伝・佐々木伊予守古墓(でん・ささきいよのかみこぼ)
●所在地 島根県松江市玉湯町玉造新弥堂●遺構 宝篋印塔
●遺物 土師器・陶磁器
●探訪日 2011年12月16日
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)で触れた、湯氏の一人・出雲国守護代佐々木伊予守秀貞の墓である。
【写真左】佐々木伊予守古墓(四坊跡)全景
玉造温泉街の南方にあって、この位置から東に玉造要害山城を望む位置にあたる。
写真の階段を上がるとすぐ右側の樹木の裏に建立されている。
なお、階段の左側の道を進むと、頼清寺方面につながる。
現地の説明板より
“伝 佐々木伊予守古墓
この宝篋印塔は、佐々木伊予守秀貞の墓と伝えられる。
秀貞は、南北朝時代の有力武士で、出雲国守護代を務めるなど、出雲における佐々木一門の中心として活躍した。
秀貞と当地のかかわりは、14世紀中ごろ、湯庄地頭になったことに始まる。
寛政3年(1791)、松浦清蔵が塔側に建てた碑文によると、秀貞は玉造に四坊を建立し、玉造要害山城に居城したという。
この墓所に接する新弥堂もその四坊の一つで、上大門、下大門の2門があったという。今も屋号や地名になごりをとどめている。
昭和56年3月
玉湯町教育委員会”
【写真左】佐々木伊予守古墓
宝篋印塔の形式としているが、上部が相輪となっていないので、後につけられたものだろう。
高さは約1.5m弱程度か。
所在地は、玉造要害山城の近くで、玉湯川を挟んだ西岸にある旅館「山の井」からさらに100mほど向かった丘にある。
参考までに、上掲した寛政3年の松浦清蔵の碑文も転載しておく。
“伝 佐々木伊予守墓側の碑文
佐々木伊予守の墓と伝えられる宝篋印塔の前に、来待石製の円柱があり、かつては次のように記された碑文が判読できた。
〝客、温泉之西に佐々木某公之墓有りと聞き、往きて之を求むれば果たして古塚の異形なるを見る。乃ち香を焚き苔を剥げば、延慶3年2月22日の十字を模(さぐ)り得たり。回暦(こよみ)により之を推すに、今を距(さ)る482年、正に鎌倉将軍惟康親王之時に當れり、里人云ふ、是れ故(もと)の忌部郷主・伊予候佐々木公之墓也。
【写真左】円柱
この石柱に松浦清蔵が記していたというから、相当小さな文字で刻まれていたと考えられる。
相傳ふ公豫(かね)て葬地を卜(ぼく)して伽藍を造り、名づけて新弥堂と曰ふ。堂は二門あり、其の右は上大門と為す。公之由る所なり。其の左は下大門と為す。衆庶共に由る。
塚の東南は両山相連なる。公之所城也。其の頂広く平にして、中は城を為す。其の南較(やや)高きは高支城と号す。
且つ公之営む所の仏刹四つ有り。曰く東坊、曰く興勝寺。曰く烏坊。皆東北に在り。而して新弥堂は、特に玉造川の西に在り。乳母谷有り。城の東北に在り。是れ公の乳母に賜る所の地也。東の突然城に対する者は花仙山也。城の鬼門なる為、薬王堂を構ふ。
今移して温泉の上に在る者是れ也。土人之れに祈り、数(しばしば)霊験有り。又城の西に故祠有り。是れ湯山主命なり。公世々之を尊信して嘗て献ずる所の陣鼓今尚存す。客慨然として望み、躊躇して入ること之を久くす。因りて一片の石を建てて、里人の説く所を識(しる)す。
寛政3年亥秋9月
願主 松浦 清蔵″
【写真左】新弥堂
古墓の左隣に建てられている。
もちろん当時のものではなく、近代に改修されたものである。
【写真左】古墓の残骸?
新弥堂からさらに上の方へ向かうと、数基の墓石があるが、これらは現代のものである。ただ、写真にみえるように、脇には五輪塔もしくは宝篋印塔の残骸のようなものが積み上げられていた。
【写真左】もう一つの宝篋印塔
佐々木伊予守古墓から北の壇にあったもので、規模はやや小ぶりながら、他の仏像と並んで鎮座している。
【写真左】佐々木伊予守古墓から玉造要害山城を見る。
手前右側の玉造ふれあい公園の斜面があるため、全景は見えないが、主郭の一部がかろうじて見える。
【写真左】高支城遠望
玉造要害山城の南方300mほどのところにある山城で、玉造要害山城の支城といわれている。
なお、この俯瞰位置は先述した「玉造ふれあい公園」という所だが、この場所も当初玉湯川を挟んだ支城ではなかったと思われるが、公園造成によって大幅に改変されているため、まったく不明である。
●遺物 土師器・陶磁器
●探訪日 2011年12月16日
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)で触れた、湯氏の一人・出雲国守護代佐々木伊予守秀貞の墓である。
【写真左】佐々木伊予守古墓(四坊跡)全景
玉造温泉街の南方にあって、この位置から東に玉造要害山城を望む位置にあたる。
写真の階段を上がるとすぐ右側の樹木の裏に建立されている。
なお、階段の左側の道を進むと、頼清寺方面につながる。
現地の説明板より
“伝 佐々木伊予守古墓
この宝篋印塔は、佐々木伊予守秀貞の墓と伝えられる。
秀貞は、南北朝時代の有力武士で、出雲国守護代を務めるなど、出雲における佐々木一門の中心として活躍した。
秀貞と当地のかかわりは、14世紀中ごろ、湯庄地頭になったことに始まる。
寛政3年(1791)、松浦清蔵が塔側に建てた碑文によると、秀貞は玉造に四坊を建立し、玉造要害山城に居城したという。
この墓所に接する新弥堂もその四坊の一つで、上大門、下大門の2門があったという。今も屋号や地名になごりをとどめている。
昭和56年3月
玉湯町教育委員会”
【写真左】佐々木伊予守古墓
宝篋印塔の形式としているが、上部が相輪となっていないので、後につけられたものだろう。
高さは約1.5m弱程度か。
所在地は、玉造要害山城の近くで、玉湯川を挟んだ西岸にある旅館「山の井」からさらに100mほど向かった丘にある。
参考までに、上掲した寛政3年の松浦清蔵の碑文も転載しておく。
“伝 佐々木伊予守墓側の碑文
佐々木伊予守の墓と伝えられる宝篋印塔の前に、来待石製の円柱があり、かつては次のように記された碑文が判読できた。
〝客、温泉之西に佐々木某公之墓有りと聞き、往きて之を求むれば果たして古塚の異形なるを見る。乃ち香を焚き苔を剥げば、延慶3年2月22日の十字を模(さぐ)り得たり。回暦(こよみ)により之を推すに、今を距(さ)る482年、正に鎌倉将軍惟康親王之時に當れり、里人云ふ、是れ故(もと)の忌部郷主・伊予候佐々木公之墓也。
【写真左】円柱
この石柱に松浦清蔵が記していたというから、相当小さな文字で刻まれていたと考えられる。
相傳ふ公豫(かね)て葬地を卜(ぼく)して伽藍を造り、名づけて新弥堂と曰ふ。堂は二門あり、其の右は上大門と為す。公之由る所なり。其の左は下大門と為す。衆庶共に由る。
塚の東南は両山相連なる。公之所城也。其の頂広く平にして、中は城を為す。其の南較(やや)高きは高支城と号す。
且つ公之営む所の仏刹四つ有り。曰く東坊、曰く興勝寺。曰く烏坊。皆東北に在り。而して新弥堂は、特に玉造川の西に在り。乳母谷有り。城の東北に在り。是れ公の乳母に賜る所の地也。東の突然城に対する者は花仙山也。城の鬼門なる為、薬王堂を構ふ。
今移して温泉の上に在る者是れ也。土人之れに祈り、数(しばしば)霊験有り。又城の西に故祠有り。是れ湯山主命なり。公世々之を尊信して嘗て献ずる所の陣鼓今尚存す。客慨然として望み、躊躇して入ること之を久くす。因りて一片の石を建てて、里人の説く所を識(しる)す。
寛政3年亥秋9月
願主 松浦 清蔵″
【写真左】新弥堂
古墓の左隣に建てられている。
もちろん当時のものではなく、近代に改修されたものである。
【写真左】古墓の残骸?
新弥堂からさらに上の方へ向かうと、数基の墓石があるが、これらは現代のものである。ただ、写真にみえるように、脇には五輪塔もしくは宝篋印塔の残骸のようなものが積み上げられていた。
【写真左】もう一つの宝篋印塔
佐々木伊予守古墓から北の壇にあったもので、規模はやや小ぶりながら、他の仏像と並んで鎮座している。
【写真左】佐々木伊予守古墓から玉造要害山城を見る。
手前右側の玉造ふれあい公園の斜面があるため、全景は見えないが、主郭の一部がかろうじて見える。
【写真左】高支城遠望
玉造要害山城の南方300mほどのところにある山城で、玉造要害山城の支城といわれている。
なお、この俯瞰位置は先述した「玉造ふれあい公園」という所だが、この場所も当初玉湯川を挟んだ支城ではなかったと思われるが、公園造成によって大幅に改変されているため、まったく不明である。
0 件のコメント:
コメントを投稿