2011年12月19日月曜日

頼清寺(島根県松江市玉湯町林村本郷)

頼清寺(らいせいじ)

●所在地 島根県松江市玉湯町林村本郷
●創建期 建治元年(1275)
●創建者 湯氏一族
●探訪日 2011年12月16日

◆解説(参考文献「日本城郭体系第14巻」等)
 前稿「玉造要害山城」で少し触れたが、建治元年(1275)佐々木頼清、すなわち湯氏の始祖である佐々木七郎左衛門の子孫が、頼清の菩提を弔うために建立したといわれている寺院である。
【写真左】頼清寺













 前稿でも述べたように、建立した当時、父である泰清はまだ存命中で、出雲塩冶において出雲守護職として活躍している。

 当院の所在地は、頼清が治めていた拝志・湯の二つの郷のほぼ中心地で、この場所に建立した理由を考えると、当時彼はこの林村・本郷を本拠地としていた可能性もある。

 ちなみに、添付写真にもあるように、当院から東方の位置には「林城山城(旧)城山古城跡」という山城があり、当城とも関係があったのかもしれない。

 記録では城主は大野次郎左衛門が居城した、とあるが、おそらくこれは室町初期のころの城主と思われる。
【写真左】宝篋印塔か
 境内の東側に祀られているもので、部位が散逸しているため、形式は分からないが、宝篋印塔だったと思われる。





 ところで、創建された建治元年前後の動きを見てみると、この前年(文永11年:1274)には、元軍が筑前に上陸したものの、台風のため艦船は漂没している(文永の役)。

以後、幕府は鎮西・九州の防備に奔走することになる。

 そうした中、出雲国では杵築大社の造営が最も大きな事業であったらしく、近郷の領主に造営のために様々な注文を行っている。
【写真左】境内北に建立されている石碑
 境内の東側から奥に向かうと、ごらんのような石碑がある。
【写真左】五輪塔
 上記の石碑の脇には社のような建物と、奥に五輪塔一基が鎮座している。


 「平成15年度―富士名判官の真実―資料」という史料によれば、この頼清寺境内に、頼清一族の五輪塔や宝篋印塔が残されている、と記されているので、おそらくこのことだろう。
【写真左】頼清寺裏古墳群・その1
 さきほどの場所からさらに北の丘を目指すと、ご覧の古墳群が見えてくる。
【写真左】その2
 踏査できる範囲は30m四方だが、古墳群全体の区域はこれよりまだ広いと思われる。
 奥にはご覧の祠が祀られている。要所に地蔵菩薩などが配置されているが、おそらく江戸期のものだろう。


 島根県遺跡データベースでは、具体的な遺構・遺物は記録されていないが、古墳であることは間違いないようだ。
【写真左】頼清寺から「林城山城」を遠望する。
 前稿でも触れたように、当院から東方300mの地点に、三つの峰を持つ林城山城が見える。


 おそらく、三つの峰全体が城域となっているのだろう。郭・土塁・堀切の遺構があるとされているが、管理人は登城していない。

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