2011年12月9日金曜日

山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)

山南城(やまみなみじょう、又は、やまなじょう)

●所在地 島根県邑智郡美郷町村之郷
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 小笠原長親又は家長
●高さ 標高260m(比高40m)
●遺構 郭等
●別名 城山・南山城
●遺構 郭等
●登城日 2011年7月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『石見町誌・上巻』等)
 石見国(島根県)の旧大和村(現邑智郡美郷町)の村之郷に築かれた山城で、島根県遺跡データベースによれば、本城とされる北側の最高所には明確な遺構は残っていないが、南側に出城と思われる箇所が残り、そこには祠が祀られている。
【写真左】山南城遠望
 北側から撮影したもので、山城というより小砦、もしくは居館跡といったほうがよさそうな規模の小さい城砦である。





 所在地は旧大和村と呼ばれた現在の邑智郡美郷町の南方にあって、江の川の西方に位置する。

 江の川側から向かう場合、木立の深い狭く曲がりくねった邑南飯南線(県道55号線)を進むと、最初に戦国期尼子・毛利の激戦地となった「尼子陣所跡」がある。

 ここからさらに西に向かい、橋ヶ峠を越えていくと、次第に谷間が開けてくる。山南城は途中でT字に分岐する位置に築かれている。

現地の説明板より

“山南(やまな)城址
 この小山は、山南城址の一部で、城山とよばれている。
 当地方一帯を古くは「山南(やまな)の里」と称した。城の名称もここに由来する。
 13世紀(鎌倉時代)四国阿波の小笠原氏、石見沿岸防備の功により、当地方を加増されてこの地方入りの拠点としたのが当城である。


 その詳細な年代については、諸説あり、特定できない。


 拠点を川本温湯城に移した後は、その食糧基地として、宮内~布施奥谷~芋畑を経る「笠取り横手」と呼ばれる間道を通じ、補給の拠点となった。
今は、近くの「弓場が谷」等の地名や、「矢竹」の繁茂が往時をしのばせる。”
【写真左】現地に設置された説明板












石見・小笠原氏

 山南城及び、築城者といわれる石見・小笠原氏については、丸山城跡(島根県川本町田窪古市)の際、少し紹介しているが、本稿で改めて整理しておきたい。

 石見・小笠原氏は一般的に、弘安の役(1281)により、阿波・小笠原氏の長経の孫・長親がその功によって、石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされ、下向したのがその14年後の永仁3年(1295)ごろとされている。


 説明板にある「石見沿岸防備」とは、弘安の役すなわち、蒙古襲来における日本海岸周辺の防備で、石見地方の沿岸部には18か所の砦が築かれた。これを石見十八砦と呼ぶ。

 中世石見の主だった一族が確立するきっかけとなったのが、この18か所の城砦が築かれ、それぞれの担当箇所が定められたことにある。そして、それはその後の領有地と深く結びついていくことになる。
【写真左】最初の郭段
 細長いスロープ状の形状を持ち、奥に行くにしたがって広くなる。








主だった石見の一族

吉見氏・益田氏・三隅氏・福屋氏・周布氏・小笠原氏・出羽氏・井原氏・重富氏・三宅氏・大場氏・佐波氏・久利氏・富永氏など。



 さて、この中の小笠原氏についてだが、当初同氏はどの城砦を担当していたのかはっきりしない。

 しかし、出典が不明ながら「沿岸警固のため石西に出張し、妻は益田兼時七尾城 参照)の女美夜」であったという記録があり、このことから当初石見の西方、すなわち益田市沿岸部を担当していたということが読み取れる。

 また弘安の役後「その功により、邑智郡に加封され、村の郷に南山城(山南城)を築いた」とある。
【写真左】下の郭から主郭を見上げる。
 高さはおよそ5,6m程度か、登り道のような箇所が残っていたので、ここから登る。







 ところで、『日本城郭体系第14巻』では、村之郷へ最初に入ったのは、長親ではなく、その子・家長であったとしている。

 そして、最初の本拠地はこの村之郷ではなく、江の川をもう少し下った現在の川本町付近であったとし、村之郷(山南)は食糧補給の拠点として、城代福田氏が経営に当たったと記している。
【写真左】主郭・その1
 祠のようなものが二基祀られている。
【写真左】主郭・その2
 中には仏像のようなものが見えた。
【写真左】古墓
 主郭の隅に見えたものだが、宝篋印塔のような古墓が3基欠損のまま置いてある。
【写真左】切崖
 主郭の裏側は巨岩による切崖形状となっている。










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