朝倉義景墓所(あさくらよしかげぼしょ)
●所在地 福井県大野市泉町
●指定 大野市指定史跡
●備考 義景公園
●参拝日 2014年6月17日
◆解説
前稿越前・大野城(福井県大野市城町)でも紹介したように、大野城の麓には一乗谷を本拠とした朝倉義景の墓がある。この場所は、織田信長に攻められ、大野郡(市)に逃れたが、最後は裏切った同族の朝倉景鏡に襲撃され、あえなく自害した所といわれている。
【写真左】「朝倉義景史跡」と刻銘された石碑
なお、この付近は「名水のまち越前おおの」というキャッチフレーズがついた「義景公園」という場所にもなっている。
夏場などは涼を求めて地元市民などが訪れるようだ。
説明板より
“大野市指定史跡 朝倉義景墓
朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文17年(1548)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文21年(1552)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
【写真左】墓所の配置図
中央に義景の墓があり、少し文字が小さいが、①は鳥居景近墓、②は高徳院・祥順院・愛王丸墓。③は瀧池家墓が建立さている。
義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した。
六坊賢松寺は既に廃寺となっている。場所は定かではないが、今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかとの説もある。
江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政12年(1800)、旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、文政5年(1822)に現在地に移設されたものである。
【写真左】朝倉義景の墓・その1
説明板にもあるように、義景が実際に自害した場所は特定されていない。
しかし、当時逃れた六坊賢松寺という場所が、推測される現在の明倫町曹源寺とすれば、当該墓所から北東へわずか200m余りほどの距離なので、さほどの誤差はないと思われる。
【写真左】朝倉義景の墓・その2
なお、曹源寺は寛政12年(1800)ごろまではあったようで、当時朝倉家旧臣であった松田氏(花倉)が、最初に当院に墓を建立し、文政5年(1822)に、同氏が現在地に移したとされる。
五輪塔の後方には、義景の近臣・鳥居景近と高橋景倍の墓がある。さらにその後方に、義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治44年(1911)に旧家臣の子孫によって建立された。
また、文政9年(1826)に建立された一乗後主廟碑、旧家臣瀧池家の墓、明治34年(1901)に荒廃していた墓所を有志らが募金し、修理した時の石塔がある。”
朝倉義景
朝倉義景については、以前取り上げた一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)ですでに紹介しているが、越前朝倉氏第5代当主である。説明板にもあるように、天正元年(1573)の織田信長との戦いで大敗し、その結果自害している。
【写真左】一乗谷朝倉氏居館
所在地 福井市城戸ノ内町
【写真左】鳥居景近の墓(左)
右の墓は、景近と同じく側近の高橋景倍の墓。
元亀元年(1570)6月28日、織田信長は徳川家康と与し、近江姉川において、浅井長政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)、及び朝倉義景の一族・景健(かげたけ)連合軍と戦い降した。
しかし、その後、9月本願寺光佐(顕如)が、三好三人衆に応じて挙兵、門徒らが信長の陣営を急襲した(「石山合戦始まる」)ため、信長は一旦、朝倉義景・浅井長政と和睦し、岐阜に戻った。
【写真左】義景の母親・高徳院の墓
戒名 高徳院殿昌壽宗繁大姉
一時的といえ和睦の意味が、双方不可侵の形をとっていたわけだが、翌元亀2年(1571)9月、今度は延暦寺衆徒が朝倉義景を支援しているのを知った信長は、これに怒り、延暦寺を焼打ちにした。
また、このころから、信長は将軍として担ぎ出した足利義昭と不和になり、元亀3年(1572)には、「異見十七箇条」を義昭に提示し、失政を諌めた。
これに対し、義昭は翌天正元年(1573)2月26日、武田信玄・本願寺顕如・朝倉義景・浅井長政らと信長打倒の計画を謀った。
【写真左】義景の正室・祥順院の墓
戒名 祥順院月峰清玉大姉
同年4月4日、信長は上洛して、足利義昭を二条城に囲み、7月18日、宇治槙島城にあった義昭を攻め、義昭は河内若江城に逃れた。事実上の室町幕府の滅亡である。
休む間もなく、信長は今度は越前に矛を向け、朝倉義景討伐に向かった。8月20日、信長の猛攻の前に、義景は落ち延び先の大野郡賢松寺で、匿ってくれた従兄弟の朝倉景鏡の裏切りによる襲撃に遭い、ここに自害した。享年41歳。
義景辞世の句
七顛(転)八倒 四十年中 無他無自 四大本空
かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ
【写真左】瀧池先祖累代之墓
旧家臣瀧池家の墓である。
なお、義景の息子愛王丸の墓については、管理人は確認していないが、戒名は次の通り。
戒名 華林宗春大居士
【写真左】義景庵
全体が公園となっており、一角には「義景庵」と命名された休憩所が建っている。
城下町のため、通りの道幅は狭いが、奥にしっかりとした観光客用の駐車場も設置されている。
【写真左】越前大野城を遠望する。
ほぼ真北に越前大野城の天守が見える。
●所在地 福井県大野市泉町
●指定 大野市指定史跡
●備考 義景公園
●参拝日 2014年6月17日
◆解説
前稿越前・大野城(福井県大野市城町)でも紹介したように、大野城の麓には一乗谷を本拠とした朝倉義景の墓がある。この場所は、織田信長に攻められ、大野郡(市)に逃れたが、最後は裏切った同族の朝倉景鏡に襲撃され、あえなく自害した所といわれている。
【写真左】「朝倉義景史跡」と刻銘された石碑
なお、この付近は「名水のまち越前おおの」というキャッチフレーズがついた「義景公園」という場所にもなっている。
夏場などは涼を求めて地元市民などが訪れるようだ。
説明板より
“大野市指定史跡 朝倉義景墓
朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文17年(1548)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文21年(1552)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
【写真左】墓所の配置図
中央に義景の墓があり、少し文字が小さいが、①は鳥居景近墓、②は高徳院・祥順院・愛王丸墓。③は瀧池家墓が建立さている。
義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した。
六坊賢松寺は既に廃寺となっている。場所は定かではないが、今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかとの説もある。
江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政12年(1800)、旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、文政5年(1822)に現在地に移設されたものである。
【写真左】朝倉義景の墓・その1
説明板にもあるように、義景が実際に自害した場所は特定されていない。
しかし、当時逃れた六坊賢松寺という場所が、推測される現在の明倫町曹源寺とすれば、当該墓所から北東へわずか200m余りほどの距離なので、さほどの誤差はないと思われる。
【写真左】朝倉義景の墓・その2
なお、曹源寺は寛政12年(1800)ごろまではあったようで、当時朝倉家旧臣であった松田氏(花倉)が、最初に当院に墓を建立し、文政5年(1822)に、同氏が現在地に移したとされる。
五輪塔の後方には、義景の近臣・鳥居景近と高橋景倍の墓がある。さらにその後方に、義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治44年(1911)に旧家臣の子孫によって建立された。
また、文政9年(1826)に建立された一乗後主廟碑、旧家臣瀧池家の墓、明治34年(1901)に荒廃していた墓所を有志らが募金し、修理した時の石塔がある。”
朝倉義景
朝倉義景については、以前取り上げた一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)ですでに紹介しているが、越前朝倉氏第5代当主である。説明板にもあるように、天正元年(1573)の織田信長との戦いで大敗し、その結果自害している。
【写真左】一乗谷朝倉氏居館
所在地 福井市城戸ノ内町
【写真左】鳥居景近の墓(左)
右の墓は、景近と同じく側近の高橋景倍の墓。
元亀元年(1570)6月28日、織田信長は徳川家康と与し、近江姉川において、浅井長政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)、及び朝倉義景の一族・景健(かげたけ)連合軍と戦い降した。
しかし、その後、9月本願寺光佐(顕如)が、三好三人衆に応じて挙兵、門徒らが信長の陣営を急襲した(「石山合戦始まる」)ため、信長は一旦、朝倉義景・浅井長政と和睦し、岐阜に戻った。
【写真左】義景の母親・高徳院の墓
戒名 高徳院殿昌壽宗繁大姉
一時的といえ和睦の意味が、双方不可侵の形をとっていたわけだが、翌元亀2年(1571)9月、今度は延暦寺衆徒が朝倉義景を支援しているのを知った信長は、これに怒り、延暦寺を焼打ちにした。
また、このころから、信長は将軍として担ぎ出した足利義昭と不和になり、元亀3年(1572)には、「異見十七箇条」を義昭に提示し、失政を諌めた。
これに対し、義昭は翌天正元年(1573)2月26日、武田信玄・本願寺顕如・朝倉義景・浅井長政らと信長打倒の計画を謀った。
【写真左】義景の正室・祥順院の墓
戒名 祥順院月峰清玉大姉
同年4月4日、信長は上洛して、足利義昭を二条城に囲み、7月18日、宇治槙島城にあった義昭を攻め、義昭は河内若江城に逃れた。事実上の室町幕府の滅亡である。
休む間もなく、信長は今度は越前に矛を向け、朝倉義景討伐に向かった。8月20日、信長の猛攻の前に、義景は落ち延び先の大野郡賢松寺で、匿ってくれた従兄弟の朝倉景鏡の裏切りによる襲撃に遭い、ここに自害した。享年41歳。
義景辞世の句
七顛(転)八倒 四十年中 無他無自 四大本空
かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ
【写真左】瀧池先祖累代之墓
旧家臣瀧池家の墓である。
なお、義景の息子愛王丸の墓については、管理人は確認していないが、戒名は次の通り。
戒名 華林宗春大居士
【写真左】義景庵
全体が公園となっており、一角には「義景庵」と命名された休憩所が建っている。
城下町のため、通りの道幅は狭いが、奥にしっかりとした観光客用の駐車場も設置されている。
【写真左】越前大野城を遠望する。
ほぼ真北に越前大野城の天守が見える。
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