海老山城(えびやまじょう)
●所在地 島根県松江市 鹿島町 名分 七日市
●別名 恵美山城
●築城期 不明
●築城者 新田(仁田)右馬頭
●落城 永正17年(1520)
●高さ 標高86m
●遺構 土塁・井戸・堀切7・郭
●登城日 2010年2月5日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』「佐太神社HP」等)
島根県の旧鹿島町と松江市の境にそびえる恵美山に築かれた山城で、小規模ながら堀切に見るべきものがある。
【写真左】海老山城遠望
北麓の講武付近から見たもので、写真右に向かうと佐太神社・芦山城方面へ向かう。
現地の説明板より
“海老山城(恵美山城)
海老山城主新田右馬頭守は、永正17年(1520)に佐太神社神主でもあった佐太宮内蘆山城主・朝山越前守綱忠と佐太神領を侵したとして争いになり、新田氏は討ち滅ばされました。
海老山城跡は、標高70mの山頂にあり、山頂部は削平され平坦地で、井戸跡もあります。尾根には6か所の堀切があり、堅固な城構えです。
海老山城の落城した5月20日に山に入ると、鯨波(ときのこえ)や、轡(くつわ)の音、黄金の鶏の鳴き声がし、その声を聞いた者は不幸が来ると恐れられ、誰もその日には入るものはいなかったという。今でもこの周りの人たちはこの言い伝えを守っています。
生馬公民館
平成10年9月吉日”
【写真左】登山道入り口
松江市から鹿島町へ向かう県道37号線の上佐陀町付近で右に枝分かれする道があり、ここを少し進むとご覧の看板が見える。
説明板にある佐太宮内の蘆山城とは、海老山城の西麓を流れる佐陀川を挟んで北北西にあった「芦山城」ではないかとされている。
この城は、宝徳2年(1450)、朝山越前守貞昌が築城したとされているので、永正年間に海老山城を攻めた越前守綱忠は、その孫あたりになるのだろう。
【写真左】蘆山城(芦山城)遠望
北東側から見たもので、手前の川が佐陀川。
中央の山(海地呂山)に築かれた山城で、遺構としては郭が残っているというが、管理人は未だ登城していない(登城道はないかもしれない)。
なお、この川の左側を進むと、佐太神社や海老山城に達するが、そのまま川を進むと宍道湖につながる。逆に右に向かうと日本海へ出る。
江戸時代の天明5年(1785)、清原太兵衛がこの佐陀川の開削工事を開始し、宍道湖と北の日本海を運河でつないだ。
【写真左】登城道
先ほどの登山道入口から進むと、神社(加茂志神社だったと思う)があり、その脇を通って登っていく。
踏み跡が結構あったので、迷うことはない。
佐太神社
佐太神社は出雲国でも出雲杵築大社・熊野大社と並び、「出雲国三大大社」の一つとされた古い歴史を持つ社である。
神主とされる朝山氏については、以前取り上げた旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)・姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)、及び平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも紹介したように、南北朝期から室町初期のころ、出雲国の国衙在庁官人兼社家奉行の任にあったとされ、京極高詮が出雲守護職を得たころ、同氏の一部(出雲朝山郷を支配していた人物)は室町幕府の奉公衆として京都に上ったとされる。
【写真左】佐太神社
海老山城の西を流れる佐陀川を挟んで西岸に鎮座する。
由緒より、
“出雲国風土記に、佐太大神社或いは佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造りの本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。…”
そして、出雲国に残った朝山氏のうち、宝徳年間に越前守貞昌が、支配地の中心を現在の宍道湖北岸にある佐陀神社近辺に定めていったものと思われる。
【写真左】堀切・その1
海老山城の特徴としては、堀切が挙げられる。標高が100mにも満たないため、これを補完するための要害として堀切が多用されたと思われる。
なお、このころの出雲国守護は京極持清だが、同国にある杵築大社や神魂神社、及び雲樹寺、出雲安国寺などに対し、幕府の命によって課役の免除や社領・寺領の安堵などを行っている。
鹿島の佐陀神社に関するものはあまり残っていないが、おそらく同様の事務所管を行っていたものと思われる。
ところで、海老山城と蘆山城の間は直線距離でわずか1キロ余りである。さらに佐陀神社と海老山城の距離となるとさらに短く、指呼の間である。
このことから、おそらく蘆山城主・朝山越前守綱忠と海老山城の新田氏との境界争いは度々行われていたものと思われ、永正17年に至って、ついに戦端が開いたのではないかと思われる。
新田氏
海老山城の城主は新田氏とされているが、史料によっては、「仁田氏」とも記されている。同氏の出自など詳細は不明であるが、地元の小国人領主であったのだろう。
【写真左】堀切・その2
堀切は本丸を中心に東西にバランスよく配置されている。
現地には「堀切・№」の表示が設置してあり、分かりやすい。
【写真左】一段高くなった郭段
全体に東西に延びる尾根を利用した城砦で、尾根幅も広くなく、小規模なものだが、逆にいえば、限られた条件でどれだけ有効な城砦施設が設計できるか、築城当事者が苦心した様子がうかがえる。
【写真左】西に延びる郭
この先からはほぼフラットな形状が続き、しばらくすると主郭が見えてくる。
【写真左】海老山城主郭
東西に長く、南北は10m前後の規模である。
【写真左】土塁
主郭の北側を中心に土塁跡が見える。
永正年間朝山氏の攻撃を受けていることを考えると、当然北側や西側の防備には意を用いていたと思われる。
【写真左】主郭から南方に佐陀川を見る。
写真右側のまっすぐに伸びた川が佐陀川で、奥の宍道湖とつながる。
写真の右(北)に向かうと、日本海の鹿島漁港に出る。
戦国期まではこの写真に見える田圃は、宍道湖として、深く入り込んだ入江だったと思われる。
【写真左】主郭から北に島根原子力発電所を見る。
主郭から西方の佐太神社は樹木があるため俯瞰できないが、北北西に島根原子力発電所の鉄塔が尾根越しに見える。
この尾根の向こうは日本海になる。
【写真左】西方の堀切・その1
主郭を過ぎて、反対側の西側ルートを降りていくと、いきなり見ごたえのある堀切が出てくる。
「空堀・4」と表示さている箇所で、登ってきた東側の堀切に比べ、さすがに規模が大きく、切崖も見ごたえがある。
【写真左】堀切・その2
堀切を含め、西方には大きな窪地(郭か)が残っているが、おそらく馬場・駐屯地のような施設として使われたのだろう。
【写真左】崩落した南面
下山コースの一部で、この写真の上を通って降りていくのだが、歩いている最中は分からず、下に降りて、この光景を目にしびっくりした。
意外と地盤は弱いようだ。
【写真左】出雲二十七番札所・千光寺
写真左側が下山した位置になるが、この場所は出雲二十七番札所、千光寺の境内につながる。
開基・創立など縁起は分からないが、古刹であることは間違いないようだ。
●所在地 島根県松江市 鹿島町 名分 七日市
●別名 恵美山城
●築城期 不明
●築城者 新田(仁田)右馬頭
●落城 永正17年(1520)
●高さ 標高86m
●遺構 土塁・井戸・堀切7・郭
●登城日 2010年2月5日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』「佐太神社HP」等)
島根県の旧鹿島町と松江市の境にそびえる恵美山に築かれた山城で、小規模ながら堀切に見るべきものがある。
【写真左】海老山城遠望
北麓の講武付近から見たもので、写真右に向かうと佐太神社・芦山城方面へ向かう。
現地の説明板より
“海老山城(恵美山城)
海老山城主新田右馬頭守は、永正17年(1520)に佐太神社神主でもあった佐太宮内蘆山城主・朝山越前守綱忠と佐太神領を侵したとして争いになり、新田氏は討ち滅ばされました。
海老山城跡は、標高70mの山頂にあり、山頂部は削平され平坦地で、井戸跡もあります。尾根には6か所の堀切があり、堅固な城構えです。
海老山城の落城した5月20日に山に入ると、鯨波(ときのこえ)や、轡(くつわ)の音、黄金の鶏の鳴き声がし、その声を聞いた者は不幸が来ると恐れられ、誰もその日には入るものはいなかったという。今でもこの周りの人たちはこの言い伝えを守っています。
生馬公民館
平成10年9月吉日”
【写真左】登山道入り口
松江市から鹿島町へ向かう県道37号線の上佐陀町付近で右に枝分かれする道があり、ここを少し進むとご覧の看板が見える。
説明板にある佐太宮内の蘆山城とは、海老山城の西麓を流れる佐陀川を挟んで北北西にあった「芦山城」ではないかとされている。
この城は、宝徳2年(1450)、朝山越前守貞昌が築城したとされているので、永正年間に海老山城を攻めた越前守綱忠は、その孫あたりになるのだろう。
【写真左】蘆山城(芦山城)遠望
北東側から見たもので、手前の川が佐陀川。
中央の山(海地呂山)に築かれた山城で、遺構としては郭が残っているというが、管理人は未だ登城していない(登城道はないかもしれない)。
なお、この川の左側を進むと、佐太神社や海老山城に達するが、そのまま川を進むと宍道湖につながる。逆に右に向かうと日本海へ出る。
江戸時代の天明5年(1785)、清原太兵衛がこの佐陀川の開削工事を開始し、宍道湖と北の日本海を運河でつないだ。
【写真左】登城道
先ほどの登山道入口から進むと、神社(加茂志神社だったと思う)があり、その脇を通って登っていく。
踏み跡が結構あったので、迷うことはない。
佐太神社
佐太神社は出雲国でも出雲杵築大社・熊野大社と並び、「出雲国三大大社」の一つとされた古い歴史を持つ社である。
神主とされる朝山氏については、以前取り上げた旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)・姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)、及び平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも紹介したように、南北朝期から室町初期のころ、出雲国の国衙在庁官人兼社家奉行の任にあったとされ、京極高詮が出雲守護職を得たころ、同氏の一部(出雲朝山郷を支配していた人物)は室町幕府の奉公衆として京都に上ったとされる。
【写真左】佐太神社
海老山城の西を流れる佐陀川を挟んで西岸に鎮座する。
由緒より、
“出雲国風土記に、佐太大神社或いは佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造りの本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。…”
そして、出雲国に残った朝山氏のうち、宝徳年間に越前守貞昌が、支配地の中心を現在の宍道湖北岸にある佐陀神社近辺に定めていったものと思われる。
【写真左】堀切・その1
海老山城の特徴としては、堀切が挙げられる。標高が100mにも満たないため、これを補完するための要害として堀切が多用されたと思われる。
なお、このころの出雲国守護は京極持清だが、同国にある杵築大社や神魂神社、及び雲樹寺、出雲安国寺などに対し、幕府の命によって課役の免除や社領・寺領の安堵などを行っている。
鹿島の佐陀神社に関するものはあまり残っていないが、おそらく同様の事務所管を行っていたものと思われる。
ところで、海老山城と蘆山城の間は直線距離でわずか1キロ余りである。さらに佐陀神社と海老山城の距離となるとさらに短く、指呼の間である。
このことから、おそらく蘆山城主・朝山越前守綱忠と海老山城の新田氏との境界争いは度々行われていたものと思われ、永正17年に至って、ついに戦端が開いたのではないかと思われる。
新田氏
海老山城の城主は新田氏とされているが、史料によっては、「仁田氏」とも記されている。同氏の出自など詳細は不明であるが、地元の小国人領主であったのだろう。
【写真左】堀切・その2
堀切は本丸を中心に東西にバランスよく配置されている。
現地には「堀切・№」の表示が設置してあり、分かりやすい。
【写真左】一段高くなった郭段
全体に東西に延びる尾根を利用した城砦で、尾根幅も広くなく、小規模なものだが、逆にいえば、限られた条件でどれだけ有効な城砦施設が設計できるか、築城当事者が苦心した様子がうかがえる。
【写真左】西に延びる郭
この先からはほぼフラットな形状が続き、しばらくすると主郭が見えてくる。
【写真左】海老山城主郭
東西に長く、南北は10m前後の規模である。
【写真左】土塁
主郭の北側を中心に土塁跡が見える。
永正年間朝山氏の攻撃を受けていることを考えると、当然北側や西側の防備には意を用いていたと思われる。
【写真左】主郭から南方に佐陀川を見る。
写真右側のまっすぐに伸びた川が佐陀川で、奥の宍道湖とつながる。
写真の右(北)に向かうと、日本海の鹿島漁港に出る。
戦国期まではこの写真に見える田圃は、宍道湖として、深く入り込んだ入江だったと思われる。
【写真左】主郭から北に島根原子力発電所を見る。
主郭から西方の佐太神社は樹木があるため俯瞰できないが、北北西に島根原子力発電所の鉄塔が尾根越しに見える。
この尾根の向こうは日本海になる。
【写真左】西方の堀切・その1
主郭を過ぎて、反対側の西側ルートを降りていくと、いきなり見ごたえのある堀切が出てくる。
「空堀・4」と表示さている箇所で、登ってきた東側の堀切に比べ、さすがに規模が大きく、切崖も見ごたえがある。
【写真左】堀切・その2
堀切を含め、西方には大きな窪地(郭か)が残っているが、おそらく馬場・駐屯地のような施設として使われたのだろう。
【写真左】崩落した南面
下山コースの一部で、この写真の上を通って降りていくのだが、歩いている最中は分からず、下に降りて、この光景を目にしびっくりした。
意外と地盤は弱いようだ。
【写真左】出雲二十七番札所・千光寺
写真左側が下山した位置になるが、この場所は出雲二十七番札所、千光寺の境内につながる。
開基・創立など縁起は分からないが、古刹であることは間違いないようだ。
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