玉造要害山城(たまつくりようがいさんじょう)
●所在地 島根県松江市玉湯町玉造宮の上
●別名 湯ノ城跡、玉造城跡、湯ヶ城跡
●築城期 南北朝時代
●築城者 湯伊予守秀貞
●高さ 108m(比高80m)
●遺構 郭・土塁・空堀・井戸・石垣・竪堀・虎口・櫓台等
●登城日 2011年2月22日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
所在地である出雲国の玉造は、昔から温泉と青メノウの産地として知られた場所である。近くには、古代玉つくり集団の住居跡があったといわれる国指定の集落跡(約3万㎡)も公園として整備されている。
【写真左】玉造要害山城遠望
玉湯川を挟んで西方にある玉造ふれあい公園から見たもの。
現地の説明板より
“玉造要害山城(玉湯町玉造)
中世の山城、湯ノ城ともいう。標高108mの半独立丘陵で、山頂及び山腹に削平地が数段にわたって残り、土塁・空堀・井戸跡なども見られる。
小規模だが保存は良好である。
この城は、元弘2年(1332)ごろ、湯庄留守職諏訪部扶重が最初に築いたといわれ、同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修・増築したとされている。
その後は、湯庄支配の本拠地として、湯氏代々が居城したと思われるが、詳細は不明である。
天文11年(1542)には、湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。
昭和57年1月 玉湯町教育委員会”
【写真左】配置図
現地に設置されたもので、西側の玉作神社側から入って、南南東に林道が続き、途中から東に向かって登城道が続く。
最初に「三ノ平」があり、そのまま東に「四ノ平」が続き、南方に向かうと土塁を介して、「二ノ平」が東西に延び、さらに上に向かうと「一の平」があり、南側には土塁状の「詰ノ平」などが配置されている。
源頼朝が平氏を滅ぼし、文治元年(1185)の11月29日、義経追討を名目とした「守護・地頭」を全国に設置したことは周知の通りだが、この年、出雲・隠岐国ではその守護として佐々木義清が補任された。ただ、史料によっては安達親長が建久年間(1190~99)にその任にあったとするものもある。
義清には長男・政義、二男・泰清の二人の男子がいた。本来ならば長男・政義が跡を継ぐべきだったが、彼は天福元年(1233)の守護職としての記録を最後に、無断で出家したため、代わって弟の泰清が引き継ぐことになる。
三ノ平から少し上ると東西に土塁で囲まれた小郭があり、ここから一気に二ノ平に向かって急勾配のみごとな切崖が控える。
高さはおよそ10m前後はあるだろう。
九男・義信は古志氏(その1)浄土寺山城(島根県出雲市下古志町)でも紹介したように、建長7年(1255)ごろ、神門郡古志郷の地頭に任じられ、浄土寺山城を築き、名を古志九郎左衛門と改め、古志氏の始祖となった。
さて、この中の七男・頼清、すなわち佐々木七郎左衛門は、玉造要害山城を中心とした湯荘に入り、地頭職・湯氏の始祖となる。
時期は不明だが、弟の九男・義信が建長7年(1255)ごろ、古志氏の始祖となっていることを考えると、その時期より前と考えられ、宝治~建長年間のころと思われる。
【写真左】横矢付近
二ノ平の東端部にある郭で、東方からの敵を意識している箇所である。
左の高くなったところが、「やぐら台」となる。
頼清が当地に入部した際の領地は、拝志(はやし)・湯の二郷とされている。湯の郷は、現在の温泉街が立ち並ぶ地区で、拝志というのは、現在の玉湯町林から西に向かった大谷・宍道町上来待あたりまでとされている。
湯氏の始祖となった頼清については、現在の松江市玉湯町林に頼清寺(島根県松江市玉湯町林村本郷)という寺が残っているが、この寺院は、頼清の子孫が彼を菩提するために建治元年(1275)に創建されたといわれている。
このことからすると、頼清はこの年に亡くなっている可能性があり、父・泰清はまだ存命中なので、創建にかかわったのは、子孫はもちろんだが、父親である泰清自身が菩提供養の主催者であった可能性もある。
【写真左】やぐら台から横矢を見下ろす。
横矢とやぐら台の高低差は約4m前後だが、意外と登りにくい構造となっている。
おそらく、当時はこの横矢から東北部に向かって尾根伝いに視界が開け、途中には堀切などが構築されていたのかもしれない。
南北朝期
さて、南北朝期になると、頼清の同母兄冨田義泰の孫・伊予守秀貞が湯荘に入った(『日本城郭体系第14巻』(以下「14巻」とする。)。
義泰は前掲した泰清の四男で、冨田四郎左衛門である。伊予守秀貞が入ったのは、おそらく湯荘を領地した頼泰の死去後、湯氏の継嗣が順調にいかなかったためと思われ、同族の秀貞が選ばれたのだろう。
【写真左】一ノ平
長径20m、短径10m前後の変形の四角い郭で、事実上の主郭となる場所である。
さて、ここで、玉造要害山城の築城者の問題ともかかわることなるが、「14巻」では、
“この城は、富士名義綱が後醍醐帝について隠岐にあるとき、湯荘留守職諏訪部扶重が謀反を企てた際に築かれた城で、この騒乱に焼失したといわれる。しかし、秀貞は焼失後、城の規模を改め、補強再築したのである。”
とある。
このことから、玉造要害山城は諏訪部扶重が築城したということになるが、後段に示すように、不可解な点が見える。
【写真左】詰ノ平
一ノ平の南方に続く箇所で、遺構としては土塁形状のものだが、全体になだらかな高まりとなっている。
諏訪部扶重
説明板にある諏訪部扶重については、越前(福井県)の金ヶ崎城でも少し触れているが、本拠地は現在の雲南市にあった三刀屋じゃ山城である。
当稿でも述べているように、扶重については、後醍醐天皇が伯耆船上山に拠った時、他の出雲国人のように本人は馳せ参じていない。諏訪部一族で当山に向かったのは、三刀屋伊萱村に本拠を置く諏訪部弥三郎入道円教、及び彦五郎重信兄弟らである。
【写真左】井戸跡
一ノ平の南側は切崖となっているが、ここから少し降りると、井戸跡がある。
直径2m弱のもので、当城の井戸としては唯一のもの。
そうした背景もあってか、「14巻」でも、「富士名義綱が後醍醐帝について、隠岐にあるとき、湯庄留守職諏訪部扶重が、謀反を企てたさいに築かれた城…」と記されている。
この場合、謀反と記されているが、隠岐にあった義綱は当初後醍醐天皇の監視・警固であって、途中から天皇の隠岐脱出の協力者となるため、湯庄留守職であった諏訪部扶重は幕府方の職責を果たすべく当城にあったわけだから、この流れから言えば(北条執権側から見て)、あながち「謀反」とはいえないだろう。
【写真左】空堀
井戸跡を抜けると、ご覧の空堀(切通し)が残る。
写真右にさらに上ると「伝湯佐渡守古墓」といわれる墓がある。
そこで、築城者が誰であったのかという点だが、扶重が玉造要害山城を築いたとすると、では、伊予守秀貞が居城していたのはどこになるか、またそれ以前の湯氏始祖であった頼清の時代、どこを本拠城としていたかという疑問点も出てくる。
扶重はあくまでも湯荘の留守職であり、本拠は三刀屋の「じゃ山城」であったはずである。
そしてもっとも不可解な点は、湯荘に本拠をおいていたであろう、伊予守秀貞自身が、後醍醐天皇の隠岐配流中にどこにいたのか、ということであろう。仮に、この時期伊予守秀貞が未だ湯荘に赴いておらず、冨田にあったとすれば、湯荘を治めていた人物がいたはずであるが、この点が明らかでない。
【写真左】伝湯佐渡守古墓
古墓が建立されている箇所も非常に高い土塁(あるいは櫓か)遺構で、南方の攻めに対処していると思われる。
湯佐渡守家綱(後段参照)のものといわれている。
富士名義綱と塩冶高貞
富士名義綱、即ち佐々木義綱は、名和長年(6)富士名判官義綱古墓でも紹介したように、当時玉造要害山城の東方にある「布志名(ふじな)郷」の地頭で、塩冶高貞」とはマタ従弟に当たる。
当時、出雲国の守護所は塩冶にあり、守護職は塩冶氏の始祖佐々木(塩冶)頼泰の孫にあたる高貞が父・貞清から受け継いで間もないころであった。
前述したように、隠岐にいた目的は、当初幕府からの命によって、後醍醐天皇の監視・警固の任のためであったが、途中から天皇の隠岐脱出のために協力することになる。義綱がこうした行動を起こし、守護職・高貞にもその支援を促していったのは周知の通りである。
【写真左】玉作湯神社
玉造要害山城の登城口付近に祀られている古社で、櫛明玉命を祀る。
当社には、いつの城主かわからないが、佐々木氏の陣太鼓があるという。
最近では、パワースポットとして有名になり、若い女性が多く訪れているという。
戦国期
説明板にもあるように、戦国期における当城の記録はあまり残っていない。
天文11年(1542)に湯佐渡守家綱の名が見え、彼の墓とされているものが当城に残っている。
天文11年は、山口の大内義隆が出雲国攻略を開始し、頓原の赤穴城を攻め、北進後翌12年正月に月山冨田城を攻めた時期である。義隆の進軍ルートを考えれば、当然玉造要害山城もその目標とされたと考えられる。
【写真左】北側から見た玉造要害山城
現在は周辺部が大分改変されているが、西側を流れる玉湯川とは別に、北側にも支流の小川が流れているので、当時これらが水堀の役目を成していたのだろう。
●所在地 島根県松江市玉湯町玉造宮の上
●別名 湯ノ城跡、玉造城跡、湯ヶ城跡
●築城期 南北朝時代
●築城者 湯伊予守秀貞
●高さ 108m(比高80m)
●遺構 郭・土塁・空堀・井戸・石垣・竪堀・虎口・櫓台等
●登城日 2011年2月22日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
所在地である出雲国の玉造は、昔から温泉と青メノウの産地として知られた場所である。近くには、古代玉つくり集団の住居跡があったといわれる国指定の集落跡(約3万㎡)も公園として整備されている。
【写真左】玉造要害山城遠望
玉湯川を挟んで西方にある玉造ふれあい公園から見たもの。
現地の説明板より
“玉造要害山城(玉湯町玉造)
中世の山城、湯ノ城ともいう。標高108mの半独立丘陵で、山頂及び山腹に削平地が数段にわたって残り、土塁・空堀・井戸跡なども見られる。
小規模だが保存は良好である。
この城は、元弘2年(1332)ごろ、湯庄留守職諏訪部扶重が最初に築いたといわれ、同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修・増築したとされている。
その後は、湯庄支配の本拠地として、湯氏代々が居城したと思われるが、詳細は不明である。
天文11年(1542)には、湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。
昭和57年1月 玉湯町教育委員会”
現地に設置されたもので、西側の玉作神社側から入って、南南東に林道が続き、途中から東に向かって登城道が続く。
最初に「三ノ平」があり、そのまま東に「四ノ平」が続き、南方に向かうと土塁を介して、「二ノ平」が東西に延び、さらに上に向かうと「一の平」があり、南側には土塁状の「詰ノ平」などが配置されている。
鎌倉期の出雲国守護
源頼朝が平氏を滅ぼし、文治元年(1185)の11月29日、義経追討を名目とした「守護・地頭」を全国に設置したことは周知の通りだが、この年、出雲・隠岐国ではその守護として佐々木義清が補任された。ただ、史料によっては安達親長が建久年間(1190~99)にその任にあったとするものもある。
義清には長男・政義、二男・泰清の二人の男子がいた。本来ならば長男・政義が跡を継ぐべきだったが、彼は天福元年(1233)の守護職としての記録を最後に、無断で出家したため、代わって弟の泰清が引き継ぐことになる。
守護職(守)の任にあった泰清の記録が最後に見えるのは、建治2年(1276)で、この年の9月5日、僧慈蓮(じれん)に、美多荘大山社禰宜職を安堵する(『笠置文書)、というのがあり、その2年後の弘安元年(1278)に死去している。
そして、弘安6年(1283)になると、守護・佐々木頼泰(泰清の三男)が、故・泰清の遺志により、鰐淵寺三重塔造営のため30貫文と銀塔一基を布施している(『鰐淵寺文書』)。このことから、泰清の出雲国守護職の在任期間は、兄政義から引き継いだ時期を始点とすると、約45年という長いものとなる。
泰清がこれだけ長く在任できたのは、その資質・能力もさることながら、やはり身体が丈夫であったことが最大の理由だろう。
このためか、下段に示すように彼には男11人、女3人、計14名もの子があった(出典:ウィキペディア等)。
このためか、下段に示すように彼には男11人、女3人、計14名もの子があった(出典:ウィキペディア等)。
- 長男・義重 隠岐左衛門尉
- 二男・時清 隠岐二郎左衛門
- 三男・頼泰 塩冶三郎左衛門(塩冶氏始祖)
- 四男・義泰 冨田四郎左衛門
- 五男・茂清 佐々木五郎左衛門
- 六男・基顕 後藤六郎左衛門
- 七男・頼清 佐々木七郎左衛門(湯氏始祖)
- 八男・宗泰 高岡八郎左衛門(高岡氏始祖)
- 九男・義信 古志九郎左衛門(古志氏始祖)
- 十男・清村 駒崎十郎左衛門
- 十一男・清賀 因幡堅者
- 女子3人(省略)
三ノ平から少し上ると東西に土塁で囲まれた小郭があり、ここから一気に二ノ平に向かって急勾配のみごとな切崖が控える。
高さはおよそ10m前後はあるだろう。
長男・義重と、二男・時清はそれぞれ隠岐左衛門尉、隠岐二郎左衛門と名乗っているところからすると、父の隠岐守護職を引き継ぎ、三男・頼泰は、神門郡塩冶郷へ入り、塩冶三郎左衛門と号し、塩冶氏の始祖となった。
また四男・義泰は祖父義清が築いた広瀬の月山冨田城の冨田荘に入り、冨田四郎左衛門と名乗った。
また四男・義泰は祖父義清が築いた広瀬の月山冨田城の冨田荘に入り、冨田四郎左衛門と名乗った。
以下、五男・茂清は佐々木五郎左衛門、六男・基顕は後藤六郎左衛門となり、七男・頼清は佐々木七郎左衛門と名乗った。頼清については後ほど述べる。
八男・宗泰は、三男・頼泰(塩冶三郎左衛門)の塩冶郷の一部である北方の高岡邑へ入り、高岡八郎左衛門と名乗り、高岡氏の始祖となった。
九男・義信は古志氏(その1)浄土寺山城(島根県出雲市下古志町)でも紹介したように、建長7年(1255)ごろ、神門郡古志郷の地頭に任じられ、浄土寺山城を築き、名を古志九郎左衛門と改め、古志氏の始祖となった。
十男・清村は駒崎十郎左衛門、十一男・清賀は因幡堅者とされているが、詳細は不明である。
【写真左】二ノ平・その2
東方へ約30m近く伸びている。
一ノ平(左側)の防御の最終地点でもあることから、特に末端まで整備されたものだろう。
なお、一ノ平の東から南面にかけては、天然の要害となる険峻な崖があるため、郭段はない。
東方へ約30m近く伸びている。
一ノ平(左側)の防御の最終地点でもあることから、特に末端まで整備されたものだろう。
なお、一ノ平の東から南面にかけては、天然の要害となる険峻な崖があるため、郭段はない。
湯氏始祖・佐々木頼清(七郎左衛門)
さて、この中の七男・頼清、すなわち佐々木七郎左衛門は、玉造要害山城を中心とした湯荘に入り、地頭職・湯氏の始祖となる。
時期は不明だが、弟の九男・義信が建長7年(1255)ごろ、古志氏の始祖となっていることを考えると、その時期より前と考えられ、宝治~建長年間のころと思われる。
【写真左】横矢付近
二ノ平の東端部にある郭で、東方からの敵を意識している箇所である。
左の高くなったところが、「やぐら台」となる。
頼清が当地に入部した際の領地は、拝志(はやし)・湯の二郷とされている。湯の郷は、現在の温泉街が立ち並ぶ地区で、拝志というのは、現在の玉湯町林から西に向かった大谷・宍道町上来待あたりまでとされている。
湯氏の始祖となった頼清については、現在の松江市玉湯町林に頼清寺(島根県松江市玉湯町林村本郷)という寺が残っているが、この寺院は、頼清の子孫が彼を菩提するために建治元年(1275)に創建されたといわれている。
このことからすると、頼清はこの年に亡くなっている可能性があり、父・泰清はまだ存命中なので、創建にかかわったのは、子孫はもちろんだが、父親である泰清自身が菩提供養の主催者であった可能性もある。
横矢とやぐら台の高低差は約4m前後だが、意外と登りにくい構造となっている。
おそらく、当時はこの横矢から東北部に向かって尾根伝いに視界が開け、途中には堀切などが構築されていたのかもしれない。
南北朝期
さて、南北朝期になると、頼清の同母兄冨田義泰の孫・伊予守秀貞が湯荘に入った(『日本城郭体系第14巻』(以下「14巻」とする。)。
義泰は前掲した泰清の四男で、冨田四郎左衛門である。伊予守秀貞が入ったのは、おそらく湯荘を領地した頼泰の死去後、湯氏の継嗣が順調にいかなかったためと思われ、同族の秀貞が選ばれたのだろう。
【写真左】一ノ平
長径20m、短径10m前後の変形の四角い郭で、事実上の主郭となる場所である。
さて、ここで、玉造要害山城の築城者の問題ともかかわることなるが、「14巻」では、
“この城は、富士名義綱が後醍醐帝について隠岐にあるとき、湯荘留守職諏訪部扶重が謀反を企てた際に築かれた城で、この騒乱に焼失したといわれる。しかし、秀貞は焼失後、城の規模を改め、補強再築したのである。”
とある。
このことから、玉造要害山城は諏訪部扶重が築城したということになるが、後段に示すように、不可解な点が見える。
【写真左】詰ノ平
一ノ平の南方に続く箇所で、遺構としては土塁形状のものだが、全体になだらかな高まりとなっている。
諏訪部扶重
説明板にある諏訪部扶重については、越前(福井県)の金ヶ崎城でも少し触れているが、本拠地は現在の雲南市にあった三刀屋じゃ山城である。
当稿でも述べているように、扶重については、後醍醐天皇が伯耆船上山に拠った時、他の出雲国人のように本人は馳せ参じていない。諏訪部一族で当山に向かったのは、三刀屋伊萱村に本拠を置く諏訪部弥三郎入道円教、及び彦五郎重信兄弟らである。
【写真左】井戸跡
一ノ平の南側は切崖となっているが、ここから少し降りると、井戸跡がある。
直径2m弱のもので、当城の井戸としては唯一のもの。
そうした背景もあってか、「14巻」でも、「富士名義綱が後醍醐帝について、隠岐にあるとき、湯庄留守職諏訪部扶重が、謀反を企てたさいに築かれた城…」と記されている。
この場合、謀反と記されているが、隠岐にあった義綱は当初後醍醐天皇の監視・警固であって、途中から天皇の隠岐脱出の協力者となるため、湯庄留守職であった諏訪部扶重は幕府方の職責を果たすべく当城にあったわけだから、この流れから言えば(北条執権側から見て)、あながち「謀反」とはいえないだろう。
【写真左】空堀
井戸跡を抜けると、ご覧の空堀(切通し)が残る。
写真右にさらに上ると「伝湯佐渡守古墓」といわれる墓がある。
そこで、築城者が誰であったのかという点だが、扶重が玉造要害山城を築いたとすると、では、伊予守秀貞が居城していたのはどこになるか、またそれ以前の湯氏始祖であった頼清の時代、どこを本拠城としていたかという疑問点も出てくる。
扶重はあくまでも湯荘の留守職であり、本拠は三刀屋の「じゃ山城」であったはずである。
そしてもっとも不可解な点は、湯荘に本拠をおいていたであろう、伊予守秀貞自身が、後醍醐天皇の隠岐配流中にどこにいたのか、ということであろう。仮に、この時期伊予守秀貞が未だ湯荘に赴いておらず、冨田にあったとすれば、湯荘を治めていた人物がいたはずであるが、この点が明らかでない。
【写真左】伝湯佐渡守古墓
古墓が建立されている箇所も非常に高い土塁(あるいは櫓か)遺構で、南方の攻めに対処していると思われる。
湯佐渡守家綱(後段参照)のものといわれている。
富士名義綱と塩冶高貞
富士名義綱、即ち佐々木義綱は、名和長年(6)富士名判官義綱古墓でも紹介したように、当時玉造要害山城の東方にある「布志名(ふじな)郷」の地頭で、塩冶高貞」とはマタ従弟に当たる。
当時、出雲国の守護所は塩冶にあり、守護職は塩冶氏の始祖佐々木(塩冶)頼泰の孫にあたる高貞が父・貞清から受け継いで間もないころであった。
前述したように、隠岐にいた目的は、当初幕府からの命によって、後醍醐天皇の監視・警固の任のためであったが、途中から天皇の隠岐脱出のために協力することになる。義綱がこうした行動を起こし、守護職・高貞にもその支援を促していったのは周知の通りである。
【写真左】玉作湯神社
玉造要害山城の登城口付近に祀られている古社で、櫛明玉命を祀る。
当社には、いつの城主かわからないが、佐々木氏の陣太鼓があるという。
最近では、パワースポットとして有名になり、若い女性が多く訪れているという。
戦国期
説明板にもあるように、戦国期における当城の記録はあまり残っていない。
天文11年(1542)に湯佐渡守家綱の名が見え、彼の墓とされているものが当城に残っている。
天文11年は、山口の大内義隆が出雲国攻略を開始し、頓原の赤穴城を攻め、北進後翌12年正月に月山冨田城を攻めた時期である。義隆の進軍ルートを考えれば、当然玉造要害山城もその目標とされたと考えられる。
【写真左】北側から見た玉造要害山城
現在は周辺部が大分改変されているが、西側を流れる玉湯川とは別に、北側にも支流の小川が流れているので、当時これらが水堀の役目を成していたのだろう。
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