河後森城(かごもりじょう)
●所在地 愛媛県北宇和郡松野町松丸
●別名 皮籠森城・向後森城
●築城期 建久7年(1196)
●築城者 渡辺連
●城主 渡辺有高・時忠・政忠・教忠等
●指定 国指定史跡(H9年9月11日)
●形態 山城
●遺構 城門・郭・空堀
●高さ 標高171m(比高70m)
●登城日 2010年3月18日
◆解説(参考文献『松野町HP』『日本城郭体系第16巻』等)
前稿宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)から土佐街道(320号線)を東進し、鬼北町を超えて四万十川の支流広見川と並行して走る381号線に入ると、やがて松野町役場が見えてくる。
河後森城は、この役場の西南に築かれた山城である。
【写真左】河後森城遠望
南麓からみたもの。
南側に駐車場があり、そこから数分で城内に入ることができる。
宇和西園寺氏
宇和島城の稿でも述べたように、松野町も含めた南予地方は鎌倉時代、藤原一門で九摂関家の一つであった西園寺氏が当地に下向した。
同氏は土着したのち南予のほとんどを支配し、戦国末期まで続くことになる。この結果、宇和西園寺氏の名が四国全土に知られることとなる。
さて、河後森城の戦国時代の城主としては、宇和西園寺氏の麾下であった渡辺教忠がいる。彼は、宇和西園寺氏15将の一人として、別名河原淵殿と呼ばれ、豊後の大友氏、土佐の一条氏・長宗我部氏らと戦っている。
【写真左】河後森城概要図
当城は「河後森城跡生活環境保全林」(えひめ森林浴88か所)の指定も受けている。
左図はその関係案内図で、城跡遺構を示すものではないが、中央に風呂ヶ谷があり、北東部は古城、そのまま西進すると本郭(主郭)群にむかう。
風呂ヶ谷の東方には新城があり、やや独立した丘陵部に築かれている。
ただ、この15将は、もともと西園寺氏から恩給を受けて領地を支配したものでなく、むしろ各自が独力で築き上げてきた国人領主であって、西園寺氏と絶対的な主従関係を持つものではなく、場合によっては、西園寺氏と袂を分かつことも厭わない諸将であった。このことは、西園寺氏が戦国期に盤石の支配体制を築くことができなかった最大の原因となる。
【写真左】風呂ヶ谷
右側には新城、まっすぐ向かうと本郭・古城を含めた郭群の切崖が立ちはだかる。
おそらくこの谷に入ったら、三方から攻撃を受けることになるだろう。
築城期
築城期については、記録がないためはっきりしないが、鎌倉時代の建久7年(1196)、渡辺綱から6代目となる源七郎兵部少輔源連という武将が当城に入城したという記録があるが、後世に記されたもので断定できない。
【写真左】風呂ヶ谷から新城・古城方面を目指す。
登城道も整備され歩きやすいが、勾配はかなりあるので、比高の低さの割に要害性が高いと思われる。
渡辺氏
『清良記』『渡辺教忠掟書』『大洲旧記』などの史料によると、渡辺氏の系譜で、室町時代に左近将監有高、明応年間(1492~1501)に肥前守時忠、天文年間(1532~55)に越後守政忠、永禄から天正年間(1558~92)に、先述した教忠(式部少輔)の名が残る。
【写真左】新城
最初に南東部の新城に向かった。
『日本城郭体系第16巻』には記載されていない箇所で、北側の古城との間には鞍部を介し、その東麓部には意識的に広げたような深い谷が伸びている。
新城にも多数の郭群が配され、主郭と思われる位置は南端部にある。
渡辺教忠は、敵方でもあった土佐一条氏(房家)の三男・東小路法行の子である。先代の越後守政忠に嫡男がいなかったため、苦渋の選択の末、教忠を養子として迎え入れた。このことが後に、一条家による南予攻略の際、彼は城を出ず、不戦の態度を示したため、西園寺氏をはじめ同氏14将からも非難を受けた。
そして永禄10年(1567)、西園寺公広を先頭に河後森城の攻略が開始された。このため、教忠は養子を人質に出しどうにか許しを得た。
【写真左】新城の修復工事個所
比高が低いこともあって、険しい切崖構造箇所が多数みられる。このため、写真のような崩落個所が発生したのだろう。
土佐一条氏
ところで、土佐一条氏は、応仁の乱を避けて所領の一つであった土佐幡多荘(現、四万十市)に応仁2年(1468)、一条兼良の子・教房が下向したのに始まる(土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)参照)。
●所在地 愛媛県北宇和郡松野町松丸
●別名 皮籠森城・向後森城
●築城期 建久7年(1196)
●築城者 渡辺連
●城主 渡辺有高・時忠・政忠・教忠等
●指定 国指定史跡(H9年9月11日)
●形態 山城
●遺構 城門・郭・空堀
●高さ 標高171m(比高70m)
●登城日 2010年3月18日
◆解説(参考文献『松野町HP』『日本城郭体系第16巻』等)
前稿宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)から土佐街道(320号線)を東進し、鬼北町を超えて四万十川の支流広見川と並行して走る381号線に入ると、やがて松野町役場が見えてくる。
河後森城は、この役場の西南に築かれた山城である。
【写真左】河後森城遠望
南麓からみたもの。
南側に駐車場があり、そこから数分で城内に入ることができる。
宇和西園寺氏
宇和島城の稿でも述べたように、松野町も含めた南予地方は鎌倉時代、藤原一門で九摂関家の一つであった西園寺氏が当地に下向した。
同氏は土着したのち南予のほとんどを支配し、戦国末期まで続くことになる。この結果、宇和西園寺氏の名が四国全土に知られることとなる。
さて、河後森城の戦国時代の城主としては、宇和西園寺氏の麾下であった渡辺教忠がいる。彼は、宇和西園寺氏15将の一人として、別名河原淵殿と呼ばれ、豊後の大友氏、土佐の一条氏・長宗我部氏らと戦っている。
【写真左】河後森城概要図
当城は「河後森城跡生活環境保全林」(えひめ森林浴88か所)の指定も受けている。
左図はその関係案内図で、城跡遺構を示すものではないが、中央に風呂ヶ谷があり、北東部は古城、そのまま西進すると本郭(主郭)群にむかう。
風呂ヶ谷の東方には新城があり、やや独立した丘陵部に築かれている。
ただ、この15将は、もともと西園寺氏から恩給を受けて領地を支配したものでなく、むしろ各自が独力で築き上げてきた国人領主であって、西園寺氏と絶対的な主従関係を持つものではなく、場合によっては、西園寺氏と袂を分かつことも厭わない諸将であった。このことは、西園寺氏が戦国期に盤石の支配体制を築くことができなかった最大の原因となる。
【写真左】風呂ヶ谷
右側には新城、まっすぐ向かうと本郭・古城を含めた郭群の切崖が立ちはだかる。
おそらくこの谷に入ったら、三方から攻撃を受けることになるだろう。
築城期
築城期については、記録がないためはっきりしないが、鎌倉時代の建久7年(1196)、渡辺綱から6代目となる源七郎兵部少輔源連という武将が当城に入城したという記録があるが、後世に記されたもので断定できない。
【写真左】風呂ヶ谷から新城・古城方面を目指す。
登城道も整備され歩きやすいが、勾配はかなりあるので、比高の低さの割に要害性が高いと思われる。
渡辺氏
『清良記』『渡辺教忠掟書』『大洲旧記』などの史料によると、渡辺氏の系譜で、室町時代に左近将監有高、明応年間(1492~1501)に肥前守時忠、天文年間(1532~55)に越後守政忠、永禄から天正年間(1558~92)に、先述した教忠(式部少輔)の名が残る。
【写真左】新城
最初に南東部の新城に向かった。
『日本城郭体系第16巻』には記載されていない箇所で、北側の古城との間には鞍部を介し、その東麓部には意識的に広げたような深い谷が伸びている。
新城にも多数の郭群が配され、主郭と思われる位置は南端部にある。
渡辺教忠は、敵方でもあった土佐一条氏(房家)の三男・東小路法行の子である。先代の越後守政忠に嫡男がいなかったため、苦渋の選択の末、教忠を養子として迎え入れた。このことが後に、一条家による南予攻略の際、彼は城を出ず、不戦の態度を示したため、西園寺氏をはじめ同氏14将からも非難を受けた。
そして永禄10年(1567)、西園寺公広を先頭に河後森城の攻略が開始された。このため、教忠は養子を人質に出しどうにか許しを得た。
【写真左】新城の修復工事個所
比高が低いこともあって、険しい切崖構造箇所が多数みられる。このため、写真のような崩落個所が発生したのだろう。
土佐一条氏
ところで、土佐一条氏は、応仁の乱を避けて所領の一つであった土佐幡多荘(現、四万十市)に応仁2年(1468)、一条兼良の子・教房が下向したのに始まる(土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)参照)。
土佐一条氏は、その地理的条件を生かした対外貿易や海上交通を盛んに取り入れた。特に豊後水道や伊予灘を介して大友氏や大内氏とも強い関係を保ち、勢力を誇った。しかし、その後暗愚の継嗣が続き、兼定の代でほぼ途絶えた。
【写真左】新城から風呂ヶ谷を挟んで西北に本郭および西第10郭を望む。
現在は杉などの植林があってはっきりしないが、当時はこれら連続する郭群が壮大に見えたことだろう。
ちなみに、以前出雲国の大内神社(島根県東出雲町 西揖屋)を取り上げたが、尼子氏の月山冨田城攻めによる大敗で、溺死した大内晴持は、この土佐一条氏・房冬の子で、母は大内義隆の姉である。
大内義隆が家督を継いだ享禄元年(1528)ごろ(晴持3,4歳ごろ)、義隆、すなわち叔父のところへ養嗣子として山口に移った。
【写真左】古城の郭群
古城は東方に細長く伸びた郭群で構成されている。郭間の高低差は余りないが、両端部の切崖はここでも険峻である。
家臣による追放
さて、その後の教忠は、城主としての地位を失い家臣に追い出されてしまう。そして新たに河後森城主となったのは、鳥屋ヶ森城(とやがもりじょう)(北宇和郡鬼北町大字生田)の城主であった芝美作守政輔である。
彼は教忠に見いだされ後に鳥屋ヶ森城主となった。実際に追放したのは彼の四男・源三郎である。
時期ははっきりしないが、天正8年から9年(1580~81)のころと推定される。その後、長宗我部氏と西園寺氏の両者に巧みに仕え一族安泰を図ったが、秀吉の四国征伐の際、当城を手放すことになった。
【写真左】古城付近から北麓を見る。
中央左に見える川は広見川で、四万十川に合流する。手前が上流部。橋の手前の建物は松野町役場。写真には見えないが、広見川と並行して予土線が走っている。
なお、この河後森城付近には支城と思われる城砦(山城)が約10か所ほど確認されている。
遺構の概要
河後森城の発掘調査が始まったのは、平成3年度からだという。そして平成9年には国指定史跡の指定を受け、地元松野町において平成11年度から環境整備事業が実施されているようだ。
昭和55年発行の『日本城郭体系第16巻』(㈱新人物往来社編)で、当城の要図が示されているが、この段階では未だ本格的な調査がされていないこともあって、「新城」などを含め、その全容は示されていない。
【写真左】古城側から本郭を見る。
古城を過ぎると、途端に高低差のある郭群が連続する。
現在でも地道な調査や整備が継続されているが、主だった遺構を示すと次のようになる。
河後森城は三本の川に取り囲まれ、独立した丘陵に築かれているが、中央の南北を走る谷(風呂ヶ谷)を取り囲むように馬蹄形を構成する郭群が配置されている。
主郭とされる中央部から西に向かって9か所の郭群を置き、東に向かっては第2、第4とあり、その東には古城があり、ここに7か所の郭がある。さらに南方には新城の郭群が残る。標高はだいぶ違うが、美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)の縄張り図に似ている。
【写真左】本郭側から古城方面を振り返る。
古城側からは3,4段の郭を超えて本郭につながる。
【写真左】本郭
河後森城の中心部で、本郭と称された場所。いわゆる本丸にあたる個所だが、この位置が最高所の171mにあたる(比高88m)。
写真に見える四角いものは当時建てられていた建物跡を示す。調査した結果、建物10棟、門跡1基、土塀1基があったという。建物形式は掘立柱を用い、屋根は板を葺いたものが使用されたという。
建物の種類は、城主が居住した主殿舎(連合いと犬がいるところ)、料理の台所、見張りの番小屋など。出土品は15世紀から16世紀にかけて使用されたもの。
なお、このほかに明らかに時期が違う遺構があり、これが河後森城の最終段階である戦国末期から慶長年間ごろに存在したといわれる天守跡ではないかといわれている。具体的なものとしては、瓦・礎石・石垣などだが、これらが前稿「宇和島城」築城の際、再利用されたのだろう。
【写真左】本郭から東南に新城を見る。
先ほどの新城とは反対に、本郭から新城をみたもので、築城年代を無視すれば、「一城別郭」形式ともいえる。
【写真左】本郭入口
南側からみたもので、崩落しやすいため土嚢で保持されている。
【写真左】本郭から西出郭に向かう。
本郭を過ぎて西へ向かうと、約9段の連続する郭群が伸び、次第に下がっていく。
【写真左】西出郭・その1
どの郭も整備が行き届いている。
【写真左】西第10郭にある復元建物
西出郭群最南端である第10郭跡に建てられた建物で、掘立柱形式のもの。
この郭には、この他もう一つの建物と、南側には土塁に沿うように多聞櫓跡があったという。
【写真左】土塁跡
復元された土塁で、幅約2.2m弱、高さ50cm~90cm前後の規模。南側から東側にかけて復元されている。
【写真左】西第10郭から本郭に繋がる西出郭群を振り返る。
中央左には垣根のようなものがあって見難いが、右下につながる風呂ヶ谷から上ってきたコースに「門」が建っている。
【写真左】西第10郭から風呂ヶ谷を挟んで、新城を遠望する。
この位置からみると、新城の主郭高さと西第10郭はほぼ同じぐらいに見える。
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