2011年8月23日火曜日

大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)

大富山城(おおとみやまじょう)

●所在地 広島県庄原市西城町入江字的場
●築城期 天文2年(1533)
●築城者 宮上総守高盛
●遺構 郭・空堀等
●高さ 標高511m(比高180m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2008年9月24日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県備後地方を東西に流れる西城川上流部の西城市街地にある山城で、ここから更に北に進むと、備後落合で奥出雲につながる東城街道と、伯耆日南に向かう日野街道に分かれる要衝である。
【写真左】大富山城遠望
 北側から見たもの。









現地の説明板より

“庄原市史跡


 大富山城跡
 西城市街地の南端にそびえる大富山は、久代宮氏(西城宮氏)の本拠として戦国時代屈指の山城である。山容は壷を伏せたようで、頂上に本丸、山麓に30余段の郭がめぐらされ、西城川を臨む東麓に城主の居館があった。

 500m北方の萩野台地は馬場として利用、“桜の馬場”と呼ばれ、侍屋敷も置かれていた。その先端明神山は、当時“亀の尾山”と称して、“二の丸”が構築され、尼子合戦のおりには守りの拠点となったところである。更に北方、西条盆地の彼方には兜山、蟻腰、その他の支城や塁を配して正面の守りを固めていた。
【写真左】現地に設置されている絵図
 この日の登城道は、この絵図で示されている北側のコースではなく、南側から向かった。

 なお、この絵図にもあるように、東麓部には城主居館跡や、7人河原、林頓慶屋敷跡などが記されているが、当該地は探訪していない。


 本丸南方、搦手は急崖を介して大空堀を開削、さらに尾根伝い約500mのなかには、たくみに数段の郭や空堀が連ねられ、その突端に“物見が丸”が構築されていた。

 物見が丸は、数段の郭や空堀で守られ、南方はるか高、庄原一帯を展望していた。また外周を曲流する西城川と大屋川は、東と北を画す天然の外堀をなし、入江川を内堀として、その城構えはまさに広壮堅固なものであった。


 大富山城は、室町時代後期天文2年(1533)、宮氏が奴可郡久代村(現在庄原市東城町久代)から、この地へ本拠を移すに際し、7代上総守高盛が築城したもので、以後桃山時代天正19年(1591)11代広尚に至って、出雲の国塩冶に領替えになるまで、5代60年間在城、次いで着任した天野新兵衛尉元嘉は慶長5年(1600)、関ヶ原の後まで9年間在城した。

 天野氏は毛利氏に随従して長州に移り、広島に福島正則が入封。その家老長尾隼人正一勝が、東城の地へ赴任するに及んで、大富山城は廃城となった。
 
 宮氏は築城以来、毛利、尼子両勢力の中に介在しながらも、よく勢力を伸ばし、大いに郷土発展の基を築いて大富文化の花を咲かせた。
  庄原市教育委員会”
【写真左】大堀切の説明板
 南側から向かうと途中でこの「大堀切」が出てくる。残念ながら管理人はこの遺構写真を撮っていなかった。

 大富林道建設工事を行った昭和58年、当該堀や郭を発掘調査した際、土師質土器、備前焼かめ片、すり鉢片、磁器片、鉄釘、銅銭などが出てきたという。



西城宮氏(久代宮氏)

 宮氏は備後国生え抜きの領主で、在庁官人として同国の国衙から成長していった。当初新市に亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)を本拠としていたが、南北朝時代に入ると、備後一宮(吉備津神社)に拠って宮方として活躍した。このときの武将桜山四郎入道も宮氏の一族とされている。

 そして、後述するように、大富山城の宮氏をはじめ、北方の小奴可(おぬか)の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)小奴可宮氏、また東方の岩成荘(いわなりのしょう:福山市岩成)や、神辺地域にも同氏の勢力が扶植していく。
【写真左】あやめの段
 登城途中の中腹部にある郭で、この近くには「菊の段」という郭もある。








 宮氏は久代宮氏を惣領とし、応永6年(1399)、「比田山飛田山城(広島県庄原市東城町久代)を居城とし、宮弾正左衛門尉利吉を初代に、以後、景英・利成・息成(いきなり)・景行・景友そして、7代高盛まで約140年に渡って続いた(別説では6代景友までとするものもある)。

 そして、五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)でも紹介したように、宮氏の最盛期となる高盛(又は景友)の代に、北方に「五品嶽城」を築き、天文2年(1533)には、西進し西城町入江に大富山城を築き、当地に本拠を移したといわれる。

 なお、五品嶽城はその後、家臣であった渡辺七郎左衛門尉に守城させた。そして、宮氏は東方にあった五品嶽城を「東城」、西方にあった「大富山城」を「西城」と呼称することになる。
【写真左】本丸近くの郭
 本丸を中心に北側から東側にかけて3,4段の郭が構築されている。







大富山城・歴代城主

大富山城の城主は、初代城主高盛から始まって以下の5代が継承した。
  1. 初代 高盛
  2. 2代 興盛
  3. 3代 景盛
  4. 4代 智盛
  5. 5代 広尚
  ところで、宮氏のうち小奴可宮氏は、永正年間(1504~21)大内氏の配下にあって、大永年間(1521~28)は尼子氏に従った。このため、天文年間の初期(1530年代前半)、大内方だった毛利氏に攻められ、時の小奴可亀山城主・宮定実は籠城中、天文3年(1534)病死した。
【写真左】本丸・その1
 約2,000㎡の規模を持つもので、非常に広大なものである。








 これに対し、久代宮氏は毛利氏に接近していたため、大富山城築城後間もない天文5年(1536)秋、尼子氏に攻められている。
 高盛の嫡男蔵人は、この翌年(天文6年)、名を上総介興盛と名乗るが、これを元就が承認し、大富山城主二代目・興盛となって家督を相続する。

 その後、小奴可宮氏も毛利氏に従うことになるが、毛利氏自身もその頃はまだ大内氏に属し、自らも長男隆元を人質として差し出している。このとき、従者だったのが小奴可宮氏の病死した定実の実弟である。この実弟はのちに高僧となって、毛利氏の事実上の菩提寺であった興禅寺二世となる。
【写真左】本丸・その2
 「大富山城築城450年記念」と刻まれた石碑。
昭和58年に建立されたもので、脇に下記の内容が記された石碑がある。






“大富山城築城四百五十年記念事業

 大富山一大史蹟の振栄と文化遺産の保持大富文化の発展 悠久宮氏の功徳をお偲び郷土発展の願望を後世に託す。
一、百年基金 百三十万円 町条例設置
一、社祠修復記念碑 記念植樹 記念祭典


昭和28年山頂収得 昭和41年町有地登記


昭和58年9月25日
代宮舎19代 佐々木克治
大富山城跡史蹟保存会長
元町長 比婆郡町村会長 智木田 穣”


 説明板にもあるように、大富山城主として5代目となる宮左衛門広尚のあと、2代で断絶するが、この原因は、天正18年(1590)の秀吉による朝鮮出兵の際、広尚が軍役負担の軽減を図ろうと所領の過少申告をしたことが判明し、これに激怒した輝元が処置したことによるといわれている。

 直接のきっかけは上述した件がもとになっているが、それ以前から久代宮氏は毛利氏に対して積極的な支援行動が見られず、特に景盛の代に山陰尼子氏攻略の際、大幅な出兵の遅れがあり、毛利氏からは不興を買っていた。また、このころから戦功の評価として、西隣りで敵対し続けていた山内氏に比べ、冷遇され続けていたことも宮氏のそうした態度の現れだったかもしれない。

 しかし、広尚の弟景幸はその後毛利氏の支援を受けて、伯耆国生山城(別名「亀井山城」鳥取県日野郡日南町生山:『城郭放浪記』参照)の城主であった伯耆・山名氏の跡を継ぎ、江戸期に至って毛利氏に随従、萩に移っている。
【写真左】浄久寺
 久代宮氏の菩提寺とされる寺院で、大富山城の南麓に建立されている。







 現地の説明板より


浄久寺

 曹洞宗 三峰山青原林浄久寺
 本尊 聖観音菩薩
 勧請開山 鼎庵宗梅和尚(徳雲寺2世)
 二世中興 覚海道智禅師(徳雲寺5世)


 久代宮氏7代高盛が、東城から西城大富山へ移城の翌年『天文3年(1534)』城南のこの地を選んで、一宇を建立し、菩提寺とした(久代記)。
 以来、460年余り法灯を守り宮氏11代の位牌を祀る。


寺宝の掛け軸に9代上総介景盛寿像、山城守藤原盛勝容像、覚海禅師寿像の三幅(いずれも広島県重要文化財)、宮氏の末裔日野氏寄進の永代祠堂手形などを所蔵する。
 また、備後33カ所観音霊場の第21番、奴可郡札33カ所の第9番、大富荘18カ所の第13番の札所でもある。
 広島県天然記念物に指定されている「カヤ」の大樹のそびえる一面の苔庭は伽藍に映えて古禅寺の風趣をそえている。”
【写真左】久代宮氏一門の墓所
 浄久寺山門の左側高台に設置され、宮氏代々の墓といわれ、町(市)史跡となっている。

 説明板より

“ここは大富山城主久代宮氏一門の墓所で、宝篋印塔、五輪塔など合わせて32基の墓がコの字形に並んでいる。


 そのうち11基は城主などの刻銘がみえるが、すべて当郡産の結晶質石灰岩(ココメ石)製で相当風化が見られる。
 久代記によれば、宮氏初代利吉は、室町時代初め応永6年(1399)大和国宇陀郡から備後国奴可郡久代(現 東城町久代)に遠流されて土着したというが、異説もあって定かでない。


久代宮氏歴代城主名
 初代・利吉―2代・景英―3代・利成―4代・息成―5代・景行―6代・景友―7代(大富初代)・高盛―8代(2代)・興盛―9代(3代)・景盛―10代(4代)・智盛―11代(5代)・広尚

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