2011年8月16日火曜日

甲山城(広島県庄原市山内町本郷)

甲山城(こうやまじょう)

●所在地 広島県庄原市山内町本郷
●別名 冑(兜)山城・嶋山城
●築城期 元亨年間(1321~24)
●築城者 山内通資
●遺構 郭・堀切・土塁等
●高さ 標高384m(比高120m)
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2007年10月10日、及び2011年8月9日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 甲山城については先月の備後・茶臼城(広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地)でも少しふれたように、同族の山内氏が築城したとされている。

 甲山城の所在地は、現在の庄原市山内町であるが、この地は今月の稿で紹介したように、西方には三次市の三吉氏が、南方には吉舎を本拠とした和智氏がいる場所にあたる。
【写真左】甲山城遠望
 南側から見たもので、南麓部には広々とした田園が広がる。







現地の説明板より

“広島県史跡
 甲山城跡(こうやまじょうあと)
   指定年月日 昭和46年12月23日
   所在地 庄原市本郷町字古城山91番10外

現状
 立地:独立丘陵  標高:384m 比高:120m
 甲山全山が城郭化されているが、広島県史跡の範囲は第1郭から第3郭までである。

 第1郭の中央部には櫓台状の高まりがある。第2郭の北東隅にも櫓台状の高まりがあり、現在甲山南麓にある艮(うしとら)神社(別名「詰ノ丸八幡」がかってここにあったという。

 第3郭は第2郭の2m南下にあり、北西に土塁がある。その下には、二重の堀切と土塁を配す。これら郭群の外側にも尾根上に郭群があり、北側に広がるものは各郭の規模が大きい。

 東と南に拡がる郭群は山裾まで伸びるが、南側のものは加工度が低い。
西側の郭群には菩提寺の円通寺があり、本堂は重要文化財に指定されている。
【写真左】甲山城略測図
 左図上が北を示す。本丸はほぼ中央にあり、南方及び北東部に連続する郭群が残る。
 円通寺は左側にある。













内容
 甲山城は、西城川の南側、庄原市本郷町の円通寺裏山山頂に山内首藤通資によって築かれた山城である。

 山内首藤氏は源氏譜代の家人であったが、正和5(1316)年関東から入部して蔀山(しとみやま)城(庄原市高野町)を築いて本城とした。

 文和4年(1355)には、通資が地毘庄(じびのしょう)南部の本郷に甲山城を築いて、高野の蔀山城を弟に譲り本城とした。延徳4(1492)年には、山内氏8代豊通備後国守護代に任じられ、備後国人衆中の座上を認められ、安芸毛利氏と並ぶ戦国大名となった。



【写真左】円通寺本堂
 臨済宗妙心寺派慈高山円通寺は、甲山城中腹に建立されており、山内首藤氏の菩提寺。
 山内通資が正中元年(1324)、京都嵯峨天竜寺の玉洲和尚を招いて開山し、氏寺としたといわれている。


 一時荒廃したが、山内直通が天文年間(1532~55)に中興、現在の本堂もこのとき建てたといわれている。
 この本堂 附厨子は国重要文化財となっている。


  天文年間(1532~55)に入ると、毛利元就が頭角を現して、中国地方を支配下に治め、天文22(1553)年には山内11代隆通も毛利氏の配下となった。この地は山内氏が天正19(1591)年広島城下に移るまで、備後屈指の国人領主の根拠地として栄えた。この後、慶長5(1600)年「関ヶ原の戦い」ののち、山内氏は毛利輝元に従い萩に移住した。
  平成22年3月 庄原市教育委員会”
【写真左】墓石群
 円通寺境内西側高台に設置されているもので、山内首藤氏累代のものと思われるが、これらの中にはおそらく、下段に紹介した尼子経久の三男・塩冶興久のものも含まれているかもしれない。



山内氏

 元々相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠とした藤原氏の一族で、山内首藤氏ともいわれている。

 山内通資が高野町の蔀山城から本郷の甲山城に移った理由は、備後最北部の高野町という交通の便も不自由で、しかも冬季には豪雪地帯になること、また所領の拡大に限界があることから、現在の農業生産に適した山内町本郷(地毘庄南部)移ったといわれている。


 甲山城主初代道資から始まった山内氏はその後、下記のような代を重ねた。(史料によっては別説もある)
  1. 初代 通資
  2. 2代 通時
  3. 3代 通継
  4. 4代 通忠
  5. 5代 凞通
  6. 6代 時通
  7. 7代 泰通
  8. 8代 豊成
  9. 9代 直通
  10. 10代 豊通
  11. 11代 隆通
  12. 12代 元通
  13. 13代 広通
この間、室町期には備後守護山名氏に従い、各地を転戦していった。当然ながら、上掲した比叡尾山城を本拠とする三吉氏や、南隣りの南天山城の和智氏などと所領の争奪を繰り返した。
【写真左】三の丸
 城域の主だった所は最近除草作業が行われていたようで、遺構の確認が容易に行われた。

 甲山城の郭には写真に見えるように、先端部に土塁遺構が良好な状態で残っているか所が多い。
 三の丸は、本丸南に設けられ、二の丸より1.5~2.0m程度の段差を持たせている。


塩冶(尼子)興久の謀叛

 出雲国の尼子経久には3人の嫡男がいた。長男政久は永正10年(1513)9月、阿用城(雲南市)の桜井宗的を攻めていた時、矢が刺さって戦死し、二男国久は新宮党の頭首となった。そして三男興久は西方の塩冶氏(塩冶高貞の末孫)に養子として入り、塩冶興久を名乗った。

 興久はその後、所領の多寡に不満を持ち、父経久に対して刃を向けた。このことがきっかけとなって、佐陀(宍道湖北岸)において経久の軍と、興久の軍が激突した(平田城・その2(島根県出雲市平田町)参照)。天文元年(1532)8月のことである。
写真左】井戸跡
 現地はほとんど埋まっているが、数か所残る井戸跡の一つで、本丸下東方のもの。







 興久の軍は大敗を来し、米原小平内などの助力によってからくも逃れ、興久自身は、彼の妻の実家である備後国甲山城へ奔走した。

 甲山城には、舅である山内大和守直通がいたが、直通に対する尼子経久からの再三の興久引渡しの催促に抗しきれず、2年後の天文3年(1534)、当城にて興久は38歳の生涯を自ら絶った。
【写真左】塩冶(尼子)興久の墓
 興久の墓は現在尼子氏の居城・月山富田城の麓(道の駅裏)に建立されている。
 父経久の墓は富田城対岸の洞光寺に清貞と共に祀られているが、父を裏切ったことからこの場所にひっそりと佇んでいる。


 その後、彼の首が経久の下に届けられたが、刃を向けた息子の亡骸に思わず経久は、力なく腰を落とし、しばらくは傷嘆が癒なかったという。
【写真左】二の丸
 本丸の西側から北側に廻り込んだ大きな郭となっており、外側には三の丸と同じく土塁が残る。





蔀山城の攻略

 ところで、佐陀城における経久父子の激突に至る前の享禄元年(1528)9月9日、尼子経久は山内首藤氏の初期の居城・蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を攻略している。
【写真左】蔀山城遠望
 江の川の支流神野瀬川上流の庄原市高野町にあって、ここから6,7キロ余り北方に進むと、大貫峠を越え出雲国(島根県仁多につながる。この写真は、西麓側から見たもの。



 これは、上掲した説明板にもあるように、蔀山城は後に初代通資の弟通俊に譲り、通俊は姓を山内首藤から多賀山氏と変えた。

 尼子経久の攻略の理由は、このころすでに興久の謀叛が顕在化し、興久に与することを鮮明にしていた山内首藤氏の庶家多賀山氏が、備後最北の位置にあったことからと思われる。

 蔀山城のこのときの防戦は約1年弱続いたが、7月に落城した。その後、多賀山氏は毛利氏の麾下となったが、天正19年(1591)、輝元より改易を申し渡され、当城は廃城となった。
【写真左】本丸・その1
 30m×12mの大きさを持ち、中央部には写真にみえる高さ2mの櫓跡が設置されている。





天文11年の月山富田城攻め

 以前にも紹介したように、天文11年(1542)、大内義隆毛利元就が尼子氏の居城月山富田城攻めを行い、結果大内・毛利方の総崩れがあったが、そのとき甲山城主山内氏は当初大内・毛利方に属していたが、途中から他の国人衆ともども尼子方に転じている。

 ただ、主家である甲山城主山内首藤氏と庶家である蔀山城主・多賀山氏とは、必ずしも同一歩調をとっていない。特に天文20年、陶晴賢による大内義隆殺害後、山内首藤氏は毛利氏と盟約を結ぶものの、庶家の多賀山氏は尼子方に走ったので、毛利氏は蔀山城を攻め、陥落させた。
【写真左】本丸・その2
 北側から見たもの











 この結果、山内氏が完全に毛利方に属したため、同22年(1553)尼子晴久は甲山城を攻めた。しかし、黒岩城(広島県庄原市口和町大月)・その1でも紹介したように、この年の尼子氏の備後国攻めは敗戦が続き、甲山城攻めも失敗に終わり、次第に尼子氏に陰りが見え始める。
【写真左】二の丸から本丸を見る
 写真左の切崖側が本丸で、右側平坦部が二の丸
【写真左】艮神社跡
 二の丸の末端部にあったもので、現在は甲山城の南麓に移設されている。
【写真左】甲山城から南東方向をみる
 写真左が東方の庄原市街地となるが、当山南麓部は広大な田園地帯である。

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