2014年11月6日木曜日

槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)

槌山城(つちやまじょう)

●所在地 広島県東広島市八本町吉川)
●別名 明神山城
●高さ 489m(比高260m)
●築城期 応永年間(1394~1428)ごろ
●築城者 大内氏
●城主 弘中隆兼等
●遺構 郭・空堀・石垣等
●指定 東広島市指定史跡
●登城日 2014年3月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 槌山城は東広島市の西端・八本松町にあって、ここから8キロ余り東に進んだ西条町御薗宇には鏡山城がある。また、南麓を走る津江八本松線(336号線)を西に進み、戸坂峠を越えると、阿戸町に至り、熊野川を下っていくと、瀬野で瀬野川本流と合流し、国道2号線やJR山陽本線と並行しながら西進し、海田町(安芸郡)の広島湾にたどり着く。
【写真左】槌山城遠望
 南東麓から見たもの。中央の最高所が本丸になるが、後段で示す「鬼が丸城」は左側の尾根に隠れて見えない。





現地の説明板より

“東広島市指定史跡
 槌山城跡
    昭和53年11月15日 指定

 槌山城は、西条盆地の西端、標高490mの急峻な槌山に築かれた中世の山城で、明神山城とも呼ばれました。城が築かれたのは南北朝時代と言われていますが、明らかではありません。

 室町・戦国時代、この地域は山口の守護大名大内氏の所領でした。大永3(1523)年出雲尼子氏によって鏡山城が落城し、大永5(1525)年以降大内氏の拠点は、杣城(そまじょう)及び槌山城に移されました。
【写真左】槌山城跡略測図
 本丸跡に設置されているもので、この日は同図の西郭群(4郭)から登城した。





 天文12(1543)年、大内氏は、守護代として重臣の弘中隆兼を槌山城に派遣します。弘中隆兼は、天文15(1546)年には「西条守護殿」と呼ばれ、天文19(1550)年頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。

 天文20(1551)年、陶氏の反乱によって大内義隆が滅亡した際、当城は大内義隆派の城番が守っていましたが、陶氏の命を受けた毛利氏らによって攻め落とされています。厳島合戦は、小早川氏が管理していましたが、「当国守護山」ということで毛利氏に移管されています。
【写真左】登城口付近
 正面奥に見える山が槌山城で、この日は南麓側から向かったが、登城コースはこのほかに北東麓から向かうコースもあるようだ。
 写真の位置から本丸まで970mと書かれている。

 ご覧の通り伐採作業が終わった後のようで、麓の視界は極めて良好。手前の道路は東広島市と安芸区・熊野町を結ぶ道路で、西進すると戸坂峠に至る。


 城跡は、東西400m、南北250mの範囲に拡がる大規模なもので、1郭、2郭、3郭、4郭を中心とする郭群にそれぞれ分けられます。1郭を中心とする郭群は本丸に当たると考えられ、3段からなります。3郭を中心とする郭群は登城路が集まる場所に当たり、重要な郭群となっています。城内の要所には石垣を築いており、本城跡は、戦国時代中期の代表的な城跡として重要です。”
【写真左】鬼が丸城との分岐点
 登城道を進んで行くと、次第に岩塊の多い景色が増えるが、この位置までは歩きやすい。

 写真は鬼が丸城へ向かうコースとの分岐点になり、左に向かうと、鬼が丸城へ、右に進むと槌山城へ向かう。
 なお、鬼が丸城については次稿で取り上げたい。


弘中隆兼

 大内氏の家臣として戦国期に名を連ねた主だった一族と本拠城(館)は、長門・周防国に限定すると次の通りである。
  1. 陶氏(右田氏) 周防・若山城(山口県周防市福川) 
  2. 内藤氏      荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)
  3. 杉氏        鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)
  4. 江良氏       現・本生山龍雲寺(山口県周南市鹿野)境内
  5. 弘中氏       亀尾城(岩国市錦見)
今稿の槌山城の城主といわれたのがその弘中氏である。弘中氏の出自は清和源氏の流れを汲み、上掲したように鎌倉の開幕期から代々岩国の領主を努めていたとされる。
 槌山城主・弘中隆兼(諱:隆包)は、大永元年(1521)生まれといわれるので、陶晴賢と同じ年である。
【写真左】急坂道
 先ほどの分岐点を過ぎた途端に、ここから急坂道が続く。
 ほぼ尾根筋を直進するコースのため、九十九折でない。途端に息が荒くなる。



 陶晴賢や内藤興盛などは武断派といわれ、後に主君大内義隆を倒したのに対し、江良房栄や、弘中隆兼はかれらの行動とは途中から別の動きをすることになる。

 両者は毛利元就が大内氏の麾下となっていたころ、特に隆兼は元就をはじめ、隆元・元春らとも親交を深めている。
【写真左】西郭群・その1
 おそらく西郭群の西端部に当たると思われるが、途中で小郭の段が出てくる。ただ、それもつかの間で、この先は最後の急傾斜が控えている。


 天文20(1551)年、陶晴賢が大内義隆を討ち、義隆跡に豊後の大友宗麟の弟・義長を迎えると、芸備両国の国人衆に動揺が走った。このころ槌山城の城番には菅田越中守宣真が入っていた。上掲の説明板にある大内義隆派の城番とは彼のことである。

 彼は以前紹介した槌山城西方にある堀の城(広島県安芸郡熊野町城之堀区字城之堀)の菅田豊後守と同族である。安芸国国人領主の中でも特に宣真は、晴賢が行った反乱には批判的であった。
【写真左】西郭群・その2
 さらにキツイ郭段。実際は切崖の連続である。余り汗をかかない連れ合いも、このときはタオルで何度もぬぐった。管理人は途中からTシャツ一枚になったが、それでも暑くなり、ペットボトル1本は空になった。


 ところで、弘中隆兼が天文19年ごろまで槌山城主であったが、その後何故、この菅田宣真が当城の城番になったのか、その理由ははっきりしない。しかし、このころの隆兼もまた、晴賢による義隆討滅に対し異を唱えていたので、その態度を示すため自ら下城したのかもしれない。

 そうした関係もあって、後に大内氏が陶晴賢によって殺害されたあと、元就が晴賢と対立した際、隆兼は江良房栄とともに、毛利氏との内通を疑われ、江良房栄は殺害され、隆兼も危うく難を逃れた。
【写真左】西郭群・その3
 難所を過ぎるとやっと尾根は緩やかになり、細長い郭が前方に見えてきた。本丸まであと少し。




 その後、隆兼は大内義長(晴賢)に従い、厳島で毛利氏と戦ったが、負け戦となり、総大将であった陶晴賢の奔走を援助すべく、自ら楯となった(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)。しかし、結局この戦いで、晴賢は自刃、隆兼もこの島で討死した。享年34歳。諱は隆包という。
 
杣城(そまじょう)

 大永3年に鏡山城が尼子氏によって落城した後、槌山城とともに大内氏の拠城となったのが、杣城である。別名曽場が城ともいわれ、鏡山城から西方に位置した場所で、鏡山城からは北西方向へ約8キロの距離になる。
【写真左】曽場が城(杣城)遠望
 写真は2014年9月22日に撮ったものだが、この日は登城していない。南麓を走る林道側から見たもの。






 また槌山城は杣城(曽場が城)から南西方向へ6キロ余の位置にあって、鏡山城に拠った尼子氏がその後、西進するのを防ぐように、両城が置かれている。
【写真左】本丸・その1
 冒頭の略測図でいう主郭群(1郭)のことで、東西65m×南北20mの規模。東西方向に段差によって3つに区分されている。
 現地はそのうち南半分が伐採され、北側の方は雑木が残してある。
【写真左】説明板
 登城口に設置してあるものとほぼ同じ内容が書かれているが、それ以外の事柄としては、
“…南西方面に下りる通路と北東郭群へ下りる通路があり、城の斜面には、各所に石垣が見られます。また、東郭群の南北には、麓に通じる道があり、大手道と考えられます。”
 と記されている。
 従って、この日登城したコースは大手道でなく、搦手のコースだったと考えられる。
【写真左】本丸から南東方面を俯瞰する。
 八本松町や西条町の街並みがみえる。
【写真左】東山城
 槌山城の東方には東山城が見える。
 槌山城攻めの際、毛利三兄弟が主体となって行われたが、そのうち、吉川元春はこの山に拠った。

 このあと、その大手道に向かうことにする。
【写真左】北東郭群(2郭)・その1
 この写真は上から見たもので、傾斜の雰囲気は感じられないが、下の写真を見ていただきたい。
【写真左】北東郭群(2郭)・その2
 急傾斜で管理人は殆ど滑り落ちるように下ってしまった。
 
 連れ合いは、とてもこのあと再びよじ登るのは無理だといって、途中で座り込んだ。
【写真左】北東郭群(2郭)・その3
 やっと平坦な郭群になった。
【写真左】北東郭群(3郭)
 西端部まで来たが、ここまで来たものの、今回は相当体力を消耗した。これ以上降ると、戻る体力がもたない。この辺りでUターンする。
【写真左】石積
 帰りのコース途中に見えたもので、主郭群と西郭群の境付近には、二通りの道が残っており、そのうち南側の道を辿ると、右手頭上に見える。

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