益富城(ますとみじょう)
●所在地 福岡県嘉麻市中益
●別名 大隅城
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 大内盛見
●城主 大内氏・杉氏・秋月氏・早川長政・後藤又兵衛・母里友信等
●高さ 標高188m(比高150m)
●遺構 石垣・竪堀・空堀・郭・搦手門その他
●備考 筑前六端城の一つ
●廃城年 元和元年(1615)
●登城日 2011年3月12日
◆解説(参考文献『益田市誌・上巻』等)
福岡県のほぼ中央部、現在の嘉麻(かま)市に築かれた山城である。益富城は旧筑前国に所在するが、北東部を走る秋月街道(R322 )と接し、同街道を登るとすぐに豊前国に至る。つまり境目の城である。
【写真左】益富城遠望
南西麓から見たもので、一般的な要害性を持つ険峻な山城とは趣が違い、頂上部は南北に長く緩やかな平坦面に見える。
なお、当城は城山自然公園として現在整備中であり、南西麓を走る国道211号線から城山公園に向かう道が整備されている。
現地の説明板より
“益富城の歴史
茶色に塗られた箇所が城域で、右側中段に主だった遺構がある。
左側から二の丸・あずまや・白米流し跡・本丸・展望台などと図示されている。
“益富城の規模
天正15年(1587)豊臣秀吉は、30万の軍勢とともに小倉城に入り、4月1日には、秋月攻略の火蓋が切られた。秋月二十四城の一つ豊前の岩石城を1日で陥落させた豊臣の軍勢は、怒涛のごとく大隅の町に押し寄せた。
【写真左】一夜城倉庫
建物はほぼ完成しているようだが、外構工事がこれからというところか。
●所在地 福岡県嘉麻市中益
●別名 大隅城
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 大内盛見
●城主 大内氏・杉氏・秋月氏・早川長政・後藤又兵衛・母里友信等
●高さ 標高188m(比高150m)
●遺構 石垣・竪堀・空堀・郭・搦手門その他
●備考 筑前六端城の一つ
●廃城年 元和元年(1615)
●登城日 2011年3月12日
◆解説(参考文献『益田市誌・上巻』等)
福岡県のほぼ中央部、現在の嘉麻(かま)市に築かれた山城である。益富城は旧筑前国に所在するが、北東部を走る秋月街道(R322 )と接し、同街道を登るとすぐに豊前国に至る。つまり境目の城である。
【写真左】益富城遠望
南西麓から見たもので、一般的な要害性を持つ険峻な山城とは趣が違い、頂上部は南北に長く緩やかな平坦面に見える。
なお、当城は城山自然公園として現在整備中であり、南西麓を走る国道211号線から城山公園に向かう道が整備されている。
現地の説明板より
“益富城の歴史
- 永享年間(1430年頃) 大内盛見によって築城される。
- 永禄年間(1560年頃) 毛利元就の領有となり、杉七郎忠重が城番となる。
- 天正年間(1580年頃) 秋月氏の隠居城となる。
- 天正15年(1587年) 豊臣秀吉は、秋月氏を攻略した後、早川主馬首を城番として居城させる。
- 慶長5年(1600年) 黒田六端城の一つとなり、後藤又兵衛が城主となる。
- 慶長11年(1606年) 後藤又兵衛は出奔し、後の元和元年(1615)大坂夏の陣で討死する。
- 同年 母里太兵衛が益富城主となる。
- 元和元年(1615年) 母里太兵衛が病死する。 幕府より一国一城令が発布され、黒田の本城を残し、六端城はことごとく破却される。益富城廃城となる。
茶色に塗られた箇所が城域で、右側中段に主だった遺構がある。
左側から二の丸・あずまや・白米流し跡・本丸・展望台などと図示されている。
“益富城の規模
当城は、標高187mの山頂に築かれた山城で、本城は、本丸・二の丸・馬屋からなり、その東側に、出丸を設け、両脇を固めるように別曲輪を5か所に配置している。
これらは、東の豊前方面に対する堅固な守りとして築かれている。その形は、出丸を頂点とした三角形を呈していて、一つの陣形を示すようにも見える。
全体の規模は、おおよそ5町歩(50,000㎡)ほどと考えられる。”
【写真左】「一夜城倉庫新築工事」の看板
登城したのは、今年(2011年)3月12日で丁度工事中であったため、作業をしている人の邪魔にならないようにして踏査した。
【写真左】「一夜城倉庫新築工事」の看板
登城したのは、今年(2011年)3月12日で丁度工事中であったため、作業をしている人の邪魔にならないようにして踏査した。
応永の乱
築城者は大内盛見とされている。彼の父は弘世で、彼の子には長兄・義弘を頭に、満弘、弘正、盛見、弘茂、弘十道通と多くの男子がいた。盛見の兄・義弘は、応永の乱の首謀者である。
当時、室町幕府は、応永元年(1394)に第3代義満が将軍職を辞し、嫡男・義持に引き継いだ。そして本人は太政大臣となるもその翌年出家し、道義と号した。
義満については以前にも紹介したように、強大な力を誇示していた守護大名たちを巧みに利用したり、あるいは削ぎ落としたりしながら、京都室町においていわゆる「室町幕府」を確立した第3代足利将軍である。
【写真左】伐採された別曲輪
益富城の二の丸手前の東側に残る郭で、最近まで樹木が生い茂っていたようだ。
この付近を伐採すると、東側の駐車場から二の丸方面にむけて視界が良くなる。
大内盛見の兄・義弘は、南北朝後期九州探題今川了俊に属して、南朝方と戦い豊前守護職を与えられ、さらには明徳の乱においても活躍、和泉・紀伊の守護職も与えられた実力者だった。
こうした活躍の蓄積によって、最盛期には本国周防・長門に加え、石見を合わせると6か国の守護を数えるほどになった。
また、日本海に近い地の利を生かし、朝鮮との貿易で莫大な財力を蓄え、このことが次第に幕府から警戒されるようになる。義満は出家したのち、北山第(金閣寺)の造営を計画、諸大名にその費用と施工人の提供を求めた。これに対し、義弘は「武士の奉公にあらず」として拒否、こうしたこともあって次第に両者の溝は深まった。
【写真左】空堀
二の丸に向かう途中の南側に設置されたもので、竪堀形式のもの
応永6年(1399)10月28日、ついに大内義弘は鎌倉公方(関東管領)足利満兼と呼応し、倒幕の兵をあげた。
そして11月29日、幕府軍は大内義弘の拠った堺城を包囲、翌月21日には当城陥落し、義弘は討死した。
このとき、兄義弘に従っていた盛見の弟は、兄の敗死によって幕府に降伏し、義満に恭順の意を示し、長兄の家督を継ごうと義満に接近した。
これに対し、盛見はもっぱら本国にあって兄義弘の留守を預かり、兄義弘の敗死後、兄の遺志を継ぐべく、義満への抵抗を燃やし続けた。
【写真左】益富城要図
説明が前後するが、登城したこの日益富城を見学できたのは、この図でいえば、右側上(東)から別曲輪を通り二の丸~本丸と向かい、北側の馬場跡のエリアのみである。
これ以外の北東部に残る出丸を中心とした城域には向かっていない(整備されていないと思われる)。
【写真左】二の丸
先ほどの堀切付近から10数メートル登ると二の丸が現れる。長径25m前後、短径10m前後で、この幅のまま本丸へとつながる。
筑前国深江の戦い
このため、義弘亡き後の大内氏家督騒動が、盛見と弟・弘茂との間でくりひろげられることになる。
弘茂が応永7年(1400)、周防・長門に戻ると、盛見は一旦豊後に下がり、翌8年に反撃に転じ、家督を相続した。そして、盛見に対抗する諸将も近隣にはおらず、幕府もそれを認め周防・長門の守護職を安堵した。この後、盛見は北九州にも進出し、豊後守護職も任命された。
応永32年(1425)九州探題であった渋川義俊が、少弐満資・菊池兼朝に敗れると、急ぎ九州に赴き、乱を平定し、義俊の従弟渋川満直を新たな九州探題とし、自らは筑前が幕府の御料所となるとその代官に任命された。
おそらく、このとき益富城は築かれたものと思われる。
【写真左】枡形虎口
二の丸と本丸の間に残る。
しかし、筑前国については少弐氏や大友氏が依然として支配力を堅持していたため、盛見は彼らとこの領地を巡って交戦を交えることになる。のちに、この戦いは、筑前国深江の戦いと呼ばれた。
永享3年(1431)、6月28日盛見はこの深江で討死した。享年55歳。
この戦いは、地元北九州の武将の他、石見国からは益田七尾城主の益田兼理も盛見の配下に属して戦い、盛見の後を追って翌29日討死した。そして、同年7月16日、足利義教は兼理の活躍を賞した(「萩閥7」)。
なお、筑前国深江というのは、現在の福岡県糸島市二丈深江で、おそらく当時は文字通り玄界灘から深く入った入江の地勢であったものと思われ、盛見側は当初、深江の東方福井方面に陣を構えていたという。こうしたことから、この戦いは陸上戦と船戦さの混在したものだったと思われる。
【写真上】二の丸付近の説明図
大分年数がたち汚れた説明板だが、主だった遺構として、次のものが挙げられている。
秋月氏
秋月氏については、「秋月城」(2010年3月5日投稿)でも少し触れているが、益富城から秋月街道(R322号線)を南下した朝倉市秋月の「古処山城」(H:860m)を本拠とし、建仁3年(1201)種雄を祖とし、16代・385年まで続いた名族である。
秀吉が益富城を攻略した際の顛末について、当地に「一夜城伝」というのが下段に示すように伝わっている。
なお、文中の「岩石城(がんじゃくじょう)」というのは、益富城から東方約20キロほど向かった田川郡添田町にある標高454mの山城で、『城郭放浪記』氏がすでに登城・公開されているのでご覧いただきたい。
【写真左】二の丸から本丸に向かう。
二の丸と本丸の間は少し高くなり、右に見える築山状のものは、櫓跡。
また、左の道奥に見える建物が、一夜城の倉庫のようだ。
築城者は大内盛見とされている。彼の父は弘世で、彼の子には長兄・義弘を頭に、満弘、弘正、盛見、弘茂、弘十道通と多くの男子がいた。盛見の兄・義弘は、応永の乱の首謀者である。
当時、室町幕府は、応永元年(1394)に第3代義満が将軍職を辞し、嫡男・義持に引き継いだ。そして本人は太政大臣となるもその翌年出家し、道義と号した。
義満については以前にも紹介したように、強大な力を誇示していた守護大名たちを巧みに利用したり、あるいは削ぎ落としたりしながら、京都室町においていわゆる「室町幕府」を確立した第3代足利将軍である。
【写真左】伐採された別曲輪
益富城の二の丸手前の東側に残る郭で、最近まで樹木が生い茂っていたようだ。
この付近を伐採すると、東側の駐車場から二の丸方面にむけて視界が良くなる。
大内盛見の兄・義弘は、南北朝後期九州探題今川了俊に属して、南朝方と戦い豊前守護職を与えられ、さらには明徳の乱においても活躍、和泉・紀伊の守護職も与えられた実力者だった。
こうした活躍の蓄積によって、最盛期には本国周防・長門に加え、石見を合わせると6か国の守護を数えるほどになった。
また、日本海に近い地の利を生かし、朝鮮との貿易で莫大な財力を蓄え、このことが次第に幕府から警戒されるようになる。義満は出家したのち、北山第(金閣寺)の造営を計画、諸大名にその費用と施工人の提供を求めた。これに対し、義弘は「武士の奉公にあらず」として拒否、こうしたこともあって次第に両者の溝は深まった。
【写真左】空堀
二の丸に向かう途中の南側に設置されたもので、竪堀形式のもの
応永6年(1399)10月28日、ついに大内義弘は鎌倉公方(関東管領)足利満兼と呼応し、倒幕の兵をあげた。
そして11月29日、幕府軍は大内義弘の拠った堺城を包囲、翌月21日には当城陥落し、義弘は討死した。
このとき、兄義弘に従っていた盛見の弟は、兄の敗死によって幕府に降伏し、義満に恭順の意を示し、長兄の家督を継ごうと義満に接近した。
これに対し、盛見はもっぱら本国にあって兄義弘の留守を預かり、兄義弘の敗死後、兄の遺志を継ぐべく、義満への抵抗を燃やし続けた。
【写真左】益富城要図
説明が前後するが、登城したこの日益富城を見学できたのは、この図でいえば、右側上(東)から別曲輪を通り二の丸~本丸と向かい、北側の馬場跡のエリアのみである。
これ以外の北東部に残る出丸を中心とした城域には向かっていない(整備されていないと思われる)。
【写真左】二の丸
先ほどの堀切付近から10数メートル登ると二の丸が現れる。長径25m前後、短径10m前後で、この幅のまま本丸へとつながる。
筑前国深江の戦い
このため、義弘亡き後の大内氏家督騒動が、盛見と弟・弘茂との間でくりひろげられることになる。
弘茂が応永7年(1400)、周防・長門に戻ると、盛見は一旦豊後に下がり、翌8年に反撃に転じ、家督を相続した。そして、盛見に対抗する諸将も近隣にはおらず、幕府もそれを認め周防・長門の守護職を安堵した。この後、盛見は北九州にも進出し、豊後守護職も任命された。
応永32年(1425)九州探題であった渋川義俊が、少弐満資・菊池兼朝に敗れると、急ぎ九州に赴き、乱を平定し、義俊の従弟渋川満直を新たな九州探題とし、自らは筑前が幕府の御料所となるとその代官に任命された。
おそらく、このとき益富城は築かれたものと思われる。
【写真左】枡形虎口
二の丸と本丸の間に残る。
しかし、筑前国については少弐氏や大友氏が依然として支配力を堅持していたため、盛見は彼らとこの領地を巡って交戦を交えることになる。のちに、この戦いは、筑前国深江の戦いと呼ばれた。
永享3年(1431)、6月28日盛見はこの深江で討死した。享年55歳。
この戦いは、地元北九州の武将の他、石見国からは益田七尾城主の益田兼理も盛見の配下に属して戦い、盛見の後を追って翌29日討死した。そして、同年7月16日、足利義教は兼理の活躍を賞した(「萩閥7」)。
なお、筑前国深江というのは、現在の福岡県糸島市二丈深江で、おそらく当時は文字通り玄界灘から深く入った入江の地勢であったものと思われ、盛見側は当初、深江の東方福井方面に陣を構えていたという。こうしたことから、この戦いは陸上戦と船戦さの混在したものだったと思われる。
大分年数がたち汚れた説明板だが、主だった遺構として、次のものが挙げられている。
- 枡形の虎口 後藤又兵衛・母里太兵衛時代のもの
- 白米流し跡 天正15年秀吉の攻略の際行われた。
- 横矢 後藤又兵衛・母里太兵衛時代、土塁を張出し、ここから矢を射かけた。
- 水の手曲輪 秋月時代、飲料水として使われた。
- 空堀・畝状竪堀 秋月時代
- 櫓跡 後藤又兵衛・母里太兵衛時代、二の丸で使われた。
秋月氏
秋月氏については、「秋月城」(2010年3月5日投稿)でも少し触れているが、益富城から秋月街道(R322号線)を南下した朝倉市秋月の「古処山城」(H:860m)を本拠とし、建仁3年(1201)種雄を祖とし、16代・385年まで続いた名族である。
秀吉が益富城を攻略した際の顛末について、当地に「一夜城伝」というのが下段に示すように伝わっている。
なお、文中の「岩石城(がんじゃくじょう)」というのは、益富城から東方約20キロほど向かった田川郡添田町にある標高454mの山城で、『城郭放浪記』氏がすでに登城・公開されているのでご覧いただきたい。
【写真左】二の丸から本丸に向かう。
二の丸と本丸の間は少し高くなり、右に見える築山状のものは、櫓跡。
また、左の道奥に見える建物が、一夜城の倉庫のようだ。
“一夜城伝
天正15年(1587)豊臣秀吉は、30万の軍勢とともに小倉城に入り、4月1日には、秋月攻略の火蓋が切られた。秋月二十四城の一つ豊前の岩石城を1日で陥落させた豊臣の軍勢は、怒涛のごとく大隅の町に押し寄せた。
【写真左】一夜城倉庫
建物はほぼ完成しているようだが、外構工事がこれからというところか。
岩石城の落城の知らせを受けた秋月種実は、種長の守る古処山本城へといち早く逃れた。秀吉は、まず嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせた。
次に、大隅町民に命じて、町中の戸や障子を益富城へと運ばせ、一夜にして仮城を築いた。その光景を前にした秋月父子は、恐れおののき、戦わずして降伏した。
次に、大隅町民に命じて、町中の戸や障子を益富城へと運ばせ、一夜にして仮城を築いた。その光景を前にした秋月父子は、恐れおののき、戦わずして降伏した。
秀吉は、協力した大隅町民に対し、愛用の陣羽織と佩刀(はいとう)を与え、お墨付きをもって永代貢税を免除した”
【写真左】本丸付近から西麓を見る
眺望は西側の一部のみが俯瞰できる。この谷の中央を流れるのは遠賀川で、奥の山並みを超えると飯塚市方面につながる。
【写真左】土塁
本丸付近に残る土塁で、両側にほぼ構築されている。
【写真左】建物礎石群
本丸跡に残るもので、おそらくこの場所に天守があったものと思われる。
【写真左】旗立石
本丸の近くにあった石で、ご覧の通り穴が残っている。
【写真左】櫓跡
本丸を過ぎた地点に残っている。
【写真左】畝状竪堀群
本丸を過ぎ北端部から降ると、北側に連続して残るもので、深さもかなりあるようだ。
【写真左】馬屋跡
先ほどの畝状竪堀群を過ぎると、4,5段の腰曲輪が続き、最後にこの馬屋跡がある。
半円形の形をなし、周囲は土塁のような囲繞遺構が残る。
【写真左】本丸付近から西麓を見る
眺望は西側の一部のみが俯瞰できる。この谷の中央を流れるのは遠賀川で、奥の山並みを超えると飯塚市方面につながる。
【写真左】土塁
本丸付近に残る土塁で、両側にほぼ構築されている。
【写真左】建物礎石群
本丸跡に残るもので、おそらくこの場所に天守があったものと思われる。
【写真左】旗立石
本丸の近くにあった石で、ご覧の通り穴が残っている。
【写真左】櫓跡
本丸を過ぎた地点に残っている。
【写真左】畝状竪堀群
本丸を過ぎ北端部から降ると、北側に連続して残るもので、深さもかなりあるようだ。
【写真左】馬屋跡
先ほどの畝状竪堀群を過ぎると、4,5段の腰曲輪が続き、最後にこの馬屋跡がある。
半円形の形をなし、周囲は土塁のような囲繞遺構が残る。
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