2014年2月13日木曜日

由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)

由並・本尊城(ゆなみ・ほぞんじょう)

●所在地 愛媛県伊予市双海町上灘
●築城期 南北朝期
●築城者 不明
●城主 合田貞遠・由並(得能通遠)・由並氏
●廃城年 天正14年後
●高さ 180m(比高170m)
●遺構 郭・石塁・堀切
●登城日 2014年1月27日

◆解説(『日本城郭体系 第16巻』等)
 前稿までは燧灘沿岸部の城砦を取り上げてきたが、今稿は伊予灘に面した山城・由並城(本尊城)を取り上げる。

 伊予の高嶺といわれる四国の名峰・石鎚山があるように、当城(当山)もまた、標高は低いものの、その険阻な姿は伊予灘海岸部の山々の中でもひときわ異彩を放つ。
【写真左】由並・本尊城遠望
 当城の西麓を走る国道378号線は、通称「ゆうやけこやけライン」と呼ばれる夕日スポットのエリアで、下山したおり、麓にある道の駅「ふたみ」では、伊予灘の西の彼方に沈む夕日にシャッターを切る多くの人がいた。

 管理人は彼らとは全く反対の方向のこの山を写したが、本尊山も夕日に照らされていた。



【写真左】双海町(ふたみちょう)案内図
 本尊山城はこの図の左上に描かれている。






 登り口西麓に当たるところには南北朝期、得能通時が造営したとされる「天一神社」が祀られ、当城との関わりについて次のように記されている。

現地の説明板より

“由緒

 太古、大己貴命(おおなむちのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱が神が、国内御巡歴の際、本尊山に登られたという故事にちなんで、伊予の国造が神籬を立てて灘浦鎮守の神、本尊の宮としてお祀りしたが、六百余年後の元徳2年(1330年)2月、伊予守得能通時がこの山を居城とするに当たって、社殿を造営したのが、天一神社の起こりである。
【写真左】天一神社参道の階段
 由並城はこの社の向背に繋がっているが、現在は社の後ろにJR予讃線が走っているため、尾根が分断されている。

 当時はこの社の後ろから続く尾根伝いを使った登城道があったものと思われる。


 それから360年を経て、元禄4年(1691)9月、現在の位置に奉遷し、明治43年1月5日、稲荷神社を合祀して天一稲荷神社と改号して現在に至っている。

安産御祈祷の由来
 大洲藩主加藤遠江守通遠の奥方御懐妊に当たり、神官武智肥後が安産御守を謹製して献上したところ、御安産なされたという功績によって大洲候の御祈願所と定められ、安産守護神として崇敬されている。”
【写真左】天一神社本殿
 沿革によれば、、元徳2年(1330年)、伊予守得能通時が造営した社殿(本尊の宮)は本尊山山頂に設置され、元禄4年(1691)に至って、現在の麓に奉遷したとされる。


南北朝期

 上掲の説明板にもあるように、元徳2年(1330)、伊予守得能通時が居城したとされている。ただ、『日本城郭体系 第16巻』では当城の築城期・築城者は不明であるとされている。

 これは、建武2年(1335)7月、諏訪頼重らが武蔵国に進軍し足利直義を打ち破ったいわゆる「中先代の乱」における戦功によって、河野通時(通有の孫・得能通時)が、由並及び中山地方を賜わり領有したことから築城したのではないかというものであるが、時系列的にも符合しないため、想像の域を出ないようだ。
【写真左】天一神社から伊予灘を望む。
 かなり急な階段を上がった所に当社があるため、境内から北の方向に上灘の港や伊予灘、そして対岸の山口県周防大島の島影が見える。


 はっきりしているのは、その翌年(建武3年・1336)、由並城から北方10キロにあった松前城(まさきじょう)に籠城していた合田貞遠が、河野通朝・祝安親らに攻められ敗走して由並城に立て籠もり、最期は火を放たれて落城したという記録がある。この段階では合田貞遠を匿った段階で当城の城主がいたものと思われるが、詳細は不明である。

 なお、河野通朝は、道朝ともされ、当時讃岐の細川氏と激しい戦いを繰り返していた。おそらく合田何某は細川氏に与同していた武将かもしれない。
【写真左】登城開始
 境内の西脇を通っていくと、予讃線に出くわす。信号などない踏切で、左右を確かめ、渡りきると、いきなり登城コースの先端部になる尾根筋の道が待っている。

 周囲はご覧のように笹が繁茂し、道は笹竹のトンネルのような光景がしばらく続く。


由並通遠(得能通遠)

 文献史料で初めて当城主として出てくるのが、由並通遠である。別名得能通遠ともいい、得能氏は、鎌倉期の河野氏23代の通信の子・通俊が分かれて得能通俊を名乗ったのに始まる。

 得能通遠が由並城主となったのは、貞治4年(正平20年:1365)といわれている。このころは南北朝末期で、四国の支配は守護職として最大の勢力を誇った細川氏が支配していくことになる。
 以後、当城は由並氏というおそらく得能氏の後裔とおもわれる一族が代々受け継いでいくことになる。
【写真左】険しくなった尾根始点
 途中までは尾根筋となった道ながら、緩やかな傾斜が続くが、この写真あたりから途端に岩肌が露出し、傾斜がきつくなる。




戦国期

 元亀・天正年間(1570~84)のころ、城主由並通資が河野氏麾下となっていたが、以前にも紹介したように、天正13年(1585)6月、秀吉の四国征伐の命によって攻め入った小早川隆景により開城、暫くして廃城となった。
【写真左】頂上部が見える。
 この辺りで一旦傾斜が落ち着き、幅20m前後×長さ40m程度の郭が確認できる。おそらく三の丸といわれた箇所だろう。
【写真左】二の丸に向かう。
 さらに傾斜はきつくなり、息が荒くなる。
【写真左】鳥居のある郭
 途中までほとんど眺望が望めなかったが、この場所でいっきに伊予灘が眼下に広がった。

 おそらくこの鳥居がある場所が二の丸と思われる。
 前段で紹介した「本尊の宮」の鳥居だろう。
【写真左】本丸遠望
 ここからさらに本丸を目指すが、この段階で連れ合いが拒絶反応を示した。

 この先の道がさらに険しくなることを予想できたからである。

 しかも、その傾斜は下の写真にもあるように、ほぼ垂直となっている。

 さすがに当方も、ロッククライミング並の登城経験はないため、躊躇した。
【写真左】本丸の側壁
 登城道がまさかこんな箇所ではないと思いつつ、トライすることを決断する。

 連れ合いには、鳥居の所で待っているようにいうと、それはそれで心細いという。

 危なくなったら早めの判断で引き返すことを条件に、足を進める。
【写真左】本丸までの道
 上に行けばいくほど細尾根になっていることは予想できたが、左側(海岸部)側壁に生えている笹のおかげで、気分的に恐怖心が薄らぐ。
 ただ、油断すると一気に滑落する。

 連れ合いも恐る恐るついてくる。
【写真左】本丸
 なんとか本丸(詰の丸)にたどり着いた。

 写真の左右とも竹や樹木がなければ、石鎚山頂上の小形版といったところ。

 3,4人もおれば満席という狭い頂部である。
【写真左】三角点
 祠があったところだろう、鬼瓦のような像と、賽銭が積んである。我々も無事登城したのでお礼の賽銭を置く。

 今回も汗が出たが、後半は殆ど冷や汗のほうだ。

 サンドイッチと飲み物を飲みながらしばらく伊予灘を眺望する。
【写真左】右手(松前町方面)を見る。
【写真左】伊予灘を見る
 最近まで地元上灘の漁民の魚見台として使われていたという。正面は遮るものがまったくなく、ここから夕陽を眺めれば最高だろう。
 
 視界が良ければ、周防大島の他、山口県・本土や、九州・国東半島が見えるという。

 中世・戦国期にはおそらく大友氏や毛利氏などが多くの軍船を引連れ往来していたのだろう。
【写真左】明神山
 本尊山の尾根から東に尾根が伸び、約3キロ先に見えるのが標高630m余の明神山である。
【写真左】本丸の東側直下
 本尊山は東方の明神山から伸びた尾根が一旦この山の直前で鞍部を作り、そこから垂直に屹立しこの頂部を構成している。
 まさに天険の要塞である。
【写真左】夕日に染まる由並・本尊城
 麓には「道の駅ふたみ」があり、夕日スポットとして親しまれている。
【写真左】伊予灘に沈む夕陽

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