2016年7月19日火曜日

出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2

出雲・熊野城(いずも・くまのじょう)・その2

●所在地 島根県松江市八雲町熊野
●登城日 2015年2月6日

◆解説(参考文献「出雲の山城」高屋茂男編、「出雲尼子氏一族」米原正義著、『八雲村誌』等)
 熊野城に関する資料はあまり多くないが、本稿では熊野大社をはじめ、当城周辺部に残る史跡並びに、尼子再興軍の一員として戦った長澤氏などについてとりあげたい。
【写真左】熊野城遠望
 北側の熊野大社駐車場側から見たもの。

 熊野城の東麓を走る県道53号線を南下し、峠を越えると大東町に至る。




熊野大社

  前稿でも少し紹介したように、熊野城の北方2キロには熊野大社が所在している。
【写真左】熊野大社・その1












現地の説明板より

“熊野大社「上の宮」跡のご案内

 この意宇川の川上500m 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。
 熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。
 「上の宮」には紀伊国の熊野信仰の影響をうけ伊弉冉尊(いざなみのみこと)・事解男神(ことさかおのかみ)・速玉男神(はやたまおのかみ)等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大御神(あまてらすおおみかみ)・須戔嗚尊(すさのおのみこと)等を祀る神社が造営されておりました。
【写真左】熊野大社・その2










 明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ奉遷合祀されました。
 「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。
 また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りるという御神水「明見水」が巨岩から滴り落ちています。
   熊野大社”
【写真左】熊野大社参道に掛かる橋から、南方に「上の宮」方面を見る。
 写真に見える川は意宇川で、中海に合流する。





 現地には当社の創建期は明示されていないが、「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に「出雲国造を厳神の宮をつくらしむ」との記載があり、おそらく時期はこのころ、すなわち白鳳時代と思われる。
 そして、『出雲風土記』によれば、8世紀頃に「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」が、熊野神社も含めたこの意宇地方を治政していたことから、当社神官も国造に関わる人物(出雲臣氏)だったのだろう。
 時代が下った仁寿元年(851)9月16日には、
「出雲国の熊野・杵築両大社に従三位を叙し…以下略」(『文徳』)とあるので、このころには杵築大社(出雲大社)と同格の扱いを受けていたものと思われる。
【写真左】熊野神社 境内案内図
 随神門をくぐると、正面に本殿・拝殿が祀られ、右側には舞殿がある。

祭神は
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」を祀る。



 当社神官としては、前記したように出雲国造が初期に務め、その後国造の西遷(杵築)にともない意宇の政治的支配が弱まり、さらににはそこへ紀伊の国の熊野信仰が当地にも及び、おそらく同国の神職であった鈴木氏が暫く任じていたのではないかと思われる(二曲城(石川県白山市出合町)参照)。
 ただ、この鈴木氏も当地に赴いてからは、その姓を熊野氏に変えていたのではないかと推察されるがはっきりしない。

熊野氏多賀氏

 前稿でも紹介したように、熊野氏の名前としては戦国期に、熊野入道世阿・熊野兵庫介久忠・熊野和泉守、そして熊野弥七郎などが記録されている。彼らの出自については不明な点が多いことは既に述べたが、この時期における熊野氏については、それ以前の鈴木氏系熊野氏とは連続性がないように思われる。
【写真左】熊野城・本丸跡
 登城したこの日(2015年2月6日)、本丸登城後、北にのびる尾根まで足を延ばしたので、下段で紹介しておきたい。


 出雲国に限ったことではないが、応仁・文明の乱において地方各国には大きな変化が生まれている。室町期出雲国の守護職であった京極氏では、このころいわゆるお家騒動(京極騒乱)が勃発、京極氏の分裂は、同氏家老格であった多賀氏の分裂まで招いた。
【写真左】北にのびる尾根
 本丸から北に降りて行き、途中で右側の尾根を北に向かうと、その先に標高240m前後の頂部が見える。
 なお、写真の尾根の幅は20m前後あり、そのまま約150m程続く。本丸付近が急峻な箇所が多いことから、この箇所はまとまった平坦地(郭)としての機能をもっていたのかもしれない。



 その多賀氏については、すでに平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも述べたように、同氏が出雲国に下向したのが明徳・応永年間とされている。

 その後、中央における応仁・文明の乱により、近江では京極氏は被官人であった浅井氏に奪い取られていくことになる。この騒乱の中で、奮闘していたのが多賀豊後守高忠である。文明17年(1485)4月、幕府から所司代に再任されたが、翌18年61歳で近江の陣中で没した。
【写真左】頂部
 上述した尾根先端部の頂部に当たるが、現在ここにはご覧の様な高圧電線の鉄塔が立っている。
 位置的に考えると、本丸の北方にあたり、出丸もしくは物見台があった可能性が高い。



 ところで、最後の熊野城主であった熊野兵庫介久忠の名前から想像するに、久忠の「久」はおそらく尼子経久から偏諱を受けたものだろうが、「忠」はこの多賀高忠の忠を受け継いだものではないだろうか。

 また、これまで紹介しなかったが、天文9年(1540)の尼子晴久による毛利氏の居城安芸郡山城攻めにおいて、熊野備前守久家、及びその弟次郎の名が見えている。
【写真左】北尾根頂部から熊野城を見る。
 頂部から見ると、本丸は真南の方向になる。







 さらに、興味深いことは、先述した多賀豊後守高忠には、「高家」という嫡男があり、状況を考えると、この高家が父高忠亡き後、出雲国に尼子氏を頼って下向した可能性もある。つまり、高家の子が久家で、その子が久忠であったという流れが考えられる。
【写真左】多賀大社・「太閤橋」
 2007年10月17日参拝
 所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地

写真:天正16年(1588)、豊臣秀吉病に伏していた母の治癒を祈願し、成就したお礼に社殿改修と併せ、この橋を造る。



 以上熊野氏の出自について傍証となるような史料がほとんどないまま、熊野氏と多賀氏をいささか強引な推論で結びつけてきたが、最後につけ加えるなら、多賀氏はもともと近江多賀大社の神官を祖としていたことから、熊野城の城主となった際、衰退していた出雲熊野大社の神官を兼ねた可能性も充分考えられる。
【写真左】南東麓から土居成跡を遠望する。
 熊野城の東麓には、「土居成」という地名がああるが、この場所が熊野氏の居館跡と比定されている。
 現在はこの場所に民家が建っている。
【写真左】天野八幡跡
 登城口手前の公園から少し行くと、意宇川に架かる橋の対岸に八幡跡がある。

 熊野城落城後、山中鹿助再興軍と激しく戦った毛利方の天野隆重(毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)参照)が当城を管轄している。
 この八幡は天野隆重が勧請したものといわれ、現在宮は熊野大社に合祀されている。

 なお、隆重の館も近くにあり、「おしろ屋敷」という屋号を持つ家が隆重館跡といわれている。



長澤儀太郎翁近江長澤氏

 ところで、熊野城の東麓には前述したように「土居成」という熊野氏の居館跡があったと述べた。この土居からさらに北に500m程下ったところには市場という地区がある。この市場の県道53号線脇に、市場地区農村公園という小さな公園があるが、この中に「長澤儀太郎翁之碑」という石碑が建立されている。
【写真左】市場地区農村公園
 県道53号線の脇にあり、写真奥に石碑があり、その向背は熊野城の北側に当たる。







 この石碑の裏に以下の碑文が刻まれているが、大分劣化しているため判読できない箇所もあるものの抄出して置く。

元熊野村村長長澤儀太郎翁◇は貞義驥斎と号す
 其の祖信通は近江源氏に出で同国長澤を本貫す
 初め尼子勝久に従い出雲に来り熊野城を守る
◇城北の北台に帰農す
【写真左】長澤儀太郎翁之碑












 家信、家貞、貞勝、貞督、貞継、貞則、貞秋、貞虎、貞孝、貞顕、相継ぎ家道を興し村治に于る。

 翁は即ち貞顕の家督にして慶應貮年8月21日を以て生る。母房は貞孝の女なり 翁資姓超卓清廉少くして熊野大社宮司中村守手大人に学び敬神愛国忠孝道義に篤し年甫めて拾八歳村政に興り 幾許もなく村長に推され七拾五歳に至るまで概ね其の職に在り励精治を謀り業績大に擧る


 明治44年模範村に指定せられ村名連りに聞ゆ 爾来来りて村治を見教を乞ふ◇日に衆きを加ふ昭和21年1月6日没す。齢81 時方に戦後日浅く舊制既に亡ひて新儀未だ起らず人その方郷に迷ひ趨舎を誤るもの往々にしてこれあり而も今や風潮良く定り闔郷愈業を楽しむを得るに格れるは蓋し翁の流風余韻の青山白水の間に揺曳し千古人心を廓清するによるもの多しといふべし磋偉なる哉今茲村民厥の凓を仰ぎ相議りて碑后を建て 以て後昆に傳ふと云ふ。

昭和貮拾七(27)年 ◇春  佐太神社宮司従五位 朝山晧 撰”


※註 ◇:判読不能の文字、下線は管理人による。
【写真左】石碑裏の碑文
 碑文の撰者が、佐太神社宮司 朝山某とある点も多賀氏との関係が窺える。







 この碑文の内容を見ると、長澤氏の始祖は近江国(滋賀県)の長澤を本貫した一族で、尼子勝久に従い出雲熊野城を守る、とある。

 勝久は永禄12年(1569)に尼子復興軍の総帥として戦うが、永禄8年に一旦毛利氏に降った熊野久忠が、このとき再び尼子方として熊野城に拠っている。このことから、近江にあった長澤氏(家信か)が尼子勝久に仕えた経緯を考えると、勝久が京都東福寺の僧であったとき、近江長澤氏と何らかの接点があったはずである。
【写真左】「ながさわまえ橋」
 市場地区を流れる意宇川には、「ながさわまえ橋」という橋が架かっている。
 おそらく、長澤氏が当地に入ってからつけられた名前だろう。



 実は熊野久忠が一旦毛利氏に降った後、再び尼子氏に帰順するまでの3年余の動向ははっきりしていない。このことから、久忠もしくはその配下のものが、近江に上った可能性が考えられ、その場所は、先述した熊野氏の出自と密接に絡む近江多賀氏の元の所領地である犬上郡や坂田郡などであり、長澤氏の本貫地もまた坂田郡に所在している。

 次稿では、その長澤氏が本貫地としていた近江・長澤城を中心に取り上げたい。

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