2010年9月5日日曜日

茶臼山城(島根県浜田市三隅町岡見 栗畑)

茶臼山城(ちゃうすやまじょう)

●所在地 浜田市三隅町岡見 栗畑
●登城日 2010年1月16日
●築城期 不明
●築城者 不明(三隅氏)
●城主 城市新左衛門源重時、寺井伊賀守義信
●標高 292m
●遺構 郭、帯郭、堀切等、麓に屋敷跡

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌・上巻」等)
 先月末に取り上げた「針藻城」でも少し紹介しているが、今稿では、当城から南方に見えた茶臼山城を取り上げる。
 所在地は、三隅町岡見の栗畑・海老谷境に聳える尖り山の茶臼山城(292m)である。
【写真左】茶臼山城主・寺井家屋敷跡・その1
 茶臼山城に向かう道の一つとして最も整備されているのは、国道9号線滝見付近で南に向かう大規模林道である。
 城主寺井家の屋敷跡があるのは、この道路の右側にあるが、写真にある石碑は小さいため、車で走っていると見過ごすかもしれない。
 場所は、海老谷というところで、この位置は茶臼山城の北麓に位置する。
【写真左】寺井家屋敷・その2
 屋敷跡は御覧の通り、荒廃しているが、石垣はしっかりと残り、敷地の段が確認できる。
 写真の左側が茶臼山方面になるが、居城から当該屋敷まではかなりの距離になる。
【写真左】寺井家屋敷跡・その3
 現地には写真に見える瓦片が散在している。
こういうのを見ると、非常にリアリティを感じる。
【写真左】寺井家屋敷跡から茶臼山城を遠望する。
 写真左に見える高圧電線付近が登城路の尾根で、さらに右に向かうと本丸跡に繋がる。手前の樹木の後背付近が本丸と思われる。

現地の説明板より

“茶臼山城は、寺井伊賀守義信居守せる時、元亀元年(1570)毛利氏に攻められ落城した。それまでは、常に三隅氏の支城としての役割を果たしていた。
 弘治2年(1556)当時の城主・城市新左衛門源重時は、励称寺(現在の礼光寺)を開基した。
 永禄元年(1558)、城主豊前守豊臣二郎重直の長臣栗山七郎右衛門発心得度して西蓮寺を開基した(三隅町誌より)。
畑、海老谷集落活性化事業”
【写真左】登城口付近
 写真の右側に最近整備された大規模林道があり、駐車スペースはこの道路の右わきに2台程度とれる。




 以前四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)の稿でも示したように、益田氏が築城した美都町の「四ツ山城」は、後に大内義隆の調停(天文7年:1538)で、三隅氏のものとなり、本城・三隅高城と、この茶臼山城を併せて、後に「三隅3城」としている。

 築城期については、茶臼山城の所在地が四ツ山城と同じく、益田領との境界に近いことを考えると、戦国期よりさかのぼった南北朝初期のころ、すなわち三隅氏の最盛期である兼連の時代と考えられるが、定かでない。

【写真左】茶臼山城跡 登山道案内図
 上の写真に見えるもので、登山道の要所には、ユニークな名称がつけてある。
 この位置から本丸頂上までは、「ゆっくりで30分、1,490歩」と書かれ、登山者にとっては頗る和む案内板である。
【写真左】登城口から少し登った位置から下を見たもの
 写真の後ろに見える方向は、おそらく東方になり、河内城の方向と思われる。
 なお、この位置で標高は137mであるから、本丸まで比高160m弱になる。


 その後、「三隅3城」として定着したのは、前述したように天文7年のころと思われ、このころの各城主は次の通りとなっている(「益田市誌・上巻」)。

(1)三隅高城  城主・三隅兼頼入道藤原兼岳
(2)茶臼山城  城主・寺井伊賀守義信(※)
(3)四ツ山城  城主・須懸備中守忠高
【写真左】三隅高城及び水来山城を遠望する。
 登城してすぐに、「見返り坂」という地点に差し掛かり、右手を見ると、写真に見えるように、左側に水来山城、右側に三隅高城がくっきりと望める。
 頂上部の本丸からも当時はこれら三隅氏関連の山城が数多く見えただろうが、現在本丸周囲の雑木が完全に遮っているため、この場所からしか見えない。



 このことから、本稿の茶臼山城主・寺井伊賀守義信は、天文7年(1538)入城以来、元亀元年(1570)までの32年間当城に拠ったことなる。

 しかし、「三隅町誌」では、茶臼山城の城主については、
 「常に一定の城主というものはなく、三隅氏がその守将を派遣して、この城の守備をさせたもようである。」
 とし、説明板にもあるように、弘治年(1556)には、城市新左衛門源重時が、また、永禄元年(1558)には、豊前守豊臣二郎重直と記している。
【写真左】観音堂跡
 登城途中にあった観音堂跡。登城口から少し登った「見返り坂」手前で、林道を挟んで反対方向に5体程度納められた小祠が見えたので、おそらくそれが移設された観音堂と思われる。
 この個所からしばらく行くと、最初のピークが見える。


 ただ、本稿の写真でも紹介しているように、「寺井氏の屋敷跡」が麓に残っていることを考えると、寺井氏が相当長く居城した可能性が高い。

 元亀元年の茶臼山城攻めについては、説明板にもあるとおりだが、このころ15代三隅城主とされる三隅隆繁は、益田藤兼に完全に抑え込まれ、隆繁自身は事実上益田氏によって軟禁されたような状況だった。
 下段に示すものは、「石陽軍見聞記」のくだりだが、茶臼山城へ攻めよせるその1ヶ月前の7月29日に、針藻城(8月31日投稿)へ攻めよせている。

 ”三隅氏の守将、宇多源氏の末流寺井伊賀守義信の居守せる時、元亀元年8月、安芸の毛利氏三隅城を攻略するに当たり、芦谷・相良・大崎等の諸将5000の兵をもって、27日先ずこの城(茶臼山城)を攻める。

 城兵よく戦いたりといえども、相良が家臣寺山五作清武なるもの謀計を回らし、密かに人夫を集めて山の尾を一文字に掘り切り、水の手を止めたれば城中水に渇し、今は次第に勢力尽きて、ついに守将寺井伊賀守をはじめとし、諸卒1500人悉く毛利に降参したり”
【写真左】分岐点
 手前が登ってきた道だが、ここで右側からの道と交差し、一方は畑登山口方面へ、もう一方が茶臼山方面へ向かう。
 なお、右側の道はおそらく旧道で、最初に紹介した寺井家屋敷跡へ繋がる道だったと思われる。
 この後からは傾斜がかなりきつくなる。


 毛利勢は、ほぼこれと同時期には「四ツ山城」へ、熊谷伊豆守・大友豊後守らを向かわせている。そして、後半になると、三隅本城へ攻め向かうことになる。
 ただ、8月25日になると、芸州から、「尼子勝久らが大森銀山に押し寄せた」との飛脚が入り、吉川元氏は、一旦三隅諸城を益田・秋月らに任せ、27日出雲へ帰陣している。

 茶臼山城が落城したのは、その後であるが、寺山清武が水の手を止めた(懸樋の切断)のは、吉川元氏の帰陣直後と思われ、おそらく8月中に茶臼山が堕ちていると思われる。また同じく「四ツ山城」の落城も、同年8月29日、城主・須懸忠高は500の兵と共に自刃した。

 参考までに、三隅本城の落城時期は、史料に若干の違いはあるものの、翌月の9月26日(又は5日、あるいは正月28日)に落城している。
【写真左】「一休みの丘」という個所
 標識の下段には、「汗をふいて、次の登山にそなえよう」と書かれている。確かに、この個所はすこし休憩したくなるところである。
 なお、人工的な遺構は感じられないものの、まとまった平坦地であることから、郭としての機能は十分あった場所と思われる。

【写真左】「ロマンス坂」
 しばらく緩い坂が続く。「話ながらゆっくり登りましょう」とある。実際は、呼吸が大分乱れ、「話」をする余裕はなかったのだが…
【写真左】「夫婦坂」
 「人生を振り返りつつ助け合って」とある。
 だんだんと傾斜がきつくなり、脇の縄ロープに捕まりながら一歩づつ進む。連れ合いは、いつものように、登りは四足の孫(チャチャ)に引っ張ってもらい先に進む。「夫婦坂」を当方は「フーフー」いいながら、登る。
 余談ながら、下りのチャチャの担当は、当方だが、犬にとってはつづら折りの坂は面倒くさく、直滑降で向かうものだから、それを修正するのに一苦労である。


【写真左】やっと本丸が見えてくる。
 「夫婦坂」を過ぎると、さらに傾斜がきついため、その個所は「千鳥坂」と命名してあった。脇付に「もうちょい坂とも人はいう」とある。
 距離はさほどのものでないが、小規模な山城の割に、本丸直下の傾斜がこたえる。
 攻める側も、この地点に来て相当苦労したのではないだろうか。
 このためか、周囲を見渡した限りでは、竪堀のようなものは確認できなかった。
【写真左】本丸下東側の帯郭
 郭段の数はさほど多くなく、写真にあるように本丸下の東側に4、5m幅で北に伸びる郭が確認できる。
【写真左】本丸跡
 長径20m、短径15m程度の長方形の大きさで、この個所は整備されている。

【写真左】「三隅高城と内郭外郭城跡案内図」
 本丸跡に設置されたもので、周辺の城跡配置が示されている。
 ①の高城山三隅城から始まって、⑲の古和城まで列記されている。茶臼山城は⑩に記されているが、このような案内図は、三隅高城にも、針藻城の現地になかったので、当城だけに設置されたものだろう。
 いずれ機会があったら、他の城跡も探訪してみたいものだ。ただ、奥に行くに従って「クマ」の出る確率が高くなるので、事前の十分な下調べと準備が必要だ。
【写真左】北の方向に「針藻城」
 本丸跡には、東西南北に向かって、それぞれの城跡を示す案内標識が建てられている。
 参考までに、西方は「源田山・大多和外(おおたわげ)城」、南方は「四ツ山城」「矢原城」「古和城」、東方は「三隅高城」「河内城」などである。

【写真左】本丸から北に伸びる郭
 茶臼山城の遺構部で、規模的に一番大きいと思われるのが、この郭である。
 本丸から北北西へ伸びる郭だが、この日50m程度まで進んだものの、途中からブッシュで断念した。
 尾根伝いに伸びるもので、次第に細尾根になるものの、おそらく200~250m程度はあるだろう。まとまった部隊が駐屯するにはこの場所が最適だったと思われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿