豊前・松山城(ぶぜん・まつやまじょう)
●所在地 福岡県京都郡苅田町
●築城期 天平12年(740)
●高さ 標高128m(比高110m)
●築城者 藤原広嗣
●城主 藤原氏、神田氏、平氏、城井氏、大内氏、大友氏、毛利氏、黒田氏
●廃城年 慶長11年(1606)
●遺構 郭・土塁・石垣・竪堀等
●指定 苅田町指定史跡
●登城日 2011年3月11日
◆解説
豊前・松山城は豊前国(福岡県)の周防灘に面した山城で、前稿「城山城」のような朝鮮式山城ではないが、それでも築城期が天平時代(奈良時代)に築かれた古い歴史を持つ山城(海城)である。
また、城歴としても、廃城の慶長年間まで800年余りも続いた大変に長い記録を持つ山城である。
【写真左】豊前・松山城遠望・その1
南方にある馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)本丸から見たもの
(撮影2014年4月7日)
【写真左】豊前・松山城遠望・その2
2015年10月11日、豊前の山城を探訪した折、近くまできたので、西麓側から撮ったもの。
なお、手前の陸地は近年埋め立てられているので、当時は海だったと思われる。
【写真左】豊前・松山城遠望・その3
南側から見たもの。
なお、駐車場はごく最近(2011年3月)南麓部の登城口付近に3,4台駐車できるスペースが確保されたが、この日はその場所が分からず、数百メートル南の戸取神社の脇に停め、そこから歩いて向かった。
現地の説明板より
“松山城跡
(平成5年12月21日 町指定史跡)
松山城は、かつて豊前国第一級の要塞の山城といわれた。古記によれば、740年(天平12)に藤原氏によって築城されたといわれ、その後数回の戦乱に見舞われ、何度も城主が変わり、1606年(慶長11)に廃城になったと伝えられている。
【写真左】松山城を上から見た写真
登城口付近に設置された説明板に添付されていたもので、発掘調査のときのものと思われる。
主要部が伐採され全容がつかめる。
山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、二ノ郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。
三ノ郭からさらに東側には、かつて小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのために消滅した。
主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には、横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。
松山城跡の全体の構図は、主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り囲んで、さらにその外側には、土塁と竪堀が巡らしており、まるで、松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である。
苅田町教育委員会”
【写真左】登城道
登城口から本丸までは約30分余りで着く。
多少の勾配はあるものの、写真にあるような階段が設置され、歩きやすい。
藤原広嗣の乱
説明板にある豊前・松山城の築城者・藤原氏とは藤原広嗣のことと思われる。
藤原広嗣の父・宇合(うまかい)は、聖武天皇の時代、朝廷につかえ、絶大な権力を握った藤原四兄弟の三男である。天平9年(737)、この四兄弟が相次いで亡くなると、朝廷内では反藤原氏の勢力が台頭、四兄弟の子たちはそれにともなって朝廷権力の中から排除されるようになった。
【写真左】土塁
本丸の西方直下には良好な土塁が残る。
高さは1.5m前後で奥行は100m近くある。
宇合の子・広嗣は、翌10年、九州の太宰少弐として左遷された。これを不服とした広嗣は天平12年(740)9月3日、弟(※)らと地元大宰府の随臣や隼人など約1万人の兵を率いて蜂起した。
これに対し、朝廷側はすぐさま、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍17,000の兵を徴兵、戦いは約1か月半におよび、10月23日、広嗣は肥前国松浦郡で捕えられ、11月1日、同国唐津で処刑された。
これを藤原広嗣の乱という。
※
なお、広嗣の弟・藤原綱手(つなて)も兄・広嗣と同じ唐津で処刑されたとする記録もあるが、『公卿補任』によれば、広嗣の弟は、藤原田磨とされ、捕らわれたのち、隠岐国(島根県)へ配流されたといわれている。
そして、この藤原田磨が、後鳥羽上皇以前の朝廷関係者による隠岐国最初の配流人となっている。
【写真左】二ノ郭
南方に伸びる郭で、本丸側から少し傾斜をもった形状となっている。長径30m前後、短径20m前後か。
鎌倉期から室町時代
所在地が豊前国であることから、平安期は当然ながら平氏の支配となったが、壇ノ浦の戦いにおいて、平氏最期の城主・平吉盛は自刃(入水自殺)し、鎌倉期になると下野国の宇都宮氏の傍系・城井(きい)氏が地頭職として入った。しかし、直後に平氏系であった豊前長野氏が奪還している。
南北朝期になると、これまでたびたび記したように、足利尊氏が九州に一旦退いたとき、尊氏に属した少弐頼尚が宮方であった松山城を攻略、頼尚の子・頼房が城主となった。
室町期に入ると、豊前国は北の大内氏と、豊後の大友氏らによって度々争奪戦が繰り広げられる。そして天文年間、大内義隆の代まで麾下の杉氏が治めていった。
【写真左】二ノ郭から本丸を見上げる。
二ノ郭の両側は土塁状の囲繞遺構が残っている。
戦国期
しかし、天文20年(1551)9月、陶晴賢の謀反によって大内義隆が自害すると、状況は一変。
杉氏は毛利方に恭順を示すと、大友氏によって攻略された。その後毛利氏が周防・長門など大内氏の旧領を支配下に置くと、九州へ南下し、いったんは毛利氏の手に落ちた。
しかし、その後再び大友氏が奪還を開始し、将軍足利義輝の斡旋によって和議を結び、大友氏に引き渡された。
【写真左】三ノ郭
二ノ郭の北側と接続された位置に配置されている。この先端部あたりから切崖状の遺構が見えるが、ご覧の通り「危険個所」の安全ロープが張られ、侵入しない方がいいようだ。
また、三ノ郭から東部(周防灘方向)にかけては竹林となっており、奥の様子は確認できない。おそらく、数段の郭が配置されていると思われる。
秀吉の九州征伐と関ヶ原の合戦後
秀吉が九州に進軍すると、北九州のほとんどの領主は秀吉に従うことになり、松山城は先鋒を務めた毛利氏の属将の支配下となった。
そして、関ヶ原の戦いの後は、同国を治めた細川忠興のものとなったが、慶長11年(1606)廃城となった。
【写真左】二ノ郭から本丸へ向かう
二ノ郭から本丸に向かうと、いったん中間の郭(腰郭)がある。
写真にみえる階段はおそらく戦国末期に設置されたものだろう。
【写真左】石垣と階段
部分的には崩れているところもあるが、遺構としては良好な階段だろう。
写真左側は主郭(本丸)を支える石垣がみえる。
【写真左】本丸跡
ほぼフラットな仕上げとなっており、長径20m前後、短径10m程度の規模。
【写真左】本丸から東方に周防灘と北九州空港を俯瞰する。
松山城から東方に見える陸地は、現代になって埋め立てられたもので、おそらく当時は北東部山麓に船着き場があり、多くの軍船が係留していたと思われる。
【写真左】本丸から北方の門司方面を見る
当城の所在地は京都郡にあるが、西北の北九州市小倉南区と接している。
また写真に見えるように、周防灘を介して北方には門司地区を見据えることができ、戦国期など中国からの大内氏や毛利氏の船団が往来する様子は手に取るように見えたことだろう。
【写真左】本丸から南方を見る
上記とは逆に南方を見たもので、苅田港付近。手前の煙突群は九州電力苅田火力発電所。
おそらく視界がいいときは、豊後(大分)の国東半島も見えるだろう。
こうしたことから豊前・松山城が戦略的にも重要なため長い間、海城形態の城砦としてつかわれてきたと考えられる。
【写真左】本丸北側に伸びる帯郭
南側の二ノ郭に繋がる郭で、幅は3~5m前後の規模。
なお、この下にも中小の郭群があると思われる。
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●築城者 藤原広嗣
●城主 藤原氏、神田氏、平氏、城井氏、大内氏、大友氏、毛利氏、黒田氏
●廃城年 慶長11年(1606)
●遺構 郭・土塁・石垣・竪堀等
●指定 苅田町指定史跡
●登城日 2011年3月11日
◆解説
豊前・松山城は豊前国(福岡県)の周防灘に面した山城で、前稿「城山城」のような朝鮮式山城ではないが、それでも築城期が天平時代(奈良時代)に築かれた古い歴史を持つ山城(海城)である。
また、城歴としても、廃城の慶長年間まで800年余りも続いた大変に長い記録を持つ山城である。
【写真左】豊前・松山城遠望・その1
南方にある馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)本丸から見たもの
(撮影2014年4月7日)
【写真左】豊前・松山城遠望・その2
2015年10月11日、豊前の山城を探訪した折、近くまできたので、西麓側から撮ったもの。
なお、手前の陸地は近年埋め立てられているので、当時は海だったと思われる。
【写真左】豊前・松山城遠望・その3
南側から見たもの。
なお、駐車場はごく最近(2011年3月)南麓部の登城口付近に3,4台駐車できるスペースが確保されたが、この日はその場所が分からず、数百メートル南の戸取神社の脇に停め、そこから歩いて向かった。
現地の説明板より
“松山城跡
(平成5年12月21日 町指定史跡)
松山城は、かつて豊前国第一級の要塞の山城といわれた。古記によれば、740年(天平12)に藤原氏によって築城されたといわれ、その後数回の戦乱に見舞われ、何度も城主が変わり、1606年(慶長11)に廃城になったと伝えられている。
【写真左】松山城を上から見た写真
登城口付近に設置された説明板に添付されていたもので、発掘調査のときのものと思われる。
主要部が伐採され全容がつかめる。
山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、二ノ郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。
三ノ郭からさらに東側には、かつて小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのために消滅した。
主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には、横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。
松山城跡の全体の構図は、主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り囲んで、さらにその外側には、土塁と竪堀が巡らしており、まるで、松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である。
苅田町教育委員会”
【写真左】登城道
登城口から本丸までは約30分余りで着く。
多少の勾配はあるものの、写真にあるような階段が設置され、歩きやすい。
藤原広嗣の乱
説明板にある豊前・松山城の築城者・藤原氏とは藤原広嗣のことと思われる。
藤原広嗣の父・宇合(うまかい)は、聖武天皇の時代、朝廷につかえ、絶大な権力を握った藤原四兄弟の三男である。天平9年(737)、この四兄弟が相次いで亡くなると、朝廷内では反藤原氏の勢力が台頭、四兄弟の子たちはそれにともなって朝廷権力の中から排除されるようになった。
【写真左】土塁
本丸の西方直下には良好な土塁が残る。
高さは1.5m前後で奥行は100m近くある。
宇合の子・広嗣は、翌10年、九州の太宰少弐として左遷された。これを不服とした広嗣は天平12年(740)9月3日、弟(※)らと地元大宰府の随臣や隼人など約1万人の兵を率いて蜂起した。
これに対し、朝廷側はすぐさま、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍17,000の兵を徴兵、戦いは約1か月半におよび、10月23日、広嗣は肥前国松浦郡で捕えられ、11月1日、同国唐津で処刑された。
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そして、この藤原田磨が、後鳥羽上皇以前の朝廷関係者による隠岐国最初の配流人となっている。
【写真左】二ノ郭
南方に伸びる郭で、本丸側から少し傾斜をもった形状となっている。長径30m前後、短径20m前後か。
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南北朝期になると、これまでたびたび記したように、足利尊氏が九州に一旦退いたとき、尊氏に属した少弐頼尚が宮方であった松山城を攻略、頼尚の子・頼房が城主となった。
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二ノ郭の両側は土塁状の囲繞遺構が残っている。
戦国期
しかし、天文20年(1551)9月、陶晴賢の謀反によって大内義隆が自害すると、状況は一変。
杉氏は毛利方に恭順を示すと、大友氏によって攻略された。その後毛利氏が周防・長門など大内氏の旧領を支配下に置くと、九州へ南下し、いったんは毛利氏の手に落ちた。
しかし、その後再び大友氏が奪還を開始し、将軍足利義輝の斡旋によって和議を結び、大友氏に引き渡された。
【写真左】三ノ郭
二ノ郭の北側と接続された位置に配置されている。この先端部あたりから切崖状の遺構が見えるが、ご覧の通り「危険個所」の安全ロープが張られ、侵入しない方がいいようだ。
また、三ノ郭から東部(周防灘方向)にかけては竹林となっており、奥の様子は確認できない。おそらく、数段の郭が配置されていると思われる。
秀吉の九州征伐と関ヶ原の合戦後
秀吉が九州に進軍すると、北九州のほとんどの領主は秀吉に従うことになり、松山城は先鋒を務めた毛利氏の属将の支配下となった。
そして、関ヶ原の戦いの後は、同国を治めた細川忠興のものとなったが、慶長11年(1606)廃城となった。
【写真左】二ノ郭から本丸へ向かう
二ノ郭から本丸に向かうと、いったん中間の郭(腰郭)がある。
写真にみえる階段はおそらく戦国末期に設置されたものだろう。
【写真左】石垣と階段
部分的には崩れているところもあるが、遺構としては良好な階段だろう。
写真左側は主郭(本丸)を支える石垣がみえる。
【写真左】本丸跡
ほぼフラットな仕上げとなっており、長径20m前後、短径10m程度の規模。
【写真左】本丸から東方に周防灘と北九州空港を俯瞰する。
松山城から東方に見える陸地は、現代になって埋め立てられたもので、おそらく当時は北東部山麓に船着き場があり、多くの軍船が係留していたと思われる。
【写真左】本丸から北方の門司方面を見る
当城の所在地は京都郡にあるが、西北の北九州市小倉南区と接している。
また写真に見えるように、周防灘を介して北方には門司地区を見据えることができ、戦国期など中国からの大内氏や毛利氏の船団が往来する様子は手に取るように見えたことだろう。
【写真左】本丸から南方を見る
上記とは逆に南方を見たもので、苅田港付近。手前の煙突群は九州電力苅田火力発電所。
おそらく視界がいいときは、豊後(大分)の国東半島も見えるだろう。
こうしたことから豊前・松山城が戦略的にも重要なため長い間、海城形態の城砦としてつかわれてきたと考えられる。
【写真左】本丸北側に伸びる帯郭
南側の二ノ郭に繋がる郭で、幅は3~5m前後の規模。
なお、この下にも中小の郭群があると思われる。
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