2011年11月18日金曜日

脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)

脇屋義助の墓(わきやよしすけのはか)

●所在地 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
●探訪日 2011年10月15日

◆解説
 今稿では、前稿「田尾城」で紹介した脇屋義助の墓所を取り上げたい。
【写真左】脇屋義助の墓がある大蓮寺の本堂
 打吹山城の北麓、倉吉白壁土蔵群で有名な同市中心部に建立されている寺院だが、ご覧のとおり大変カラフルな近代的建物となっている。


 観光名所としての土蔵群のエリアから少し外れた場所であるが、この寺院にも観光客が訪れているようだ。



脇屋義助


 脇屋義助については、これまで前稿田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)や、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)備中・福山城(岡山県総社市清音三因)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)などで断片的に紹介しているが、南北朝期、新田義貞の弟として、南朝方に与し各地で転戦、康永元年・興国3年(1342)、四国の伊予国において病死した。
【写真左】脇屋義助の墓
 大蓮寺境内はさほど広くないが、規模の割に墓地の占める割合が高い。


 写真中央のものが脇屋義助の墓で、左右の墓については特に説明板のようなものがないためわからない。
 五輪塔形式のもので、高さは2mを超える大きなものだ。


二つの墓所

さて、彼の墓所については、今のところ次の2か所が挙げられている。
  1. 脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
  2. 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
このほかに、兄新田義貞が亡くなった越前国(福井県坂井市丸岡町長崎 称念寺)にも所在するという史料もあるが、義助は当地で亡くなっていないので、供養塔と思われる。

1、の今治市に墓所があるのは当然だが、2、の鳥取県倉吉市になぜ建立されているのか、少し気になっていたので、関係資料はほとんどないものの、検証してみたい。
【写真左】山名寺
 倉吉市を横断する小鴨川北岸の磐城に建立されている。山名寺の前身は三明寺という寺院だったという。
【写真左】山名時氏の墓
 山名寺の西方に「三明寺古墳」と並んで建立されている。






 鳥取県倉吉市、すなわち伯耆国であるが、ここには以前取り上げた田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)、および打吹山城(鳥取県倉吉市)が所在する。

そして田内城の築城者であった山名時氏が約20年間居城としたところである。

山名時氏との関わり

 山名時氏は、山名政氏を父とし、母は上杉重房の娘である。父政氏は元々新田氏の一族である御家人の出(上野国新田郡新田荘)である。したがって、本来ならば、そのまま山名氏は新田氏に従ってもよいはずである。しかし、時氏は母方の上杉氏、すなわち足利氏に属した。

 山名時氏が生まれたのは、嘉元元年(1303年:別説では1298年)であるから、脇屋義助の生誕年(嘉元3年:1305年)とほぼ同時期である。そして、生誕地も義助と同じ上野国で、多胡郡山名(現在の群馬県高崎市山名町)である。

 ちなみに、脇屋義助や新田義貞兄弟の生誕地である太田市と、山名時氏が生まれた高崎市とは約25キロ前後離れている。また、足利氏の本貫地である足利市に近いのは、脇屋氏のあった太田市が近く、山名氏の高崎市のほうが遠い。
【写真左】大蓮寺境内に建立されているもう一つの五輪塔群
 脇屋義助の墓は山門から入ってすぐ左側にあるが、この写真のものは西方の奥に並んでいるもので、5基を数える。義助のものよりは規模が小さいが、それでも五輪塔としては大きな部類に入る。
 残念ながらこれらの五輪塔群については詳細は不明。



 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)でも述べたように、新田義貞は延元3年・建武5年(1338)、越前国の藤島城(福井市藤島町)攻めにおいて、北朝方によって攻められ、討死した。そして、あくる延元4年・暦応2年(1339)、8月15日後醍醐天皇は譲位、義良親王(後村上天皇)受禅し、16日に後醍醐天皇は没した。

 兄の死、および後醍醐天皇の死去によって、ますます南朝方は弱体化し、康永元年・興国3年(1342)、義助は勢力を保持している伊予国に渡った(もっとも、「田尾城」でも述べたように、これ以前かもしれない)。
【写真左】大蓮寺山門から南方に打吹山城を見る。
 脇屋義助の墓はこの写真の右下に見える。







 このときの動きがはっきりしないが、義助は伊予国を含めた四国のみならず、中国方面も南朝方の取りまとめ役として総大将に任命されている。

 任命したのは当然ながら後村上天皇であるが、即位間もない天皇は、このころ矢継ぎ早に綸旨や、軍勢催促・所領安堵を行っている。南朝方の弱体化に焦りを感じていたのだろう。

 後村上天皇のこうした命に対し、南朝方総大将となった脇屋義助の献身的な姿が彷彿されるが、中国・四国において南朝方をまとめるという任務は義助にとって、大変な負担であったと思われる。

 さて、倉吉市の大蓮寺にある脇屋義助の墓の経緯だが、この墓については、結論から言って、限りなく山名時氏が関わっていると思われる。

 山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)でも紹介したように、時氏自身の墓は同じ倉吉市巌城にある「山名寺」に建立されているが、生前時氏は、新田氏の出身地である上野国から臨済宗の名僧・南海宝州を招き、禅院(光孝寺)を建てた(おそらく山名寺周辺と思われる)。

 時氏は南北朝初期には確かに、新田義貞らと袂を分かち尊氏に与したが、その後直義・直冬らと結び幕府に翻し、帰参後は管領細川氏と対抗していく。

 脇屋義助が病死した康永元年(1342)から、24年後の貞治5年(1366)、時氏は出家し道静を号した。おそらく、南海宝州を伯耆に招き、光孝寺を建てたのはこのころだろう。
 そして、併せて、時氏は同じ新田一族であった義助を追悼すべく、光孝寺から少し離れたこの大蓮寺付近に五輪塔形式の供養塔を祀ったのではないだろうか。
【写真左】大蓮寺に向かう参道
 手前の東西の通りから狭い脇道があるが、これが通称・弁天参道といわれ、大蓮寺に向かう参道となっている。

 大蓮寺の山門脇には、大弁天という弁天様が祀られている。


大蓮寺沿革

参考までに当院の沿革を記す。

“沿革
 打吹城址に東接する華到(げとう)(巷称は外道)山麓は、“法界門”の小字、“寺山”“寺屋敷”と名残るあたりに草創。養老年間に創建の厳城は見日千軒の興教院と南北に対峙した古刹である。


 小鴨の奔流は洪水の度に北遷し見日千軒を潰滅した反面、南部に沖積地を造成したので、武将山名は田内から打吹に居城を移し、山裾に陣屋を構え、外部に町屋を並べ居住区を用水路玉川で区切った。その頃の郊外で北に拡がる入江の面影を残し、“濱の松”の林立するところ、城山に正面し向山を借景に移建。時に永禄か。


 移築開山の文翁の西化を天正19年7月4日と墓に刻しているが、“延享の大火”で倉吉は全滅、当山も祝融を受け、寛保以前は定かでない。
【写真左】大阪の豪商「淀屋」の墓
 脇屋義助の墓に隣接して建立されているのが、倉吉を本拠として大阪で江戸時代繁栄した「淀屋」の墓である。

 大坂の陣(冬・夏)で徳川方につき、戦の跡残った武具などを集めそれを売って儲けたといわれる。今でいえば、リサイクル商売の先駆けだろう。
 なお、淀屋の出身については八幡市(京都府)との関わりも深い。



“エエモンがほしい”とおやつをねだる童に親は“エエモンは大蓮寺にある”と応えたという。その山門は地名にも現存。京都○○博士が“この門で偉容を偲べる”といった倉吉最初の葺瓦本堂は、昭和17年解体したが、昭和30年に倉吉最初の鉄筋混凝土建築・近畿以西最初鉄筋コンクリート造営の“赤蓮華僧伽藍”再建。


 草生期の成徳小学校や倉吉西高等学校が当寺を教場とし、旧制倉吉中学校(倉東高)創立の期成事務もここで執るなど文教に関与した寺歴があり、歴住に風騒の人も少なくない。…(以下略)”

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