2014年2月9日日曜日

脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)

脇屋義助廟堂(わきやよしすけ びょうどう)

●所在地 愛媛県今治市国分4丁目
●探訪日 2013年9月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿来島城(愛媛県今治市波止浜来島)から南に12キロほど下ると、四国霊場第59番札所・金光山最勝院 国分寺がある。この地域は往古伊予の国府があったところで、いわば伊予の文化経済発祥の地でもある。

 甘崎城(愛媛県今治市上浦町甘崎)でも述べたが、平安期には藤原純友による天慶の乱において当地もまた灰燼に帰した。更に南北朝期になると、南朝方が最後の砦として戦った地域でもある。そして、南朝方の総帥・脇屋義助がこの地で病没したところでもある。
【写真左】脇屋義助廟堂
 後段にもあるように、この廟は江戸時代に建立されているもので、円柱型の形式のものとなっている。






脇屋義助

 脇屋義助についてはこれまで、

脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)
田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)
星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)
世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)
備中・福山城(岡山県総社市清音三因)
川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)

 などで度々取り上げてきたので、本稿では詳細は省くが、南北朝期に活躍した南朝方の武将で、新田義貞の実弟である。
 兄の新田義貞が亡くなった後、南朝方の総帥として伊予今治において北朝方と最後の戦いを決するべく、越前から赴くが、不運にも当地で病没した武将である。

 彼の墓としては、上掲の鳥取県倉吉市大蓮寺のものを既に紹介しているが、当稿でも述べたように、この墓は、いわゆる供養塔(山名時氏によって建立されたと思われる)であって、今稿紹介するものが本当の墓ということになる。
【写真左】四国霊場第59番札所・金光山最勝院 国分寺 本堂
 四国の霊場に近い山城探訪の折は、できるだけ札所にお参りしてから向かうようにしている。

 遍路さんたちのように、正式な参拝や読経はできないが、それでもなんだかんだで、半数(44)以上の札所には参拝してきたようだ。

 
現地の説明板より

“脇屋義助公廟堂の由来

 延元元年(1336)5月、楠木正成、新田義貞らの連合軍を摂津国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年6月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院統の光明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇はひそかに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
【写真左】脇屋義助廟案内の石碑
 国分寺前にある鐘突堂の脇に案内を示す石碑が建っている。







吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟道 是ヨリ二丁

 と刻銘されている。


 そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と、吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。しかし、戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武将が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復するべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予に下した。
【写真左】 春日神社
 国分寺の東隣に祭られている。
縁起によれば、後冷泉天皇の永承5年(1050)8月、国分寺第12世権大僧部雲海が国分寺の鎮守として当社を勧請した、とあり、以前は国分寺境内に本社が建立されていたようだ。

 ちなみに、後冷泉天皇の母・藤原僖子は、平安期摂関政治の頂点に立った藤原道長の六女である。


 興国3年(1342)5月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(今治)の浦に到着した。しかし義助は不運にもその直後に病に倒れ、国分寺に急逝した。薨年(こうねん)は38歳であった。

 この報せをうけた阿波の守護細川頼春は、義助の死を好機とみて、総勢7千の大軍をひきいて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
 熾烈な攻防40有余日、南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。

 現在の義助公の廟堂は寛文9年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
 また、廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
      今治市教育委員会”
【写真左】廟堂脇の坂
 この場所に至るまで案内標識がほとんどなく、大分ウロウロしたが、途中からこの坂に向かう位置にきて分かった。
 写真の左側に入口がある(下段写真参照)
【写真左】入り口の階段
 この階段を上がり、堂の裏に回ると義助の廟堂が建立されている。


 




国分山城・国分寺

 義助廟堂が祀られている箇所は、写真にもあるように、四国霊場第59番札所・国分寺から歩いて東に300m程歩くと、こんもりとした丘があり、階段を登ったところに祠堂が祀られ、その建物のうしろに祀られている。
【写真左】義助廟堂
 裏側から見たもの。











 そしてそこからさらに東に向かうと、標高100m余りの唐子山という山がある。

 この山の頂部を中心に北東麓に屋敷を構えたとされる国分山城がある。

 築城期は不明ながら、文献史料に初めて出てくるのは、興国3年(1342)5月である。上掲の説明板にもあるように、当城に拠ったのはまさに、脇屋義助が総帥となって、南朝方の拠点とした時期である。
【写真左】国分城主・小川土佐守祐忠夫妻、及び家臣の墓
 義助廟堂のすぐ脇には、国分城主・小川土佐守祐忠夫妻等の墓が祀られている。

 戦国期における国分(山)城は、毛利氏(小早川隆景)が伊予平定後、入封のないまま、筑前に転封され、その後福島正則が湯築城から移るも、文禄4年(1595)尾張清州城へ転封。そのあと、池田秀氏が城主となったが、慶長年間の朝鮮出兵で戦死したため、小川祐忠が入った。

 ところが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後領地を没収された。そして戦いのあと入ったのが、藤堂高虎である。しかし、高虎はこの城は近世城郭としては不向きで、結局この城を廃城とし、新たに現在の今治城を築くことになる。



 残念ながら、義助廟探訪のあと、当城に登城すべく麓の登山口を捜したがなかなか見つからず、この日は登城できなかった。いずれ機会があれば、当城も登城したいと思っている。
 なお、当城については、『城郭放浪記』氏がアップされているので、ご覧いただきたい。
【写真左】霊廟のある丘を遠望
 霊廟のある丘を過ぎて、ご覧の堤土手を進むと、国分山城に至る。(下段の写真参照)
【写真左】国分山城遠望
 霊廟側の丘と、国分山城の間には現在鳥越池という溜池がある。

 池の北方は大きく改変され住宅団地が建っているが、東の国分山城と、霊廟側の間にあるこの池は、南北朝期にはおそらく谷を形成し、その南端部は、燧灘と繋がった入江の地勢を見せていたものと思われる。

2 件のコメント:

  1. 返信
    1. ありがとうございます。日本の中世史の中でも南北朝期については戦国期に比べ、いささか地味な印象がありますが、関係した史跡を探訪すると名状しがたい感慨がわきます。
       今後ともご笑覧のほどよろしくお願いします。

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