新田義貞戦没伝説地
●所在地 福井県福井市新田塚
●別名 新田塚(燈明寺畷 新田義貞戦没伝説地)
●指定 国指定史跡(1924年12月9日)
●遺構 なし
●出土品 鉄製冑
●探訪日 2014年6月17日
◆解説
前稿越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)でも紹介したように、今稿では新田義貞が自刃したといわれる「新田義貞戦没伝説地」を取り上げる。
現地の説明板より
“国指定史跡
燈明寺畷(とうみょうじなわて)
新田義貞戦没伝説地
明暦2年(1657)農民がこの地の水田から鉄製冑と掘り出した。当時の藩軍学者井原番右衛門がこれを暦応元年(1338)閏7月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。
福井藩主松平光通は万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏7月2日、新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。
以後、この地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。
福井市教育委員会”
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その1
道路側からみたもの。
出土品と比定地
当地は、大正13年(1924)12月9日に国の指定を受けているが、近年になって、出土品のうち、鉄製冑が義貞時代すなわち南北朝期のものでなく、戦国時代の様式(小田原鉢)のものだと指摘されるようになっている。
こうしたことから、比定地についても若干の疑義があるようだが、当時の義貞と斯波高経らが戦った場所は、多少の誤差はあったとしても、この新田塚付近であることは先ず間違いと思われる。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その2
東側に社を置き、境内はおよそ南北60m×東西30mの規模の持つ。
燈明寺(畷)
当地の西の脇を南北に走る芦原街道(県道5号線)を北に進むと、九頭竜川に至るが、その街道の東と九頭竜川に挟まれた地区は、灯明寺町と呼ばれている。
実際に同町内に同名の寺院もあるが、この区内を東西に走る馬渡川が流れており、燈明寺畷(なわて)という名が示すように、当時は築堤されていない九頭竜川水系が不定形に流れ、湿地帯の中に田圃が点在していたような地勢であったと思われる。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その3
新田義貞を祀る社が奥に建立されている。これがおそらく藤島神社だろう。
新田氏の本貫地は上野国(群馬県)新田郡新田荘で、源義国を祖とし、新田氏8代である。
本殿前には、新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」の入った賽銭箱が置いてある。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その4
横から見たもの。
燈明寺城
なお、義貞が斯波高経らの諸城を攻略するために築いたとされる向城・燈明寺城の所在地については、本稿の戦没地から芦原街道をさらに北へ約1キロほど向かったところにある現在の白山神社付近といわれている。
江戸時代の地誌『越前国城跡考』という史料には、「24間四方のうち、掻き上げ形あり」と記されていることから本格的な築城ではなく、あくまでも暫定的な使用を目的として築かれたという。
近くにあったものの、残念ながら管理人はこの場所については当日探訪していない。ただ、幸いに、Googleのストリートビューで白山神社が確認できるので興味のある方はご覧いただきたい。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その5
周辺部は公園のような扱いとなっているようだ。
新田義貞の墓
燈明寺畷において自刃した義貞であったが、その頸(首)は黒丸城の斯波高経のもとに届けられた。当初、この首が誰のものであるのか分からなかったという。そこで高経が首実検をしたところ、義貞に似ており、眉の上の矢傷及び、所持していた名刀・鬼切丸を見て、彼であったことが分かった。
【写真左】新田塚の碑
境内に建立されている。
その後、高経は直ぐに時宗の陣僧8名を現地に派遣して遺骸を収容し、坂井市丸岡町の称念寺に送り、葬儀を執り行った。しかし、頸は再び京へ送られた。おそらく足利尊氏において、直に実検する必要があったのだろう。
尊氏はこのあと、北朝光明天皇より征夷大将軍に任じられた。同年・暦応元年(1338)8月11日のことである。
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脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
(にったよしさだせんぼつでんせつち)
●所在地 福井県福井市新田塚
●別名 新田塚(燈明寺畷 新田義貞戦没伝説地)
●指定 国指定史跡(1924年12月9日)
●遺構 なし
●出土品 鉄製冑
●探訪日 2014年6月17日
◆解説
前稿越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)でも紹介したように、今稿では新田義貞が自刃したといわれる「新田義貞戦没伝説地」を取り上げる。
現地の説明板より
“国指定史跡
燈明寺畷(とうみょうじなわて)
新田義貞戦没伝説地
明暦2年(1657)農民がこの地の水田から鉄製冑と掘り出した。当時の藩軍学者井原番右衛門がこれを暦応元年(1338)閏7月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。
福井藩主松平光通は万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏7月2日、新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。
以後、この地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。
福井市教育委員会”
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その1
道路側からみたもの。
出土品と比定地
当地は、大正13年(1924)12月9日に国の指定を受けているが、近年になって、出土品のうち、鉄製冑が義貞時代すなわち南北朝期のものでなく、戦国時代の様式(小田原鉢)のものだと指摘されるようになっている。
こうしたことから、比定地についても若干の疑義があるようだが、当時の義貞と斯波高経らが戦った場所は、多少の誤差はあったとしても、この新田塚付近であることは先ず間違いと思われる。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その2
東側に社を置き、境内はおよそ南北60m×東西30mの規模の持つ。
燈明寺(畷)
当地の西の脇を南北に走る芦原街道(県道5号線)を北に進むと、九頭竜川に至るが、その街道の東と九頭竜川に挟まれた地区は、灯明寺町と呼ばれている。
実際に同町内に同名の寺院もあるが、この区内を東西に走る馬渡川が流れており、燈明寺畷(なわて)という名が示すように、当時は築堤されていない九頭竜川水系が不定形に流れ、湿地帯の中に田圃が点在していたような地勢であったと思われる。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その3
新田義貞を祀る社が奥に建立されている。これがおそらく藤島神社だろう。
新田氏の本貫地は上野国(群馬県)新田郡新田荘で、源義国を祖とし、新田氏8代である。
本殿前には、新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」の入った賽銭箱が置いてある。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その4
横から見たもの。
燈明寺城
なお、義貞が斯波高経らの諸城を攻略するために築いたとされる向城・燈明寺城の所在地については、本稿の戦没地から芦原街道をさらに北へ約1キロほど向かったところにある現在の白山神社付近といわれている。
江戸時代の地誌『越前国城跡考』という史料には、「24間四方のうち、掻き上げ形あり」と記されていることから本格的な築城ではなく、あくまでも暫定的な使用を目的として築かれたという。
近くにあったものの、残念ながら管理人はこの場所については当日探訪していない。ただ、幸いに、Googleのストリートビューで白山神社が確認できるので興味のある方はご覧いただきたい。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その5
周辺部は公園のような扱いとなっているようだ。
新田義貞の墓
燈明寺畷において自刃した義貞であったが、その頸(首)は黒丸城の斯波高経のもとに届けられた。当初、この首が誰のものであるのか分からなかったという。そこで高経が首実検をしたところ、義貞に似ており、眉の上の矢傷及び、所持していた名刀・鬼切丸を見て、彼であったことが分かった。
【写真左】新田塚の碑
境内に建立されている。
その後、高経は直ぐに時宗の陣僧8名を現地に派遣して遺骸を収容し、坂井市丸岡町の称念寺に送り、葬儀を執り行った。しかし、頸は再び京へ送られた。おそらく足利尊氏において、直に実検する必要があったのだろう。
尊氏はこのあと、北朝光明天皇より征夷大将軍に任じられた。同年・暦応元年(1338)8月11日のことである。
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