2010年9月21日火曜日

伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)

伊甘山安国寺(いかんざん あんこくじ)

●所在地 島根県浜田市上府町イ65
●探訪日 2010年9月18日
●創建 和銅年間(708~714年)

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
 前稿まで益田氏関連の史跡を投稿しているが、益田氏が第4代・兼高の代に益田に移住する前の御神本氏時代に関する事項を記していないので、今稿では、主として上府地域(現浜田市)にある史跡を中心に紹介したいと思う。

御神本氏三代の墓

 藤原定道は、永久2年(1114)6月、前任者藤原貞仲のあとを受けて、石見の国司となる。任期が終わってもそのまま上府村御神本に土着し、名前も藤原定道から、当地の名をとり姓を御神本(みかもと)とし、名を国兼と改めた。
【写真左】安国寺山門
 当院はごく最近改修されたようで、本堂も含めほとんどの施設が新しい。







 国兼が国司として在任したのは4年間で、その後藤原盛重が来国し、その任を引き継いだ。したがって、国司として御神本氏が務めたのは国兼の代だけである。
 国兼のあと、子の兼実、孫の兼栄の代になると、公卿の門閥を捨て、武士として生きることになる。

 御神本国兼・兼実・兼栄の三代の活躍の場は、当時伊甘郷といわれた現在の浜田市上府・下府地域である。当然ながらこの地には、国府跡・国分寺跡などが残っている。

 今稿のタイトル「伊甘山安国寺」は、この上府町に所在し、当院には件の御神本三代の墓があり、「益田御廟」と伝えられ残っている。
【写真左】御神本氏の墓その1
 当院の本堂裏を少し上がったところの階段状になった墓地にある。
 形式は宝篋印塔のようだが、三基とも原形を留めておらず、部位が散在しているように見えた。
【写真左】御神本氏の墓その2
  「益田市誌・上巻」によると、三基の中の中央のものが、御神本国兼(益田国兼)のものだと記してある。
 現地の配列と状況を考えると、どれが中央のものか分からない。

 さらに不可解なのは、同誌に掲載されている国兼の墓の写真を見ると、その周辺部が、この安国寺境内の景色と合致しておらず、下段に示す「下府廃寺塔跡」に設置されている宝篋印塔とほぼ同じで、この墓を「国兼の墓」としていることである。


 現地の説明板より

伝 御神本三代の墓

 御神本兼高は、父祖以来四代石見国府庁役人として、この地に定住していた豪族である。
 寺伝によれば、兼高の祖・藤原定通(道)が、1114年(永久2年)石見国司として、伊甘郷上府の地に土着し、御神本国兼と称したといわれていた。

 この寺域にある三基の古墓は、国兼、その子兼実、孫の兼栄(かねひで)といわれている。
 兼栄の子兼高は、一の谷、壇ノ浦の合戦に石見軍を率いて源義経のもとで働いている。
 1184年(元暦元年)の源範頼の領地安堵状によると、所領は安濃邇摩、邑智、那賀、そして美濃の各郡にあり、特に後二者に多く、かつ国衙領に多くあって、有力な国庁権力者であったことを示している。
【写真左】安国寺境内の御神本氏三代の墓の下の段にあった宝篋印塔
 この宝篋印塔は一基で、特に説明板などはない。御神本氏に関係した武将のものだろうか。

 南北朝のころ、跡市の本明城及び今市の家古屋城を居城とした福屋氏、周布の鷹巣城にいた周布氏、三隅高城山にいた三隅氏等は、いずれも南朝方、足利直冬方として活躍し、益田氏は主として北朝方、足利尊氏方として戦っている。

 戦国の世には、一族は大内に従い、また、尼子の配下となるが、三隅福屋の二氏は早く滅び、周布氏と益田氏の末裔は、毛利に従って長州に移っている。
 当寺は、もと天台寺院福園寺であったが、益田氏によって禅院に改められ、足利尊氏これを石見の安国寺としたのである。なお、この寺にある「天邪鬼」は地方住民の信仰が厚い。
    2000年4月 記   安国禅寺”
【写真左】笹山城跡遠望
 安国寺の麓を流れる下府川を挟んで西方1キロにある山城で、この北麓に「下府廃寺塔跡」がある。

 笹山城については、南北朝時代、新田義氏や、日野邦光らが居城したと伝えられているが、それ以上の詳細な記録が残っていない。

 おそらく、当城はそれ以前の平安末期から鎌倉期にかけて、御神本氏と何らかの関係のあった城砦と思われる。
 ただ、当城と御神本氏がかかわったという明確な記録は、文献にも見えない。

 しかし、安国寺付近から下府川をさかのぼると、1キロ先には「八反原城」があり、さらに3キロほど行くと「龍ヶ城」という城砦もあるが、御神本氏が活躍した上府・下府の地理的環境を考えると、笹山城が御神本氏の居城であった可能性が高い。
【写真左】下府廃寺塔跡
 笹山城の北麓に設置されている。
 少し長いが、写真の説明板の内容を記す。

国指定史跡 下府廃寺跡(指定名称 下府廃寺塔跡)

 この地に古代寺院跡があったことは、古くから知られ、国鉄広浜線(現在は市道下府上府線)建設の際、下府廃寺塔跡として国の史跡に指定された。

 その後、平成元年から平成4年に浜田市教育委員会により発掘調査が実施され、塔を東、金堂を西に配した「法起寺式」の寺院であったことが判明した。出土した瓦や土器から県内では最も古い白鳳時代末~奈良時代初め(7世紀末~8世紀初めごろ)に創建され、平安時代前半(10世紀)まで存続したものと考えられる。
【写真左】下府廃寺塔跡に見える宝篋印塔
 写真奥にある宝篋印塔の詳細写真は下段に載せているが、この写真の右奥に「笹山城」が位置している。
 この写真の奥に見える宝篋印塔が、前記した国兼の墓として「益田市誌・上巻」では紹介している。


 現在見られる礎石は、塔の中心柱を支える塔心礎で、柱をはめ込むための円形の窪みや、舎利を納める円形の穴が確認できる。

また、この塔心礎の周辺は、周囲に比べて一段高くなっており、塔の基段の痕跡を残している。
 塔は発掘調査の結果、7.2m(24尺)四方、基壇は13.2m(44尺)四方と推定され、その構造などから五重塔であったと考えられる。

 この塔から西側約6mには、金堂跡が発見され、基壇の規模は東西15.4m(51尺)、南北約13m、建物は4×5間で、中央に仏像を安置していたと考えられる。なお、講堂や中門、回廊などの施設は確認されていないが、地形などから寺域は約109m(1町)四方と推定される。

 出土した軒丸瓦の文様には、創建時のものと考えられるこの寺独自のものや、修理で使用された石見国分寺跡や、旭町重富廃寺、大田市天王平廃寺出土瓦に似たもの、さらに近畿地方の瓦文様に近いものなどが認められ、寺院を建立した豪族の活動範囲を窺うことができる。

 なお、ここから東約500mにある片山古墳は、石見地方を代表する7世紀の古墳で、この古墳の後継者が下府廃寺を建立したものと考えられ、これらは石見の古墳時代から奈良時代を考える上で重要な遺跡となっている。
  昭和12年(1937)6月15日指定
  平成13年(2001)3月 島根県教育委員会、浜田市教育委員会”
【写真左】下府廃寺塔跡にある宝篋印塔・その1
 刻銘された文字が風化のため、はっきりしないが、「石見国那賀郡伊甘郷」とあり、その左側には「寛延…」とも読める。寛延となると江戸期になるので、建立されたのは鎌倉・南北朝期でないということになるが…。

【写真左】その2

3 件のコメント:

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  2. 現場をやっと訪れてみました。 中世から近代の中国地方で歴史に残る人材の活躍のルーツの一つです。地域が当時から活性化した理由には様々な人材の輩出があったからですね。 合掌

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  3. 古くからの歴史が静かに伝わってきます。石見地域は日本海側で冷冬域ですが、海運によい湊の地形と社会に有用な金属鉱山(世界遺産含む)が発達し、(古代から始まり)中世・近代の中国地方(京近畿・関東・四国一部交流含む)で繁栄し活躍した拠点の一つです。当時武士社会で発揮された働ける生活の場の維持拡大を求めて、江戸萩藩・明治以降にも組織の要職等で生かされていると思われます。地域が当時活性化した理由には、このように長い歴史の場で培われ生き残る人材が輩出してますね。地域の見直し再興に生かされれば、素晴らしいことです。 

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