2014年11月29日土曜日

仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)

仁宇城(にうじょう)

●所在地 徳島県那賀郡那賀町仁宇
●別名 和食城、仁宇山城
●高さ 60m
●築城期 戦国時代
●築城者 湯浅兼朝
●城主 山田宗重
●遺構 土塁、郭
●備考 阿波九城。蛭子神社
●登城日 2014年3月18日

◆解説(参考文献 福永素久「阿波国蜂須賀氏の支城「阿波九城」について」『史学論叢.37』pp.37-59等)

 仁宇城は、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)でも紹介したように、天正15年(1585)、蜂須賀家政が阿波に入国した際、設定した阿波九城の一つで、那賀川中流域にある四国八十八ヶ所霊場第21番札所・太龍寺の麓に所在する丘城である。
【写真左】仁宇城遠望
 太龍寺に向かうロープウェイの中から見下ろしたもの。








二つの比定地

 ただ、当城については比定地が確定しておらず、これまで二つの説が挙げられている。
 一つは今稿に紹介する那賀川右岸に建立されている蛭子(ひるこ)神社境内とするもの、もう一つは蛭子神社より西へ約1.8キロほど向かったところのものである。

 そして徳島県発行の遺跡分布図では、蛭子神社を「和食城」とし、西方にあるものを地名をとって「小仁宇城」としている。
【写真左】仁宇城近影
 仁宇城(蛭子神社)は、この写真でも分かるように、北側は那賀川を濠の役目としていたようだ。
 しかも、その土手面は切崖となっている。



湯浅対馬守

 天正13年(1585)に蜂須賀家政が入国するまでの城主で、家政が入部した際、湯浅氏を中心とする仁宇谷衆は家政に対し一揆を起こした。しかし、鎮圧され、その後家政の命によって一揆を鎮圧した山田宗重が当城の城代となり、5,000石を有したという。
 その後、江戸期に入ると一国一城令によって寛永15年(1638)に廃城となった。

 ところで、当地はこれ以前に、白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)の稿でも述べたように、天正5年3月、当時阿波国の実力者となった三好長治が、主君であった細川真之を仁宇城の東方1キロにある茨ヶ岡城に攻めたが、逆に真之らを支援した一宮城主・一宮成祐(一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)参照)らによって長治は討死することになる。

 なお、後段で細川真之の墓を紹介しているのでご覧いただきたい。
【写真左】案内図
 当地の「鷲の里 わじき ふるさとマップ」を紹介したものに手を加えている。

 なお、仁宇城から東方に700mほど向かったところには、茨ヶ岡城がある。この日は時間がなく、登城していない。


蛭子神社
 さて、蛭子神社境内全体が仁宇城とされているが、当社の縁起由来などをはじめに紹介しておきたい。
  • 延喜式神名帳    和奈佐意富曽神社 阿波国 那賀郡鎮座
  • 祭神          蛭子大神 天照皇大神 素盞嗚神 (配祀)瓊瓊杵尊 大国主神 春日大神 三輪大神 嚴嶋大神 鹿嶋大神
  • 縁起          天長2年(823)空海遷宮
また、室町戦国期においては、阿波守護職で管領であった細川澄元が、永正2年(1505)流鏑を奉納している。

遺 構
 遺構については、福永素久氏による調査報告「阿波国蜂須賀氏の支城「阿波九城」について」に詳細が述べられている。
【写真左】蛭子神社入口付近
 南側にあるもので、手前の道を右に行き、北に行くと那賀川を渡る橋がある。
 その橋を渡っていくと、太龍寺のロープウェイ乗り場がある。


 これによると、東面から北側(那賀川側)にかけて櫓台(幅の広い土塁状のもの)が囲み、東側には土橋があり、この箇所に虎口があったものとされている。

 形態としては空堀で囲った方形居館ではなかったかとされている。

【写真左】夫婦杉
 境内を入ると左側に巨大な杉がたっている。「夫婦(みょうと)杉」という。








説明板より

“この夫婦杉は奈良時代に植えたもの。
 天保10年6月、海部郡那賀郡の代官に就任した高木真蔵が、徳島から日和佐の御陣屋の行帰りの旅日記「南覉漫詠(なんきまんえい)」の一部に

 この邨(むら)に蛭子(ひろこ)の宮あり その前に相生杉とていと太く梢遥かなる
杉の根は一本(ひともと)にして 二木(ふたぎ)立ちたるが 左右さし向ひて 四本生えたり

 とし月を幾代(いくよ)かすぎのひとつ根の 何にし二木と生きわかれけむ
 (いく年も経た杉の一つの根元から何故二つに生き別れたのだろうか)
と書かれている。
 高木真蔵は本居宣長大人(うし)の孫本居内遠(うちとお)の弟子であった。

 平成25年7月8日
         蛭子神社”
【写真左】本殿
 この後から右にかけて土塁などの遺構が残る。
【写真左】境内
 振り返って見たもので、当社境内には夫婦杉以外にも古木・巨木が多い。

 このあと、外周部に廻る。
【写真左】北側櫓台
 幅の広い土塁形式のもので、櫓台の用途ととして使われたものだろう。全体に境内のレベルより1~2m程度高くなっている。

 奥下に見えるのは那賀川。
【写真左】西側面から見たもの
 櫓台の北端部(川側)は少し高くなっており、当時はこの上に土塁が構築されていたのかもしれない。

 さらに東に進む。
【写真左】櫓台北東部
 この位置になるとさらに北端部は高くなり、法面の形を見せる。
【写真左】土塁
 この箇所は明瞭に残る土塁で、東側に認められたもの。

 なお、福永氏の報告に「土橋」遺構があると記されているが、確認できなかった。
【写真左】大楠公之像
 昭和14年に建立されたもので、大楠公(だいなんこう)、すなわち楠木正成である。

 南北朝期、当地では南朝方として活躍したものがいたということだろうか。
【写真左】社日祭の幟
 外にはご覧の幟が建っていた。社日祭という祭事が行われていたのだろう。

 このあと、細川真之の墓に向かう。





細川掃部頭真之の墓

 前記したように、仁宇城から南に約1キロほど向かったところに、細川真之(さねゆき)の墓がある。
【写真左】細川真之の墓
 現地にはご覧の祠と、傍らには五輪塔の一部が残る。








現地の説明板より

“細川掃部頭真之の墓
 天文23年(1552)真之は、阿波国守護・細川持隆の長子として生まれる。
 天正4年(1576)真之は、三好一族のものとなった勝瑞城をひそかに逃れ、勝浦、那賀の豪族の助けを得て、この地に砦を構え国主の座を奪った異父弟・三好長治に反旗を翻した。
【写真左】署名簿の箱と石碑
 参拝者に署名を依頼する箱が設置されている。









 天正5年この動きを怖れた三好長治は、大軍を率いて攻めかけたが、険峻な山塁に拠って戦う真之の軍勢を打ち破ることができるばかりか、国内諸豪族の反乱に怯えて敗走し、板野郡長浜で自害する。
 この戦いで勝利を得た真之は、茨ヶ岡城を築き阿波国統一を夢見るが、仁宇谷地方の山岳武士団の夜襲に遭い、天正10年(1582)10月8日、この地において自刃して果てた。

 平成2年6月
  (文責 山住国彦)
 鷲敷町史跡顕彰会建碑”
【写真左】真之墓から茨ヶ岡城方面を見る。
 おそらく手前左側の山と思われるが、墓からもさほど遠くないようだ。






 真之が自刃したのが天正10年であるから、丁度織田信長が本能寺の変で亡くなった年と同じである。

 なお、上掲に天文23年(1552)と書かれているが、天文23年は1552年でなく、1554年になる。
【写真左】茨ヶ岡城遠望
 太龍寺ロープウェイから見たもので、当城の裏側に真之の墓がある。







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