●所在地 福岡県田川郡香春町鏡山・京都郡みやこ町勝山松田
●別名 牙城
●高さ 標高427m(比高350m)
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 足利駿河守統氏
●城主 足利統氏・門司国親・毛利氏・黒田氏他
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・土塁・堀切
●登城日 2011年3月12日
◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』『益田市誌・上巻』等)
障子ヶ岳城は、福岡県の北東部京都郡みやこ町と、田川郡香春町に挟まれた山城である。
サイト『城郭放浪記』氏も述べているように、規模そのものは大きなものではないが、現地に足を踏み入れてみると、隅々まできれいに管理されている。掛け値なしに、これほど気持ちのいい山城はめったにお目にかかれない。まるで、庭園を鑑賞するような造形美さえ感じる。
【写真左】障子ヶ岳城遠望
北東麓の勝山宮原方面から見たもの。
麓から見ても整備されていることがよく分かる。
下段に示す二つの説明板を読むと、当城が二つの町に跨っていることもあり、おそらくこの両方の町の人たちによって継続的に清掃や管理がされているようだ。
山城はいわゆるメジャーな観光地ではないため、探訪者も当然限られてくる。山城ファンや、登山を趣味にしている人たちが大半である。
それでもこうして地元の方々によって、地道に郷土の史跡を保存管理されていることを思うと、頭が下がる思いである。出雲から来た一山城愛好者として、関係者の方々に感謝の意を表したい。
【写真左】登城道・味見峠付近
登城口は複数あるようだが、この日は北側の味見峠側から向かった。
64号線(苅田採銅所線)から鋭角に分岐する山道があり、屈曲したカーブを進んでいくと、本来はこの写真の位置まで車で来ることができるが、途中で道路改修工事があり通行止めされ、車はその脇に停め、そこから歩いて向かった。
現地の説明板・その1
“味見峠と障子ヶ岳城跡
味見峠(標高247m)は、養老4年(720)採銅所長光にある清祀殿で鋳造した銅の神鏡を、古宮八幡宮から宇佐八幡宮に奉納する際、御神輿の行列が通ったことで有名であり、英彦山山伏の峰入りコースの一部でもあった。
昭和56年(1981)中腹に苅田~採銅所線として味見トンネルが開通し、今日では人通りも途絶えているが、かつては経済的、人的交流(婚姻など生活交流)の峠道でもあった。
【写真左】障子ヶ岳登り口の看板
この位置で他の登り道と合流する。ここから1キロ余りの距離となる。
ご覧の通り、登城道は登山者が多いことと、管理が行き届いているため、距離はあるものの爽快な気分になる。
また、所々で左右に景色が見え、楽しめる。
○味見「アジミ」の由来は
- 宇佐八幡の所領としての勾金荘が「安心院氏」によって支配されていたこと。
- 障子ヶ岳と龍ヶ鼻の鞍部、すなわち馬の鞍の古語「アジム」。
- 採銅所中野に魚市場があったことから、京都郡豊前海の新鮮な魚介類が人の背によって運ばれ、峠で鮮度や味見をしたこと。 などの諸説がある。
上記の位置から尾根伝いにほぼ真っ直ぐにむかうが、途中で2,3所アップダウンがある。このうち一か所は砦跡と表示されたところがある。いわば北方の出城の役目を成したものだろう。
味見峠から登られる障子ヶ岳城跡
障子ヶ岳(427.3m)の山頂にあった障子ヶ岳城は、戦略上の要衝の地であるため、この城をめぐって幾度か攻防が繰り返された。
この城跡は、牙城跡(きばじょうあと)とも呼ばれ、中世の山城の姿を極めてよく残している。
建武3年(1336)、足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏の築城といわれ、その後度重なる戦乱で城主は変わり、天正14年(1586)豊臣秀吉の九州平定に伴い、黒田孝高の軍に落とされた。
平成16年7月吉日 香春町ボランティアグループ 味見会 製作”
【写真左】本丸直下付近
尾根筋をかなり長く歩くと、やがて本丸の真下に行き着く。この部分は少し下がっているため、よけいに本丸の比高を高く感じる。
ここまで歩いた尾根筋には左右に多くの木が植えてあったが、おそらく桜の木だろう。春に探訪すれば見事な景色の桜並木道となるだろう。
尾根筋をかなり長く歩くと、やがて本丸の真下に行き着く。この部分は少し下がっているため、よけいに本丸の比高を高く感じる。
ここまで歩いた尾根筋には左右に多くの木が植えてあったが、おそらく桜の木だろう。春に探訪すれば見事な景色の桜並木道となるだろう。
現地の説明板・その2
“障子ヶ岳城址
この障子ヶ岳は標高427mで、京都、田川の郡境に位置し、戦略上、要衝の地にあるため、この城をめぐって幾度か攻防が繰り返されてきました。特に1399年(応永6年)に繰り広げられた大内、大友の両家の戦いは有名で、「応永戦覧」の中でも紹介されています。
この城址は、牙城跡とも呼ばれ、中世の山城の姿を残しています。障子ヶ岳城は、1336年(建武3年)足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏が築城し、その後の度重なる戦乱で、城主は次々と変わっています。
この城は、豊臣秀吉の九州平定に伴い、1586年(天正14年)黒田孝高の陣に下り、その翌年には豊臣秀吉も入城したとされています。
その後、この城は1615年(元和元年)に徳川家康の一国一城令によって廃城となったとされています。
昭和63年12月
勝山町教育委員会
※この城址は、長く雑木がうっそうと生い茂り、その姿も消えようとしていたものを、地権者の理解を得て、今春4か月をかけて実施した「障子ヶ岳の城攻め」と銘打った清掃事業に参加した延べ623名のボランティアの手により、この美しい姿を取り戻したものです。”
足利尊氏の西下
障子ヶ岳城の築城期は、説明板にもあるように建武3年(1336)とされ、築城を命じたのは足利尊氏である。
この年の1月、尊氏は京都賀茂河原で新田義貞(新田義貞戦没伝説地(福井県福井市新田塚)参照)に敗れ、いったん丹波国に逃れた。そして赤松円心(白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)参照)の勧めを聞き入れ、九州に下った。
九州で体勢を立て直し、宮方の菊池武敏・阿蘇惟直らと筑前多々良浜(福岡市東区)で戦い、これに勝利したのが、同年3月2日とされている。
障子ヶ岳城を築いた足利駿河守統氏については詳細は不明だが、おそらく上記の多々良ヶ浜の戦いに向けて築城されたものだろう。
【写真左】北の丸
障子ヶ岳城は南北に長く伸びた郭群を構成し、北の丸から堀切を介して、南へ馬場跡・二の丸・本丸と続く。
登城入口は北の丸の南にある堀切付近にある。
この写真は堀切側から北の丸を見たもの。
豊臣秀吉の九州征伐
秀吉が九州征伐、すなわち島津義久らの討伐を開始したのは天正14年(1586)のことであるが、このときの障子ヶ岳城周辺を任された秀吉方の主だった将は、小早川隆景および黒田如水(孝高)らである。
障子ヶ岳城に小早川隆景らが迫ったのは、同年11月10日とされている。そしてわずか5日で落城した。しかし、障子ヶ岳城が落城したその日(11月15日)、隆景の兄・吉川元春は、豊前小倉の陣中で没した。享年57歳。
【写真左】馬場跡・その1
幅10m前後、長さは40m前後と規模はあまり大きくない。
奥に二の丸・本丸が控える。
【写真左】馬場跡・その2
北の丸の東側から捉えたアングルで、色合いが少し違うが、少し手動調整している。
ところで、障子ヶ岳城の西方2キロには当城の本城とされていた香春岳(かわらだけ)城がある。
この城には、当時高橋種元(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)が城主であったが、交戦中、東方に見える支城・障子ヶ岳城の落城を目の当たりにした種元は、その後戦意を喪失し投降した。
ちなみに、障子ヶ岳・香春岳城の戦いの前哨戦としては、宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)の戦いがあった。宇留津城は、現在の築上郡築城町にあった平城で、周防灘に面した位置にあり、形態としては当時は海城だったと思われる。
城主は賀来恵瓊で、毛利軍は先にこの城を落とした。その際、残兵は大半が香春岳城へ奔ったという。
【写真左】二の丸手前の説明板
この説明板が上段で紹介した内容のもの(その2)である。
北の丸から本丸までの総延長は210mで、本丸の頂部と、北の丸のそれとはほぼ同じ高さとなっている。
この戦いでは、毛利方の武将として参加した石見の七尾城主・益田越中守元祥(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)は、多大な活躍を見せ、輝元から感状を、吉川元長から太刀一腰、馬八疋を贈られている。
さらに、元祥は香春岳城の戦いでも殊勲を立て、のちに黒田如水の口添えで、秀吉から感状を受けた。
最終的に秀吉の九州征伐が完了するのは、翌天正15年(1587)5月8日である。その前日、雨窓院において剃髪した義久(島津)は、龍伯と改め、当日佐々成政を介して秀吉に謁見した。
本来ならば、義久は敗将として自刃を迫られてもおかしくない状況である。秀吉が義久に対して命を奪うどころか、旧領の大隅・薩摩・日向南部の領有を認めている。秀吉がこうした処置をとった背景には、日向方面(東軍)の総大将だった秀吉の実弟・秀長との事前の講和が背景にある。
【写真左】二の丸から振り返ってみる。
手前が馬場跡、いったん下がったところが堀切、そして奥に独立した郭・北の丸がみえる。
北の丸の延長方向(北方)は北九州市方面になる。
【写真左】二の丸と本丸
手前が二の丸で、その奥に本丸が控える。二の丸と本丸との比高は約4m前後か。
傾斜はあるものの、これだけきれいに管理されていると、登るのも苦にならない。
【写真左】本丸・その1
本丸に上がると、ご覧の通り庭園のように整備されている。
ほぼ全周にわたって土塁が取り巻く。高さは1m弱か。
【写真左】本丸・その2
土塁の西側切崖部分もきれいに整備されている。
【写真左】本丸・その3
標柱脇にはやや時期が過ぎたものの、水仙の花が咲いていた。
【写真左】本丸の西側切崖から北の丸方面を見る。
遺構の種類や規模としては物足りないものかもしれないが、山城の骨格を知るうえでは大変貴重な素材ともいえる。
【写真左】振り返って二の丸を見る
二の丸は北の方にかけて少し幅が狭くなる。
【写真左】本丸から再び見下ろす
この角度から見ると、全体に弓型の形状にみえる。
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