赤崎山城(あかさきやまじょう)
●所在地 島根県安来市赤崎町城山
●高さ 87m
●遺構 郭・堀切
●築城期 不明
●城主 原民部少輔
●備考 尼子十砦の一つ
●登城日 2011年12月2日
◆解説(参考文献:『尼子とその城下町』編著者 妹尾豊三郎、サイト『城郭放浪記』等)
出雲から鳥取・岡山方面の山城を探訪する際、山陰自動車道をよく利用するが、車で走っていると安来ICに差し掛かるころ、右手(南側)にいつもこの山が見えていた。
【写真左】赤崎山城の頂上部
展望台が設置されている。北~西~南方面の眺望が確保されている。
標高90m弱という低い丘陵上の頂上部が最近伐採され、展望台のようなものが見え出していたため、気にはなっていたが、まさかこの山が山城とは思っていなかった。というのも、あまりにも低く、なだらかな山(丘といったほうがいいかもしれない)であったからである。
所在地は安来市の飯梨川と伯太川に挟まれた場所で、尼子十砦のひとつとされた山城である。
尼子十砦とは、尼子氏の本拠城・月山冨田城を防備するために、冨田城を中心に半径約10キロ圏内に配置された支城である。
【写真左】登城口付近の案内図
登城ルートは2か所あり、今回は東側の山辺大堤側から向かった。
駐車はこの脇を走る道路の一角に少し三角形のスペースがあるので、1台分は何とか確保できる(下の写真参照)。
【写真左】登城口付近
ご覧のように階段が設置され、この日登ったときには、登城道周辺も綺麗に除草され歩きやすくなっていた。
登り始めて5分程度過ぎたころ、下山してくる初老の男性の方とすれ違ったが、近所の散歩程度の軽装で降りてこられ驚いたが、逆に向こうはこちらの服装(登山靴にリュックなど)に驚いていたようだ。
尼子十砦(あまごじっさい)
名称 城主名等 所在地
【写真左】途中に見えた産業廃棄物処理場
尾根伝いに進んでいくと、途中で鉄塔が設置され、その南麓には処理場が見える。
赤崎山城は、中海に突き出した海城・十神山城と、尼子氏本拠城・月山冨田城を結ぶライン上に位置し、両城の連絡を担い、さらには近接の神庭横山城と呼応して、赤崎周辺を守備していたという。
【写真左】郭の一部
このコースは多少の起伏はあるものの、全体に歩きやすい。
途中で尾根幅の広くなったところや、土橋のような狭くなった箇所もあり、別の尾根との合流点には、郭のような削平地も認められる。
ところで、赤崎山城は単独の丘陵地に築かれた山城で、前述したように標高が90mにも満たない低い山城である。
当城の東側には伯太川が流れ、西側には吉田川が当城をぐるっと回り込む形で流れている。このことから、この赤崎山城も十神山城と同じく、戦国期までは中海に浮かぶ孤島ではなかったかと考えられる。
そのため、標高は低くとも周囲が海に囲まれていたことら、天然の堀としての役目があり、北方の十神山城との連絡は、ほとんど船によってなされていたと考えられる。
【写真左】主郭手前の壇
このあたりで、北側の加茂神社コースと合流するが、周囲には不定形な腰郭が確認できる。
【写真左】加茂神社側コースから主郭方面を見る。
左側(大堤)が登ってきたコースで、手前が加茂神社側からのコースとなる。
【写真左】主郭
展望台付近の郭は、10m四方の規模で、その北側には1m程度の段差を持たせた奥行10m程度の郭が伸びる。
なお、主郭から南には堀切のような段差が認められ、さらに南方に向かうと、尾根伝いに小郭が確認できる。ただ、その先はほとんど整備されていないようで、踏査しなかった。
【写真左】十神山城遠望
写真右隅の山は、北方の中海に突き出す十神山城。
中央横に走る道路は、山陰自動車道で、右側には安来ICが控える。おそらく、このあたりも当時は中海の一部だったのだろう。
十神山城の奥にみえるのは、中海に浮かぶ大根島で、さらに奥の左にみえるのは美保関方面。
【写真左】忠山城
十神山からさらに西に目を向けると、島根半島にそそり立つ忠山城がみえる。
尼子再興をめざし、永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助・尼子勝久らが隠岐から渡海し、この山に拠った。
忠山城については、いずれ取り上げたいと思う。
【写真左】車山城と京羅木山城
手前中央の山が車山城、奥の左側が京羅木山城。
集落中央を左から右に流れるのが飯梨川で、この川を上ると尼子氏の居城・月山冨田城につながる。
●所在地 島根県安来市赤崎町城山
●高さ 87m
●遺構 郭・堀切
●築城期 不明
●城主 原民部少輔
●備考 尼子十砦の一つ
●登城日 2011年12月2日
◆解説(参考文献:『尼子とその城下町』編著者 妹尾豊三郎、サイト『城郭放浪記』等)
出雲から鳥取・岡山方面の山城を探訪する際、山陰自動車道をよく利用するが、車で走っていると安来ICに差し掛かるころ、右手(南側)にいつもこの山が見えていた。
【写真左】赤崎山城の頂上部
展望台が設置されている。北~西~南方面の眺望が確保されている。
標高90m弱という低い丘陵上の頂上部が最近伐採され、展望台のようなものが見え出していたため、気にはなっていたが、まさかこの山が山城とは思っていなかった。というのも、あまりにも低く、なだらかな山(丘といったほうがいいかもしれない)であったからである。
所在地は安来市の飯梨川と伯太川に挟まれた場所で、尼子十砦のひとつとされた山城である。
尼子十砦とは、尼子氏の本拠城・月山冨田城を防備するために、冨田城を中心に半径約10キロ圏内に配置された支城である。
【写真左】登城口付近の案内図
登城ルートは2か所あり、今回は東側の山辺大堤側から向かった。
駐車はこの脇を走る道路の一角に少し三角形のスペースがあるので、1台分は何とか確保できる(下の写真参照)。
【写真左】登城口付近
ご覧のように階段が設置され、この日登ったときには、登城道周辺も綺麗に除草され歩きやすくなっていた。
登り始めて5分程度過ぎたころ、下山してくる初老の男性の方とすれ違ったが、近所の散歩程度の軽装で降りてこられ驚いたが、逆に向こうはこちらの服装(登山靴にリュックなど)に驚いていたようだ。
尼子十砦(あまごじっさい)
名称 城主名等 所在地
- 十神山城 松尾遠江守 安来町十神
- 神庭横山城 川井信濃守 安来町神庭
- 三笠山城 西村治右衛門 広瀬町広瀬
- 赤崎山城 原民部少輔 赤崎町城山
- 亀遊山城 和田源太左衛門 伯太町東母里
- 高尾城 足立右馬允 伯太町下十年畑
- 飯生高守山城 中井平三兵衛 伯太町井尻字大日
- 蓮華峯寺山城 福山肥後守・土居大隅守 広瀬町菅原
- 安田要害山城 福山綱信・源五郎父子 伯太町安田関字要害山
- 勝山城 田中三良左衛門 広瀬町石原
尾根伝いに進んでいくと、途中で鉄塔が設置され、その南麓には処理場が見える。
赤崎山城は、中海に突き出した海城・十神山城と、尼子氏本拠城・月山冨田城を結ぶライン上に位置し、両城の連絡を担い、さらには近接の神庭横山城と呼応して、赤崎周辺を守備していたという。
【写真左】郭の一部
このコースは多少の起伏はあるものの、全体に歩きやすい。
途中で尾根幅の広くなったところや、土橋のような狭くなった箇所もあり、別の尾根との合流点には、郭のような削平地も認められる。
ところで、赤崎山城は単独の丘陵地に築かれた山城で、前述したように標高が90mにも満たない低い山城である。
当城の東側には伯太川が流れ、西側には吉田川が当城をぐるっと回り込む形で流れている。このことから、この赤崎山城も十神山城と同じく、戦国期までは中海に浮かぶ孤島ではなかったかと考えられる。
そのため、標高は低くとも周囲が海に囲まれていたことら、天然の堀としての役目があり、北方の十神山城との連絡は、ほとんど船によってなされていたと考えられる。
【写真左】主郭手前の壇
このあたりで、北側の加茂神社コースと合流するが、周囲には不定形な腰郭が確認できる。
【写真左】加茂神社側コースから主郭方面を見る。
左側(大堤)が登ってきたコースで、手前が加茂神社側からのコースとなる。
【写真左】主郭
展望台付近の郭は、10m四方の規模で、その北側には1m程度の段差を持たせた奥行10m程度の郭が伸びる。
なお、主郭から南には堀切のような段差が認められ、さらに南方に向かうと、尾根伝いに小郭が確認できる。ただ、その先はほとんど整備されていないようで、踏査しなかった。
写真右隅の山は、北方の中海に突き出す十神山城。
中央横に走る道路は、山陰自動車道で、右側には安来ICが控える。おそらく、このあたりも当時は中海の一部だったのだろう。
十神山城の奥にみえるのは、中海に浮かぶ大根島で、さらに奥の左にみえるのは美保関方面。
【写真左】忠山城
十神山からさらに西に目を向けると、島根半島にそそり立つ忠山城がみえる。
尼子再興をめざし、永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助・尼子勝久らが隠岐から渡海し、この山に拠った。
忠山城については、いずれ取り上げたいと思う。
【写真左】車山城と京羅木山城
手前中央の山が車山城、奥の左側が京羅木山城。
集落中央を左から右に流れるのが飯梨川で、この川を上ると尼子氏の居城・月山冨田城につながる。
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