】あずまや展望広場遠望
 登っていき、途中で振り返ると先ほど立寄った展望広場の東屋が中央に見える。
【写真左】分岐点
 尾根にたどり着くと、分岐点の標識がある。
 右に行くと、鎌倉山。既に河内城の城域に入っていると思われるが、左方向へ50mで本丸に辿りつく。
【写真左】本丸へ向かう急な階段
 距離は短いものの、結構きつい。
【写真左】腰郭と上段の郭
 この日の登城コースは、北側の東郭側から向かっているので、最初に見えてくるのは、「東1.2,3,4,5」の各郭となる。
【写真左】奥に向かう。
 東郭群から中央部に向かうが、現地は冒頭で紹介した概要図のような整然とした状況ではなく、大分劣化した遺構が多いようだ。
【写真左】堀切
 中央部の郭を挟んで東西にそれぞれ堀切が配列されているが、この堀切はそのうち西側のもの。
【写真左】西郭から中央郭を見る。
 堀切底部から見上げたもので、この箇所の堀切深さは大分ある。
【写真左】再び堀切
 西郭群側のもの。
【写真左】さらに西の尾根に向かう。
 この付近も数段の郭があるが、進むにつれて明瞭でなくなる。
【写真左】奥に竪堀
 西郭群の西方に向かう尾根の北斜面に見えたもので、当時はもう少し深く、また長かったものと思われる。
【写真左】中道子山城を遠望する。
 河内城は前稿の小谷城とさほど離れていないこともあり、ここからも中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。