2015年2月11日水曜日

吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)

吉崎御坊(よしざきごぼう)

●所在地 福井県あわら市吉崎
●指定 国指定史跡
●築城期(創建) 文明3年(1471)
●築城者(開山) 蓮如
●形態 寺院城郭
●高さ 40m(比高40m)
●参拝・登城日 2014年6月17日

◆解説
 吉崎御坊については、越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)で少し触れているが、本願寺開立の祖・蓮如が文明3年(1471)4月、近江大津の南別所から越前吉崎に下向し、同年7月に当地に建立した寺院城郭である。
【写真左】吉崎御坊遠望
 北西麓側から見たもの。

 吉崎御坊の北麓には現在蓮如上人記念館が建ち、御坊直下には吉崎別院、吉崎御坊願慶寺、吉崎東別院などがある。


説明板より・その1

“吉崎御坊のご案内
 皆さんようこそお参りくださいました。
当、吉崎別院は通称吉崎御坊と呼ばれ、文明3年(1471)本願寺第8代、蓮如上人によって吉崎の山上(通称お山)に坊舎が建てられたことを起源とするものであります。
 現在のお山には、本堂跡を中心に当時を偲ぶいくつかの遺跡があり、室町中世の寺城の様子を今に残しています。
【写真左】東側の入口付近
 比高凡そ40mほどの小丘にあり、狭い道だが車で直接上がることができる。
 写真は東側から西方向を見たもの。


 このお山全域は昭和50年2月、国の史跡に指定されました。
 別院境内には本堂をはじめ、蓮如上人オカタミの御影を安置する中宗堂、また、鐘楼堂、資料館などが建てられています。

 なお、資料館には「嫁威しの面」の物語本光坊火中の殉死の出来事など蓮如上人に関する宝物などが展示してありますので、拝観いただき上人の御遺徳を賛仰していただければ幸いであります。
 どうぞ念力門の階段を登ってお参り下さい。

   本願寺 吉崎別院
   吉崎御坊史跡保存会”
【写真左】祐念坊霊空の墓
 吉崎御坊建立に当たっては多くの協力者がいたが、そのうち自らの屋敷を道場兼番所として提供し、北大門口参道を守ったのが祐念坊霊空である。

 俗名、日山(ひやま)の豪族縣(あがた)重兵衛、吉崎に移住して和田重兵衛と改姓。吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺開祖。

 
蓮如と北陸一向一揆

 蓮如が北陸の地に足を踏み入れたのは、前述したように文明3年(1471)で、彼はすでにこのとき57歳と晩年を迎えていた。

 長禄元年(1457)、43歳で本願寺8世として法燈を継ぎ、しばらく畿内を中心に教線を広めていった。当時本願寺は天台宗青蓮院の末寺の位置づけで、しかも経済的には困窮の極みで、決して恵まれたものではなかった。しかし、蓮如は布教の拡大のためには青蓮院からの独立、すなわち叡山延暦寺からの支配を抜け出す必要があった。

 蓮如は、精力的に近江の湖東・湖南に布教を広めていった。当然ながら、これに対し延暦寺からの反発を招いていくことになる。
 寛正6年(1465)に比叡山延暦寺衆徒らによる本願寺破却が勃発、以後、蓮如は追われるように場所を転々とした。越前・吉崎に蓮如が下向したのは、決して自から望んだものではなかった。
【写真左】見玉尼の墓
 蓮如は生涯で5人もの妻を持つことになる。このため、27人という多くの子息・息女がいた。

 蓮如の初婚は、27歳という当時としは晩婚であるが、最初の妻は伊勢氏の出とされる平良房の娘・如了(にょりょう)である。如了はその後病死したため、わずか14年の夫婦生活であったが、二人の間に4男3女と7人儲けた。

 見玉(けんぎょく)は、この如了との間にできた子で、二女である。このころはもっとも生活が苦しいときで、見玉7歳のとき如了が亡くなり、長男・順如を除いてほとんどが禅寺や尼寺に預けられた。見玉はその後度重なる不幸が続き、京都から父蓮如を頼って吉崎にやってきたが、病に罹り、26歳の生涯を終えた。死ぬ間際には吉崎御坊が完成し、父と共に喜びながら浄土へ旅立ったという。
 

 しかし、のちに蓮如が真宗教線のために確立した「講」や「御文」などが、この吉崎において花を開き、吉崎御坊は瞬く間に多くの参詣者を集め、当地には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒を連ね、吉崎は巨大な宗教都市を生むことになる。

 ところで、吉崎は現在の福井県あわら市にあって、北隣の石川県加賀市と接している。こうしたことから、越前と加賀の両国と常に関わる場所でもあった。ちなみに、吉崎御坊から600m程北に進むと、大聖寺川が流れており、同川を6キロほど遡ると、以前紹介した大聖寺城(石川県加賀市大聖寺錦町)に至る。
【写真左】本堂跡と刻銘された石碑
 同坊跡のほぼ中心部に祀られている。


説明板より・その2

“吉崎御坊の本堂跡
 文明3年5月吉崎へ下向された蓮如上人は、この御山の地形が大変よいとして原始林を伐り開き整地をして、7月27日から門徒衆の働きによりかたのごとく御坊を建立し、諸国から集まる多くの門徒に真宗の御法をおときになった。

 照西寺(滋賀県多賀町)の古絵図によると、本堂は南面し柱間5間4面、正面中央に向拝があって、中に御本尊と親鸞聖人の御影像を安置し、本堂の西側に庫裡と書院があった。

 吉崎御坊は文明6年(1474)3月28日、火難にあいその後再建したが、翌年8月21日再び戦国の動乱で焼失し、上人は4年余りで吉崎を退去された。その後、永正2年(1506)三度火災にかかり、御坊跡は荒廃のままとなった。”


 二曲城(石川県白山市出合町)の稿でも紹介したように、蓮如が吉崎御坊を建立し、布教を開始して凡そ1年、蓮如は御坊を一時閉門し、門徒の出入りを停止した。

 この理由は定かでないが、翌文明5年(1473)9月、湯治を目的に山中温泉に向かった。心身ともに疲れていたのであろう、このころから彼には上洛の意志があったとされるが、すぐには京に向かわず、一旦は加賀の藤島に足を止めた。
【写真左】蓮如上人の銅像・その1
 同坊跡の南側に建立されている。
高村光雲作で、光雲四大作の一つといわれ、昭和9年10月完成。高さ5m、台座約7m。
【写真左】蓮如上人の銅像・その2
 上人は北の日本海を眺めるように立っている。








 北陸や上越地方は元々親鸞聖人が足跡を残したところであり、しかも、加賀藤島には本願寺5世・綽如が創建した超勝寺がある。蓮如の藤島行きとは、事実上この超勝寺を拠点とした旅であった。

 藤島に滞在して約1か月、吉崎の多屋衆・門徒宗から、蓮如に御坊・吉崎に戻ってほしいとの要請が湧き上がった。同年11月、蓮如は再び吉崎で報恩講を開催した。ところが、その翌年の文明6年3月吉崎御坊は火災に遭った(下段の「本光坊了顕の墓」参照)。
【写真左】本光坊了顕の墓
 文明6年3月の火災のおり、了顕は親鸞聖人直筆の教行信証六巻の中信の巻、を猛火の中飛び込み、聖教を抱えたまま壮烈な殉教の死を遂げたという。



 布教の道場が焼失したのもつかの間、以前から確執のあった加賀守護富樫家の内紛により、富樫政親から蓮如に対し支援依頼が届いた。

 政親は弟・幸千代と敵対し、一時幸千代に追われていた。この内紛は元を辿れば、応仁の乱が引き金となったものだが、幸千代が真宗高田派と与していたことから、蓮如は止む無く政親に協力する態度を示した。
【写真左】西から北側の急斜面
 本格的な山城遺構のようなものはないが、比高40mの小丘部に設けたことや、こうした急傾斜面が、東から西にかけてあることを考えると、多少は防衛上の観点も考慮したものだったと考えられる。


 戦いの結果、幸千代を滅ぼしたが、その戦いの主戦力は加賀門徒をはじめとする一向一揆衆であった。彼らはその後、さらなる勢力を拡大し、守護として返り咲いた政親にとっては逆に脅威となっていった。当然ながら、政親と蓮如との信頼関係は揺らぎ、さらに蓮如自身も彼ら門徒衆が限りなく武装化した集団となることを危惧していた。

 文明7年(1475)3月、ついに加賀一揆衆は、富樫政親によって破れ、主だった者は越中へ奔った。7月、蓮如は敗走した門徒たちを追って越中井波瑞泉寺までたどり着いた。おそらくこれは、弟子の一人で一揆を扇動した下間蓮崇を質す目的もあったのかもしれない。
【写真左】御坊跡から北方を俯瞰する。
 御坊の北麓縁には西側から伸びてきた北潟湖が見え、中央の小山(鹿島神社)の左側の水道を介して石川県から流れてきた大聖寺川が合流し、そのまま日本海へ注ぐ。

 蓮如が吉崎を退去する際は、この海路を使って舟で若狭小浜に向かったとされる。


 8月、越前・加賀国の一向一揆衆は、もはや蓮如が思い描いた門徒衆とはなり得なくなったのだろう、下間蓮崇を破門し、同月21日、吉崎を退去した。

 その後、加賀国では長享2年(1488)6月、再び盛り返した加賀の一揆衆は、遂に富樫政親を滅ぼし、ここに門徒領国、すなわち「百姓の持たる国」を誕生させた。

 吉崎を退去した蓮如はその後、京に戻り文明10年(1478)山科に本願寺を造営、長享の一揆の翌年、寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居所を構えた(山科本願寺跡(京都府京都市山科区西野阿芸沢町)参照)。
 蓮如の最後の事績となったのが、82歳となった明応5年(1496)9月に、大坂御坊(後の石山本願寺)を造営したことである。そして3年後の明応8年(1499)、85歳の波乱に富んだ人生を終え遷化した。
【写真左】宝物館・太鼓堂
 吉崎御坊跡を降りて、麓に向かうと最初に目に留まるのがこの太鼓堂である。

 真宗大谷派別院(東御坊)の建物で、別院本堂が竣工する2年前の延享2年(1745)、越後下関の関三左衛門によって、大工小屋として建てられたという。



【写真左】念力門


説明板より・その3

“念力門の由来
 この門は天正19年(1591)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので、元治元年(1864)「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により、「火消門」ともよばれた名高い門であります。

 昭和24年(1949)11月西本願寺より御下附(当時輪番福井正善寺住職・巨橋義信師)100余名の信徒によって京都から250粁(約60里)16台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれたものです。

 なお、念力門の名は西本願寺第23世・勝如上人によって命名されました。ちなみに、この石碑の裏面には次のように刻まれております。…(以下略)”
【写真左】大谷派 吉崎別院(東別院)
 この他江戸期に建立された建物が並んでいる。

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