2015年2月6日金曜日

平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)

平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)

●所在地 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
●指定 国指定史跡
●備考 平泉寺城
●創建 養老元年(717)
●開祖 泰澄
●遺構 砦等
●登城日 2014年6月17日

◆解説
 平泉寺白山神社については、先般越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)二曲城(石川県白山市出合町)で取り上げたように、中世越前・加賀国で勃発した一揆の際、深くかかわった寺院城郭である。
【写真左】白山神社・本殿













 現地の説明板より・その1

"平泉寺白山神社説明文

 福井、石川、岐阜の三県にまたがる白山(標高2702m)、古くから信仰の山として、富士山や立山と共に日本の三名山と仰がれました。そして白山は、福井県が生んだ偉大な宗教家泰澄大師によって開かれ、ここ平泉寺白山神社も、大師によって養老元年(717)に創立されました。
【写真左】平泉寺白山神社境内案内図
 主だった史跡は現在の尾根沿いに立ち並んでいるが、当時はこの寺社を中心として麓及び、南北の谷間にも多くの家が建ち並んでいたといわれている。


 以来、平泉寺は、白山の表参道として、更に中世には、48社36堂6000坊が建ち並び、多くの僧兵を擁して大いに栄え、この時代には福井県(当時の越前)の宗教、文化、武力、の中心として、強大な勢力を誇っていたと伝えられています。
 ところが、天正2年(1574)に加賀の一向一揆の乱入によって、全山ことごとく焼失してしまいましたが、豊太閤の時に再興され、尚白山を管理していましたが、明治4年(1871)に白山は、加賀に編入され、同時に神仏分離の命令によって寺号を棄てて白山神社となって今日に至っています。

 しかも今猶大社の面目を残し、全盛時代を物語る参道の石畳、本社前の大石垣、大拝殿当時の礎石をはじめとして、老木が左右に立ち並んでいます。更に600年前に建てられた楠木正成公の墓塔や、永平寺奉納の石燈籠など、数多くの史跡に富み、平泉寺城址として国の文化財に指定をされています。

 また、この境内には慶長年間に造られたといわれる旧玄成院庭園があり、国の文化財に指定されています。このように境内がそのまま史跡であり、数多くの文化財が保存されている所は、他には見当たりません。”
【写真左】参道入り口付近
 ここから石畳を使った緩い坂道がしばらく続く。








上掲の説明板と重複するが、もう一つのものも転載しておく。

現地の説明板より・その2

“白山神社
   福井県勝山市平泉寺町鎮座

御祭神  本社   伊弉尊(いざなみのみこと)
       別山社  天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
      越南知社(おおなむちしゃ) 大己貴尊(おおなしちのみこと)(大国主命)

創建   養老元年(717)
【写真左】六千坊旧蹟 塔頭
 天台宗霊應山顯海寺(けんかいじ)
 参道入り口付近の左側に残る。
なお、この近くには泰澄大師廟があったのだが、写真に撮ってない。


由緒

 当社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。大師は白山登拝の途中林泉(今の御手洗池)を発見され、そこで白山の神の託宣をうけられ、当地が神明遊止の聖地なのを知り、社を建てて、白山の神を奉斎されたのに始まる。

 白山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれ、後世一般に平泉寺の名で知られたため、寺院であるかのようにおもわれてきたが、本来神社である。
 平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。
【写真左】最初の鳥居



 鎌倉時代のはじめ、兄頼朝に追われた源義経が奥州平泉に落ち延びる途中、当社に詣でたことが『義経記』に見え、鎌倉末の後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して、当社の僧兵が大野郡牛ヶ原の地頭を攻め、滅ぼしたことも『太平記』に見え、著名なことである。

 中世の最盛期には、社領9万石、48社・36堂・6000坊とうたわれ、戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力であった。平泉寺出身の三光坊(さんこうぼう)は、能面師の祖と仰がれている。

 このような当社であったが、惜しくも天正2年(1574)折から係争中の一向一揆のため放火せられ、全山一時に灰燼に帰した。その後約10年にして再興せられ、豊臣秀吉をはじめ、江戸時代に入ると、越前藩主松平家の篤い崇敬をうけ、やがて明治維新に際し、政府の神仏分離令により長年の神仏習合の姿を脱し、本来の白山社に復し今日に至っている。”

城跡としての遺構

 現在残る平泉寺の遺構は説明板にもあるように、天正2年(1574)におこった一向一揆との戦いで、全山が焦土と化したため、最盛期にあった主だった建物などはほとんど焼失している。そして、後に秀吉や江戸期に入ってから再興されている。

 しかし、城砦遺構としては、わずかに砦が挙げられる。これは現在の平泉寺参道を中心とする尾根筋ではなく、北側の谷を隔てた北谷地区側の尾根に残るもので、2か所確認されている。もともと、この北谷に旧平泉寺境内があったとされ、当該砦群も北方の防衛として築かれたものだろう。残念ながら当時探訪した日は少し雨も降り、その場所は踏査していない。

 なお、砦とは別に平泉寺正面に大規模な堀切があったとされるが、この場所がどのあたりなのか管理人には確認できなかった。
 ところで、当社周辺には大変に多くの石積・石垣が現在でも残るが、これらの技術は後の近世城郭築城の基礎となったともいわれている。
【写真左】旧玄成院庭園入口

 説明板より

 “旧玄成院(げんじょういん)庭園

 昭和5年10月に国の名勝に指定された本庭園は、享禄年間(約460年前)に室町幕府の管領・細川武蔵守高国により作庭されたと伝えられ、現存する庭園としては北陸で一番古い庭である。
【写真左】旧玄成院庭園


 様式は枯山水。築山の正面高い所に一際高く立っている石が本尊石で、この石を中心に渦巻状に石が配置されている。

 池の左手奥は滝を模した石組で、池の右に鶴島、左に亀島を配し、亀島の近くには石橋も架けられ、池の前には宝船に形どった一位の木があり、蓬莱の趣を示している。

 なお庭の左隅の五重の石塔には永享6年(1434)の銘があり、沙羅双樹とともに好古の客の喜ぶところである。”
【写真左】本社・拝殿入口前の鳥居
【写真左】奥に拝殿
 この辺りは大変に広く、奥に拝殿がみえるが、そこからさらに上にむかったところに本社がある。
【写真左】拝殿前の通路左側
 現在はご覧の通り何もないが、当時は何らかの建物が建っていたものと思われる。
【写真左】拝殿

説明板より

“拝殿 安政6年(1859)の造営
 天正2年(1574)兵火にかかって焼失する以前は、正面45間という我が国最大の拝殿であった。今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っている。

 その中央部に再建された現在の拝殿は、江戸時代の寄棟造味榑葺(くれぶき)の簡素な建物ではあるが、天平時代の風情をよく残しているといわれる。

 正面入口にかかっている「中宮平泉寺」の額は一品天眞親王(てんしんしんのう)の筆。拝殿内の絵馬は越前藩主松平家以下の奉納にかかり、桃山以降の逸品である。”
【写真左】本社・その1
現地の説明板より

“御本社
  寛政7年(1795)の造営

御祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
 現社殿は越前藩主松平重富公による再建で総欅(けやき)の入母屋榑葺(くれぶき)。昇り竜の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。
【写真左】本社・その2

 御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金剱(かなつるぎ)社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。”
【写真左】納経所

説明板より

“納経所(のうきょうじょ)
平安の頃より六十六部といって、滅罪の経典である法華経を写経して、その一部ずつを日本六十六か所の神社に納めながら諸国を巡礼したが、とくに江戸時代には盛んにおこなわれた。

 越前での納経所は当社だけである。境内にある結(むすび)神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が今も立っている。”
【写真左】三之宮
説明板より
“三之宮
   明治22年の改築
安産の守護神として信仰が厚く、そのために当社は昔から安産の御守りと岩田帯を頒布している。”
【写真左】楠木正成公墓塔
説明板より

“楠木正成公墓塔
  延元年間(約650年前)の建立

 当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北條氏の一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼすなど、官軍との関係が密接であった。
 古い縁起によると、楠木正成公の甥恵秀律師(えしゅうりっし)は、平泉寺衆徒の1人で、延元元年(1336)当社三之宮に参籠していると夢に大楠公が騎馬姿で現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんで、それがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と伝える、
 周囲の石棚と参道は寛文8年(1668)、越前藩主松平光通公の奉納によるものである。”
【写真左】分岐点
 左方向・法恩寺登山口へ、右へ剱の宮へ、手前平泉寺本社へ。

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