2015年2月20日金曜日

越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)

越前・丸岡城(まるおかじょう)

●所在地 福井県坂井市丸岡町霞町1
●別名 霞ヶ城
●指定 天守(国重要文化財)
●築城期 天正4年(1576)
●廃城年 明治4年(1871)
●築城者 柴田勝豊
●城主 本多氏、有馬氏
●形態 連郭式平山城、独立式望楼型2重3階
●登城日 2014年6月16日

◆解説
 越前・丸岡城(以下「丸岡城」とする)は、現存天守では最古の建築様式をもつ平山城である。

 昨年(2014年)6月に当城を含め北陸地方を探訪した際、最初に訪れたのがこの丸岡城である。当地に着いたのが、夕方の5時前だったこともあり、登城できるのか不安だったが、なんとか天守まで登ることができた。
【写真左】丸岡城
 現存する12天守の中では、小ぶりな部類に入るが、漆喰と木製の壁をバランスよく配置したデザインは管理人の嗜好に合う。



現地の説明板より

“丸岡城の今昔
 丸岡城の歴史は、柴田勝家の養子(甥ともいわれる)である柴田勝豊が、織田信長の一向一揆の征伐後の1575年に丸岡町豊原の山に城を築いたときから始まります。でもその時の城は、城とはいっても一時しのぎの砦のようなものだったと考えられます。
【写真左】案内図
 現地に設置されているもので、中央に丸岡城があり、その周りが霞ヶ城公園となっている。

 丸岡城の南東には城主一族の1人有馬家墓所がある高岳寺があり、その西には本多家墓所の本光院、そしてそこから西に向かったところには、後段で紹介する中野重治生家跡や、新田義貞墓所がある称念寺が図示されている。


 勝豊は翌年の1576には、「まるこの岡」に移って本格的に築城をはじめました。これが丸岡城です。これは、やがて国内の統一が進み、戦のための城より、領内を治めるための意味を持つ城となっていきました。
【写真左】登り階段付近
 右の階段を上がると丸岡城に繋がる。左の建物は歴史民俗資料館だが、この日は既に閉館時間を過ぎていたため、入館していない。



 勝豊以降、丸岡城の主は、柴田勝家滅亡後に丹羽長秀家臣の青山修理亮宗勝に替わりました。

 そして関ヶ原合戦後結城秀康が越前国主として福井城に入ると、丸岡城主は秀康の家老の今村掃部助盛次になりましたが、結城秀康の子である松平忠直の時代になって、家老の本多伊豆守富正と今村掃部助盛次間での争いが起き、それに破れて改易となった盛次に替わって、1613年、城主になったのが本多成重でした。
【写真左】天守前の緑地
 当城の周辺部は公園として整備されている。天守閣以外の遺構はほとんど公園整備のためほとんど残っていないようだ。



 以後、丸岡城は本多家(43,000石)が4代、有馬家(50,000石)が8代の城主を経て、明治維新をむかえました。

 城郭や城下町は、本多家の時代、成重から三代重昭の間に完成したとされています。丸岡城天守閣の建築年は定かでありませんが、勝豊の時代か、遅くとも成重の時代までには建てられていたようです。現存する天守としては、日本で最も古い様式を残しています。”
【写真左】伝説「人柱お静」
説明板より

"これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。

 お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は〝お静の涙雨″と呼び、小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしおお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。”


 説明板にもあるように、築城者は柴田勝家の甥・勝豊とされ、天正4年(1576)に築かれた。従って、前稿の北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目)築城の翌年、すなわち織田信長が安土城を築いた年と同じである。
【写真左】再現模型
 当時の様子を再現したものだが、内濠は五角形の形をなし、天守郭部分の規模に比べ、かなり大きなものだったことが分かる。


日本一短い手紙

 ところで、管理人にとって、丸岡城について最初に知るきっかけとなったのは、
 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
で有名になった、「日本一短い手紙」からである。

 これは、徳川家康の家臣・本多重次(しげつぐ)が、のちに丸岡城主となる息子・本多成重に宛てた手紙である。天正3年(1575)、当時三河の長篠の戦に従軍していた重次が、妻に宛てた手紙で、文中の「お仙」というのは、成重の幼名・仙千代のことである。
【写真左】1階部分
 中に入るとご覧のような展示物が掲示されていてる。

 丸岡城が他の現存天守と根本的に違う点は、通し柱が使われていないことである。
 1階部分で上階(2,3階)の荷重を全て支える構造のため、特に1階では多数ある柱のうち、6本の柱が大きく、これと連結された巨大な梁が横たわり、当時としては特異な設計だったと考えられる。


 手紙が差しだされた時期を考えると、重次の妻はまだ三河国にいたころで、丸岡城や越前国と直接の繋がりはないが、その後慶長18年(1613)に「お仙」すなわち、成重が丸岡城主になったことからこの手紙が、丸岡城と併せて知られることになったのだろう。
【写真左】2階に上がる階段
 急勾配で蹴上高が高い。階段というより梯子に近い。








 丸岡城主になって間もない、翌慶長19年(1614)、成重らは越前国主・松平忠直に従い大阪冬の陣に出陣する。晩年、忠直が改易(元和9年・1623)になった際、幕府に召し返されるなど不運が続くが、寛永元年(1624)、譜代大名となって城下町の建設に尽力した。
【写真左】天守閣から丸岡の街並みを見る。
 丸岡城の高さはあまり高くないが、周囲も全体に平坦地が多く、遮るものがなく、当時は城下と併せ、所領地の大半がこの場所から俯瞰できたものと思われる。



中野重治太閤さんまい

 さて、話は変わるが、当地丸岡町は戦前戦後にかけて活躍したプロレタリア作家・中野重治の生誕地でもある。場所は同町一本田という丸岡城から西に1キロ余り向かったところだが、残念ながら管理人は今回訪れていない。

 重治の妻は、個性的な演技で特に老婆役で一世を風靡した名女優・原泉である。二人とも既に故人だが、この原泉は島根県松江市の出身で、実は管理人の遠い縁戚にあたる。
【写真左】側面を見る。
 壁には狭間や石落としなどが見える。









 ところで、重治の生誕地である一本田には、「太閤さんまい」と呼ばれる中野家墓地がある。この名の由来は、太閤検地の際、先祖が検地でやってきた担当武士らに対し、いろいろと便宜を図ったことから、その礼として土地を与えられたという。
【写真左】石垣
 野面積み形式となっている。
 この中で「人柱」として「お静」さんが眠っているということだろうか。





 ちなみに「さんまい」はおそらく「三昧」の字をあてるものだろうが、北陸地方では「さんまい」は「火葬場」もしくは「墓地」といった意味があるので、太閤検地の際、最初からこの土地の使用目的を墓地として決めたうえで与えたものだろう。
【写真左】マルクスブルク城・丸岡城姉妹城提携調印記念の石碑
 1989年4月、ドイツのラインラント=ブファルツ州ブラウバッハにあるマルクスブルク城と姉妹城の提携を結んでいる。

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