2014年1月23日木曜日

源希義墓所(高知県高知市介良)

源希義 墓所(みなもとまれよし ぼしょ)

●所在地 高知県高知市介良
●遺構 源希義神社・西養寺跡・横山城・朝峯神社その他
●探訪日 2013年12月25日


◆解説
 源希義については、以前土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)でも述べたように、父義朝や兄頼朝らが蜂起した平治の乱の際、平清盛によって鎮圧され、土佐の国に配流された武将である。
 そして、その後治承4年における平家追討の兵を挙げた伊豆の頼朝とともに、配流先である土佐において蜂起したが、平家方の近藤(蓮池)家綱らによって殺害された不運の武将でもある。
【写真左】源希義の墓
 一般的な五輪塔あるいは宝篋印塔形式のものでなく、後段で示すように「無縫塔」と呼ばれる石塔である。

 希義の墓としているのは、この場所が西養寺跡であったことから希義の墓として祀り伝えているという。





現地の説明板より

“悲運の若武者 源 希義

 平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源氏の棟梁、源義朝は尾張国内海の長田荘司忠致に入浴中だまし討ちにあい、源氏一族の命運は尽きたかに見えましたが、平清盛の継母・池禅尼の計らいで助命され、頼朝(当時13歳)は、伊豆国、蛭ヶ小島へ配流され、牛若(後の義経、当時1歳)は、京の鞍馬へ押しこめられます。

 兄頼朝と同じ父(源義朝)、母(熱田神宮藤原季範三女)、由良午前)の元に生まれた実弟、当時3歳の希義も源氏の本拠、東国を目指し乳人に連れられ、落ち行く途上香貫(かぬき)(沼津市内)にて、平家方追補の手にかかり、ここ介良に配流されます。

【写真左】介良の史跡・自然めぐりコース案内図

 介良は高知市の東方にあって南国市と境を接するが、この図にもあるように、中央の希義の墓のほか、近くには横山城、朝峯神社、介良城などがある。

 なお、今回の探訪は希義の墓が目的であったため、上記2城は訪れていない。


 介良における希義は、厳しい平家方監視の中、仇と思う平清盛への憎しみ、命の恩人とも思う池禅尼への感謝の心の葛藤を胸に秘め、隠忍の日々を強いられます。
 土佐における平家方有力武将、平田太郎俊遠の妹とも、また俊遠の娘ともいわれていますが、平家方有力武将ゆかりの娘を嫁に貰います。希義は、仇と思う平家また愛したであろう妻は、平家方武将の娘、その心中たるや察するに余りあります。
【写真左】朝峯神社
 付近には駐車できる場所がほとんどなく、東に数百メートルむかった駐車場のある当社に先ず向かった。

 この辺りの旧地名は、長岡郡介良村雷電という場所だったという。
 主神は佐久耶姫という絶世の美女神不二の山にちなんでいる。富士山の本宮浅間神社(静岡)より勧請され、戦国時代長宗我部氏も尊信厚く、神領田50余か所寄進し、江戸期藩主山内家祈願所8所の一つとされた。


 栄耀栄華を極めたさすがの平家も人心離反し、落日の如き平家の威光の下、土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家と、打倒平家の夢を描いたであろう希義は、平家方の知るところとなり、先手を打った平家軍の前、敗走したのでしょう。

 東の夜須氏をひいてはまだ見ぬ兄、頼朝の居わす鎌倉目指し、東走するも夜須氏率いる救援軍は間に合わず、現南国市鳶ヶ池中学校正門付近で首討たれます。時は寿永元年(1182)9月25日のことでした。
【写真左】介良城
 朝峯神社の向背の標高170m前後の山は、介良城という。
 後段で示す横山城(花熊城)の詰城といわれているが、詳細は不明。
 この写真左に見える川は、介良川で、この川沿いを西に進む。


   時に希義には陸盛、希望という二子、また「希望」一子という説があります。
 平家の威光を恐れず放置されたままの希義の遺骸から遺髪をとり、荼毘に伏し手厚く葬った僧琳猷は、頼朝が天下を治めた後、希義が一子希望を鎌倉へ引きつれ遺髪を献上すると、頼朝は「亡魂再来」と涙したといわれます。

 征夷大将軍・源頼朝の庇護を受けた希義が一子源希望は、現春野弘岡の地で基盤を固め、後の戦国時代の七守護の一人「吉良氏(ここ介良は元々気良(きら)」へと続くも、吉良宣直は天文9年(1540)平家八木氏の末裔といわれる本山梅渓に、仁淀川で鵜飼のおり、攻撃を受け自刃に追いやられます。
【写真左】介良川と横山城
 左にみえるこんもりとした藪のようなところが横山城の一角で、登城道を探してみたが、案内標識も見えなかったので、このまま先を進んだ。


 しかし、吉良宣直の父吉良伊予守宣経は、天文年間(1532~55)周防の大内氏の元から流浪の南村梅軒を招き、儒学の一派「南学」(海南朱子学)の発祥、普及しその行動的な教えは幕末勤皇志士の思想基盤を形成しました。
 源希義の威光は、今日まで我が国の隅々まで照らしたもうているのである。

  平成7年(1995)9月25日 没後813年
源希義公を顕彰する会”
【写真左】案内板
 源希義公墓所・西養寺跡、左手花熊城跡、小笠原和平墓・◇◇瑞山姉美多墓、とある。

 この道は幅1m足らずの路地で、先に行くと農道のような狭い道となっている。



介良(けら)

 希義の墓などがある高知市介良という地区には、中世史跡はもとより古代遺跡も多数あり、往古より当地において人の営みがあったところである。
 また、その特異な地名である「介良(けら)」も、上掲の説明板にもあるように、元は「気良(きら)」とあり、のちに希義後裔の吉良宣直へと繋がる。
【写真左】「小松石の由来」及び「土佐藩主山内氏と源氏のかかわり」と書かれた掲示板









 “小松石の由来

 打倒平家に立ちあがった源頼朝は正室政子の父北条時政の支援を得て、伊豆国目代山本判官兼隆を討ち、初戦を飾るが石橋山の戦いでは、再起不能と思われるほどの大敗を喫した。

 頼朝は千葉氏を頼り、千葉県鋸南町竜島目指して神奈川県足柄下郡真鶴町から船で退いている小松石は、この頼朝船出の地真鶴町の産する西日本のアジ石に相当する名石である。
 源希義公を顕彰する会”

“土佐藩主山内氏と源氏とのかかわり

 初代土佐藩主山内一豊の祖は、藤原鎌足に出、平将門征伐の藤原秀郷に続きその6代後の首藤助通は、源頼義の郎党7騎の1人に数えられます。

 さらにその3代後の俊通は4代目俊綱と共に北鎌倉の山内庄を領し、初めて山内氏を称します。
 この俊綱の妻は、源頼朝の乳母摩摩局である。”
【写真左】周辺部
 希義の墓があるのはこの写真の右側の丘陵地だが、前段で紹介した横山城は、左側の小丘陵地で写真には写っていない。

 おそらく当時は右側の丘陵地が左側(住宅が見えるところ)の方まで伸び、横山城は北側に突出した位置にあったものと思われる。

 なお、冒頭で紹介した「介良城」も含め、希義の墓や横山城があったこの地域は、鎌倉時代には南方の鉢伏山(H213m)を頂点とする島嶼であったと考えられる。

 そして、その西隣には五台山(H:139m)の孤島が、そして南側には現在の下田川が西から東にむかって瀬戸を造り、その南岸には大畑山(H:143m)を西の起点として東の国政付近まで長く伸びた島嶼の南麓が、太平洋の荒波を防波していたものと思われる。
 
 従って、横山城などは海城であり、この海域には多くの船が航行していたものと考えられる。


【写真左】西養寺跡と源希義墓地
 耕作放棄地となった畑を進み、数か所の墓が点在している所から、右(東)に折れると、やがて西養寺跡並びに、希義の墓地とされる箇所に突き当たる。

 墓(無縫塔)の箇所の上の段には祠が祀られているが、この墓所のさらに下には神社も鎮座していた。


説明板より

“西養寺跡無縫塔

 無縫塔は無辺際の宇宙を表しており、禅宗に発する。西養寺跡無縫塔は花崗岩製の単制無縫塔で、台石の上に請花、さらにその上面に八葉の蓮弁を刻する。塔身正面には種子を刻した月輪の痕跡が見られる。
【写真左】源希義の墓(無縫塔)













  この型の無縫塔は京都市大徳寺開山塔(建武4年:1337)を古例とし、14世紀半ばから15世紀にかけて成立した。以後時代とともに形状を変えていくが、本無縫塔は形状から、県内における数少ない室町時代の無縫塔のひとつと思われる。

 石塔は本来、供養塔としての意味を持つが、この無縫塔が誰のために建てられたのかは明らかでない。『吾妻鏡』には、西養寺が源頼朝の弟・希義の菩提を弔うために建てられたとある。この地が『西養寺文書』に記されている西養寺跡に当たることから、地元ではこの無縫塔を源希義の墓として祀り伝えている。
  1994年12月 高知市教育委員会”
【写真左】点在する五輪塔
 近くにはご覧のような五輪塔が10数基並んでいる。
 希義の随臣者たちのものだろうか。
【写真左】介良を中心に東西に点在する史跡を紹介した配置図
















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