2014年11月9日日曜日

安芸・鬼が丸城(広島県東広島市八本松町吉川)

安芸・鬼が丸城(あき・おにがまるじょう)

●所在地 広島県東広島市八本松町吉川
●高さ 410m(比高110m)
●築城期 不明(戦国期か)
●城主 毛利氏(小早川隆景)
●遺構 郭
●登城日 2014年3月2日

◆解説
 鬼が丸城は前稿槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)でも紹介したように、槌山城の西に聳える標高410mの岩塊に築城された向城である。
【写真左】鬼が丸城の絶壁
 主郭はこの大岩の上にある。登城道は特に標示されていないが、この大岩の南斜面に2,30cm程度の幅でよじ登る個所があり、周りに生えている樹木に捕まりながら向かう。
【写真左】鬼が丸城遠望
 槌山城の西郭群付近からみたもの。

 後段で紹介する「オフロードバイク・ライダー」氏がバイクで登ってきたコースは、北側からだが、毛利氏(小早川隆景)らが当城に向かったコースとおそらく同じだったかもしれない。


 現地の説明板より

“槌山城(八本松町吉川)

 槌山城は、大内氏の安芸国支配の拠点として西条守護が在城していました。天文20年(1551)、陶氏によって大内義隆が滅ぼされると、槌山城には大内義隆派の将兵が篭り陶氏に対して反旗を翻しました。

 陶氏は毛利氏に命じて槌山城を攻撃しますが、この時、毛利隆元は吉川砥石山、吉川元春は東山、小早川隆景は鬼ヶ城に陣して三兄弟は協力して槌山城を攻めたと伝えられています。”


オフロードバイク・ライダーとの遭遇

 これまで650か所以上の山城を登城しているが、主郭・本丸付近でバイクに遭遇したのは初めてである。しかも、鬼が丸城の主郭は槌山城と同じく巨岩の塊で、ここにたどり着くまでは険しい岩場や、急傾斜の尾根道などがあり、徒歩による登城でも途中には油断すると滑落する危険な場所がある。
【写真左】鬼が丸城と槌山城方面との分岐点
 左(西)に向かうと鬼が丸城、右(東)に向かうと槌山城。







 前稿でも紹介したが、槌山城登城途中で、鬼が丸に向かう道と槌山城に向かう道の分岐点がある。尾根の鞍部に当たるが、ここから鬼が丸城の主郭までは西の尾根を伝って約300mの距離である。

【写真左】削平された頂部
 尾根道ピークにあるもので、鬼が丸城と槌山城側分岐点との中間地点に当たる。
【写真左】鬼が丸城が見えてきた。
 この段階で当城が岩塊であることが分かる。








 暫く尾根伝いを進むと、丁度中間地点で綺麗に削平された頂部(写真参照)がある。ここまではよかったのだが、この先から次第に険しい尾根が続くようになる。連れ合いは、眼前に見える大岩と麓からの傾斜を見て行きたくない、と拒否する。仕方がないので、管理人のみトライすべく、歩を進めた。

【写真左】大岩を横から見る。
 ほぼ垂直に大岩が屹立している。その真上に主郭がある。ロッククライミング経験者ならこの岩を登れるだろうが、一般の者にはまず無理。

 手前南側に進み、匍匐前進で何とか登れるヵ所をみつける。





 主郭大岩の南斜面から登ってきた時、最初に目にしたのがこのバイクである。急斜面を喘ぎながら登ってきた者にとって、頭上にバイクが見えた時、一瞬わが目を疑った。

 こんな場所にそもそもバイクがあること自体考えられないことである。バイクは岩の脇に横に置かれ、ライダーの姿は見えない。しばらくすると、上の主郭のほうからヘルメットを着けた青年が下りてきた。

 バイクでどうやってきたのか尋ねたところ、北側の溜池付近から乗ってきたという。途中まで林道のような道だったから造作もなかったが、さすがに後半になると岩が露出した箇所があり、それなりに神経は使うが、この程度は慣れているという。地元の青年のようで、暇ができるとこうしたオフロードを走るのが趣味だという。それにしても恐れ入った。
【写真左】オフロードバイクとライダー氏
 この先に主郭があり、管理人は写真の右側の斜面から登ってきた。







 バイクを降りて、上の主郭付近まで向かったが特に何もなかったという。この山が戦国期に戦いのあった山城であるということを伝えると、まったく知らなかったらしく、結構興味をもってくれた。
 そして、記念にバイクと一緒に写真を撮らせてほしいというと、ご覧のVサインのポーズできめてくれた。
 ライダー氏と別れて、改めて主郭を目指す。
【写真左】主郭付近
 鬼が丸城の主郭付近は、北側が頂部となって全体に岩で構成されている。そこからやや南に下がると、細長い小規模な郭段が2段ある(下の写真参照)
【写真左】主郭南側の段
 東西15m×南北4m前後の腰郭



【写真左】主郭から槌山城を遠望する。
 主郭の東端部である岩塊から見たもので、槌山城全体が確認できる。
 足元の先はほぼ垂直の絶壁。
【写真左】主郭から南方に砥石山城を俯瞰する。
 槌山城攻めの際は、毛利三兄弟が主体となって行ったが、このうち、鬼が丸城は小早川隆景といわれ、南の溜池をはさんで砥石山城には、長男の毛利隆元が陣したという。

 なお、前稿・槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)でも述べたように、吉川元春は、槌山城の東方にある東山城に布陣した。


竹内屋敷

 ところで、槌山城の南東麓には「竹内屋敷」といわれるところがある。詳細は不明だが、槌山城主・城番であった弘中氏又は、菅田越中守宣真らが関係した館跡かもしれない。
【写真左】竹内屋敷跡・その1
 現在は屋敷跡に一般の住宅などが建ち、遺構としてはあまり残っていない。

 奥に見える山は槌山城。
【写真左】竹内屋敷跡・その2
 土塁跡か
【写真左】竹内屋敷跡・その3
 土塀跡
 周囲には用水路のようなものが残っており、おそらく当時これらが屋敷周りの濠跡だったと考えられる。





維新の傑僧宇都宮黙霖

 ところで、竹内屋敷の北隣には浄土真宗本願寺派 多聞山 西福寺がある。当院の出身といわれる宇都宮黙霖について次のように記されている。
【写真左】浄土真宗本願寺派 多聞山 西福寺











“維新の傑僧 宇都宮黙霖(もくりん)

 黙霖は文政7年(1824)呉市広町長浜で生まれた。父は後に吉川西福寺住職となった峻嶺(しゅんれい)で、母は宇都宮 琴(こと)といった。

 3歳で正力善証庵の養子となったが、10年後に再び長浜に帰り、専徳寺常諦(じょうたい)のもとで学問に志し、また寺家の野坂由節(ゆうせつ)、蒲刈弘願寺(ぐがんじ)の円識に学んで、その才を伸ばした。
 21歳のころ大病で聾唖の身となったが屈せず諸国修行を重ね、動乱の幕末にあっては、激越な尊王倒幕の志士として活躍し、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜、僧月性らと合許した。
 維新成就後、黙霖は郷里長浜に帰り、大蔵経の和歌訳など著述に没頭したが、晩年は呉市の沢原家に迎えられて余生を送り、明治30年9月15日、74歳の生涯を閉じた。
 墓は父母が眠る当西福寺の境内にあり、大正5年維新の功により従五位をおくられた。
     東広島ウエストライオンズクラブ
     東広島市郷土史研究会”

0 件のコメント:

コメントを投稿